2007.05.01 蟇沼用水を訪ねる(その1)




那須疏水を巡った勢いで、蟇沼用水も訪ねてみましたヽ(´ー`)ノ




蟇沼(ひきぬま)用水は那須野に引かれた最古の用水といわれる。慶長年間(1596〜1615)の開削といわれているのでその歴史はざっと400年ほどといえるだろう。那須野の開拓は那須疏水の開通を枕詞に語られることが多いが、それ以前にも用水路を通そうとする試みはたびたび行われており、蟇沼用水もそのひとつである。ただし用水の量は那須疏水と比べれば微々たるもので、とても荒地に一面の美田を拓くような余力はなかった。当初のもっぱらの用途は飲用水の確保だったようである。

蟇沼用水は当初蟇沼、折戸、上横林、横林、接骨木など蛇尾川上流域の村が共同で開削し、接骨木までの水路であった。のちに大田原城下まで延長され、城の飲用水とされたといわれている。

※ここでいう村とは現在の "集落" 程度の概念であり規模としては10〜20軒くらいと思われる




さて今日は雨模様。視界がどうもいまひとつだな。




天候はともかく、まずは取水口を目指して蛇尾川上流を目指す。蟇沼集落は蛇尾川の南側に位置するが、取水口(荻平)を見るためには北側の砂利採取場をかすめて上流側にアタックする必要がある。ここはダム工事の資材搬入路にもなったところだが、工事完了から10年以上が経過し草木に埋もれつつある感がある。




地図をみれば分かるとおり、ここの地勢は絵に描いたような扇状地である。取水口は谷間から川が流れ出していく上端に位置している。ここを過ぎると河原は一気に幅600mの広大な石原になり、水は厚く堆積した砂礫の底に浸透してしまう。取水口はそのギリギリのところにつくられている。



■取水口




さてそんな訳で蟇沼用水の取水口にやってきた。現在の取水口は近代的な取水堰方式になっている。右側にの崖に穴がふたつ開いているのは明治時代の旧取水口である。




歴史遺産としては旧取水口のほうが趣のある風体である。手掘りの素朴な洞窟で、内部は半ば土砂に埋もれている。開削時には現在よりももう若干水面が上だったような印象だ。




ここから下流域ではもうすぐに水が地下に浸透してしまう。それはもう見事な水流の消えっぷりで、ここから旧取水口は本当にぎりぎり水が浸透してしまう直前に作られていたことが伺える。




取水口から500mほど下ったあたりで急に視界が開け、大な砂礫の原が広がる。ここから先が国内最大の複合扇状地、那須野ヶ原である。




さて取水された水はどんなルートを辿るのだろう。反対側の河岸に渡り、東京電力の発電施設を過ぎて藪の中を進んでいくと、取水口から抜けてきた用水出口が見えてくる。水量は那須疏水の数十分の一といったところだろうか。取水口からはざっと200mくらいと思われる。

最初に開削されたときは農民による手彫りであって、こんなトンネルが最初からあったとも思いにくい。 さきほど見た取水口は明治以降の工事の産物だが、オリジナルはもっとささやかに木組みの通水路などを引っ張って、堀を作れるこのあたりまでつないだのではないかと想像してみる。




取水された水は、非常に狭い河岸段丘の崖っぷちを通って下っていく。そして途中で東京電力の発電所の水流とクロスする。この水はもっと遥か10kmほど上流から地下水路で引っ張ってきたもので、安戸山の斜面から落としてここで発電タービンを回しているらしい。




タービンを回した水はいったん蟇沼用水に合流するが、すぐに蛇尾川に再分水 → 放水されている。もちろん放水されてもすぐに河原に染み込んでなくなってしまうので、砂漠に水を注いでいるようなものだ。 いったん合流させるような水路構造になっているのは蟇沼用水の水量調節も兼ねているらしい。




発電所を過ぎてからの蟇沼用水は、若干水量を加増されたかな?…という状態で流れ下っていく。




■蟇沼神社




取水口から800mほど下ったところに神社があった。名前も由緒書きもないので仮に蟇沼神社と呼んでおこう。中を覗いてみると、蟇沼の水神が祭ってあるようである。




中は真っ暗なのでD70sの ISO-1600 の感度に任せて 「えいっ!」 と撮ってみた。どうやらこれが蟇沼の神様らしい。大正3年に奉納された 「沼太神」 の額と、昭和11年に奉納された↑額がみえる。沼太神は四羅白王神、白龍王神の二柱で、ともに大蛇の姿をしている。日本の古い信仰のかたちがどういうものか、なんとなく感じさせてくれそうだ。




ちなみにかつてここに存在した蟇沼は、江戸時代末期の蛇尾川の氾濫で流されてしまったそうで現在は残っていない。ただ往時を偲んで、こんな山奥に蟇沼の名を冠した釣堀をオープンした粋な?地主さんがいる。ただ来客はというと・・・限りなく微妙だが(^^;)

蟇沼については釣堀の案内板が非常に参考になる。大きさは幅七間(13m)、長さ18間(32m)ほどで永和年間(1375-1378)の頃から沼のちかくに集落が形成されたらしい。日照りのときには満水に、長雨のときは渇水になるという不思議な沼で、ゆえに引沼と称したという。のちに産卵期にガマが押し寄せるというので転じて蟇沼となったそうである。沼には大蛇が棲むという伝説があり、江戸時代には蛇尾川下流の住民が雨乞いに訪れることもしばしばだったという。




さて、それでは用水にそって下っていこう。




ここは旅と写真のサイトなので一応綺麗どころも載せておく。写真はヤマブキの花。この季節、そこらじゅうに咲いている。雨に濡れるのもまた好し・・・というところだろうかヽ(´ー`)ノ


<つづく>