2006.06.17 なんじゃもんじゃと合格神社




とくに意味もなく、ふらふらとヽ(´ー`)ノ



仕事でちょっとした案件があり、休日の午前中だけ出社した。午後は特に予定も無いので野崎街道付近を流してみた。



 

■なんじゃもんじゃ




お目当ては、なんじゃもんじゃである。これまで何度も目の前を通りながら、面倒で一度もその正体を確認したことがなかった。こういう灯台元暗し的な場所は実はたくさんある。




これが、なんじゃもんじゃである。木が主役なのか神社(祠)が主役なのかは判然としない。俗説としては水戸黄門説が伝えられている。

曰く、 「ここを通りかかった水戸黄門が、この木は何じゃと聞いたところ誰も答えられなかったことから なんじゃもんじゃの木と呼ばれるようになった」 という。しかし同じ話は実は関東地方一円に広く散らばっており、実は各地に何本もの 「なんじゃもんじゃの木」 があるのである。




社のほうは雷電神社とある。カミナリサマを祀る神社は北関東に際立って多いが、どうしてなんじゃもんじゃの木とセットになっているのかは不明である。 結論としては 「なんだかよくわからない」 ということで謎だけが残った。うーん(^_^;)



 

■合格神社




なんじゃもんじゃを過ぎて数百mほど南に向かう。




次なる謎ポイントは、合格神社である。




ここのスゴイのは徹底したローコスト経営にある。鳥居はなんとプラスチックの水道管で出来ている。100円ショップ並みのアイデア賞ものだと思うが、これには神様もびっくりだろう。




由緒書きは足場用鉄パイプとホワイトボードで、実に漢(おとこ)らしい質実剛健さであった(^^;)。祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと=稲荷)と菅原道真とあり、神社の設立は明治初期であるらしい。




二の鳥居、三の鳥居は鉄パイプ製でやはりローコスト仕様である。…が、ここでは別に神社の貧相な状況を笑うために掲載している訳ではない。

実はここは明治期の那須野ヶ原開墾の拠点になったところなのである。西那須野付近の開拓地は1区〜4区まであり現在でも地名として残っている。ここはそのうちの1区の入植地の世話人となった開墾社の渡辺勇吉夫妻の家があったところで、合格神社は新開拓地の鎮守としてつくられたのである。つまり、ここは開拓のお社(やしろ)だったのだ。




その鎮守としての神社が衰退したのは戦後まもない頃のことである。誰がどのような命令を出したのかは不明だが、神社由緒書によると 「強制分割」 に遭って規模縮小となったと書いてある。この付近はGHQによる農地解放政策で土地を取り上げられた開拓農家が多く、その絡みなのかも知れない。




社殿は、プレハブ小屋だった。おそらく近所の人がほとんど私費で管理しているのだろう。




本来なら賽銭箱のある位置に、かつて鳥居を飾ったであろう石彫りの額が置いてあった。今は埋もれてしまった小さな歴史を象徴しているようだ。




さて経営的には苦しいであろう合格神社だが、ここが凄いところで、現在でもちゃんとお参りして絵馬を奉納していく受験生が存在するのである。襤褸は着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜ!ヽ(´ー`)ノ




そんなわけで、あまり綺麗なオチがつかないけれど、おしまいヽ(´ー`)ノ

<完>