■2007.01.04 大田原神社/護国神社




とりあえず、ふらふらと ヽ(´ー`)ノ



正月も4日となるともう初詣という感じではなくなるけれど、実は近くにありながら大田原神社/護国神社にはあまり立ち寄ったことがなかったので、この機会に訪れてみた。今回はこの大田原神社と、隣接する護国神社について書いてみよう。

大田原神社は大田原城の付属施設としてつくられており、大田原の総鎮守として鎮座している。もとは那須温泉神社の末社であったらしく、祭神も温泉神としてポピュラーな大己貫神と小彦名神である。

…が、今回はどちらかというと護国神社について書いてみたい気分なので、そちらに軸足を置いてレポートしてみたい。



■ 大田原城と護国神社




さてまずは大田原城について軽く触れてみたい。 大田原城とその周辺の地勢を語るとき、戦略拠点としての機能について考えねばならない。

大田原城は蛇尾(さび)川を天然の堀として、南北に伸びる丘陵地の南端に位置する。地形的にはもともと城郭から山の手までが連続した丘陵地となっていたのだが、江戸時代初期にここを切り通しにする工事が行なわれ、奥州街道の 「門」 のような構造になった。 白河城のような派手さはないものの、奥州⇔関東の交通の要衝におかれた要塞のような存在である。

戊辰戦争では大田原藩は新政府軍についたため、奥州軍(会津勢)との戦いの最前線となり、激しい攻撃をうけることとなった。藩士の奮戦により落城こそまぬかれたが、このとき城の建物は消失し、城下町も大半が焼け落ちている。




このときの奮戦で戦死した藩士および新政府軍兵の死を悼み、板垣退助、木戸孝允、大久保利通らによって招魂社が建立された。招魂社は戊辰戦争の戦死者のうち新政府軍側の者を祀る神社として設立され、長州下関から始まって全国に分布し、それぞれの地域で国のために戦死した者を祀っている。




ちなみに現在の靖国神社はこれら招魂社のうち東京招魂社が改名したものである。東京以外の招魂社は昭和14年の内務省令で1県1箇所を原則に護国神社と改名した。栃木県では宇都宮招魂社が栃木県護国神社となったが、激戦地であった大田原招魂社もこのとき護国神社として存続することとなった。




由緒書きには、さすがに設立のきっかけとなったのが革命戦争なので表現に容赦がない。会津兵は 「賊軍」 「賊兵」 として記されている。

とはいえ大田原の人々が現在もこれを根に持って会津を恨んでいるかというと、そんなことは全然ないのである。むしろドラマや映画の題材になる白河城攻防戦や白虎隊などのエピソードは知っていても、大田原城の攻防は知らないことのほうが多かったりする(いやホント…存在が地味すぎるのか幕末ドラマでもほとんど無視されますね大田原って…^^;)。

このあたりは、世代がすっかり変わっているのだから、歴史は歴史として別物として考えるべきなのだろう。とりあえずは、今年も日本の平和と筆者の財布事情にご加護を与え給え…



■ 大田原神社




さて護国神社は基本性格が慰霊なので、正月参賀としては七福神を祭る大田原神社のほうがふさわしいだろう。…ということで、隣接する大田原神社の参道を行く。

大田原の七福神は、まとめて大田原神社に祀られている訳ではなく、城下7箇所の神社仏閣に1柱ずつ祭られている。その7箇所とは 大田原神社(恵比寿)、光真寺(大黒天)、不退寺(毘沙門天)、成田山(弁財天)、長泉寺(福禄寿)、正法寺(寿老人)、洞泉院(布袋) である。寺と神社がごちゃ混ぜなのは明治維新における神仏分離令によるもので、もともとは神社と仏寺は習合していたのである。


・・・

…で、社殿に到着はしてみたのだが…ご開帳のはずなのに誰もいない(^^;)

雅楽が聞こえてくるので誰かいるのかと思いきや、無人でラジカセがエンドレスにテープを流しているだけだった。…さすがに正月も4日目だと、こんなものかな。




仕方がないので色紙だけ見届けて目的達成と判断(笑) ・・・なんだかあっけないけど、まあ日本の神様はアバウトで寛大だからよしということで( ̄▽ ̄)




■おまけ




ところで境内で変な狛犬?を発見した。・・・なんだこれは。




お稲荷様が大田原神社に併設されているところをみると、デッサンがすっ飛んではいるけれどどうやら狐らしい・・・




それにしても、石工によってずいぶん違うものが出来上がるものだな。




世の中には狛犬マニアのような特殊な趣味をもった人がいるらしいけれども、稲荷マニアというのはあまり聞いたことがない。…そのうち暇ができたら調べてみようかしらん。


【完】