2007.06.28
沖縄紀行:琉球八社を巡る −1日目ー (その5)
■ 平和祈念資料館(あくまのぷろぱがんだしせつ)
さて、ここでは沖縄県平和祈念資料館の紹介をするのだけれど、ものの考え方というのは人それぞれで、筆者とは異なる意見をお持ちの方もいると思う。ここに示すのはあくまでも筆者の目から見た感想である。
なおさんざん前振りしておいて恐縮なのだけれど(^^;)、常設展示は撮影禁止となっているので、ヴィジュアルに関しては入場券と一緒に配布されている解説ペーパー、および資料館で購入した書籍からの引用でご容赦願いたい。写っているのは展示品と同じものだ。
さてまず最初は、琉球王国時代から日本敗戦までの沖縄県庁の歴史認識が示される。↑これをみて一見してわかるとおり、この段階でもう沖縄県(というか県庁内の平和・男女共同参画課)の立場が反日・反皇室のいわゆるサヨク思想であることが見てとれる。
写真のペラ紙1枚の案内書ではあっさりとしか書いていないが、実際の展示ではもっとネチネチと明治以降の日本の歴史非難が続く。展示には欧米列強の世界分割→アジア植民地化やアヘン戦争、明治維新の起こった時代背景などの説明は完璧に無視されており、ある日突然日本が暴発的な軍備拡張をしてアジア侵略を開始したような説明になっている。筆者的には、なんだかこの空間だけが1960年代の安保闘争の世界観に支配されているような錯覚を覚えた。
こちらは陣地を構築している風景。敵が来ることが分かっているのだから防衛準備をするのは当然だと思うのだけれど、地元民の労働力を動員すると「悪」になるらしい。無防備宣言でもして黙って占領されたほうがよかったのだろうか。敵軍に占領されるとどういうことになるか、当の沖縄県民が一番よく知っている筈なのだが・・・。
ちなみに展示では日本軍の防衛活動を非難するばかりで、「では、どうすれば良かったのか」 という分析や考察は一切示されていない。・・・というか、するつもりもないんだろうな。
さらに、沖縄県民は常に被害者で日本軍は敵である、という主張が延々と続く。いちいち蝋人形で場面を再現しなくてもよさそうなものだが、とにかく悲惨だ、悲惨だ、ひどい目に遭った、と感情論に訴える展示が続く。
また、適当な写真がないのでヴィジュアルに紹介できないが、隣の部屋では新聞の切り抜きや証言が壁一面に大量に並んでいる。内容はというと・・・
日本軍が住民虐殺!
家族を始末しろと脅す
私は見た!
日本軍による住民の壕追い出し!
スパイ視虐殺!
食料強奪!
日本軍の強制による集団死!
傷病兵の遺棄!
幼児虐殺!
朝鮮人虐殺!(←なんだよこれ)
・・・もう、ポカーン というくらいに憎悪の波動に満ち満ちているのである。まるで住民犠牲のすべてが日本軍のせいだ、と印象づけようとしているかのよう。おい、米軍の攻撃は "鉄の暴風" だったんだろ? すこしはバランスってものを考えないのか。
また展示では日本語と英語で説明文が掲示されているのだけれど、英語の説明のほうが内容がどぎつい。たとえば日本語の説明では "住民に多くの犠牲を強いた" 程度の内容が、英語では "日本軍は数千人の沖縄市民を殺した" などの表記になっている。これはどう好意的に解釈しても、客観性のある公平な展示とは思えない。英語圏の外国人が来館した際に日本のイメージが低下するように意図的に仕組まれているとみるべきだろう。
映像展示は、とにかくグロテスクな死体の写真がたっぷりである(上記写真では露骨な部分はよく見えない)。ビデオ上映もやっていたが残念ながら閉館間際だったのでじっくり見ることはできなかった。それにしても・・・これ、ハエのたかる幼児の死体とか、生焼けの兵士の遺体とか、本当に修学旅行の小中学生に見せるのか?
こちらは資料館で販売していた総合案内からの引用。これは投稿を呼びかけにきた地元民を日本兵が射殺しようとしているところ。なんだかなぁ。
驚くべきことに、蝋人形やミニチュア展示には米国兵士の姿はまったく無い。改めて言うまでも無いが、沖縄戦は米軍と日本軍の戦闘であって、島内では両軍の激戦が続いていたのである。・・・にもかからず、ここでは沖縄県民vs日本軍兵士 という構図の展示にばかり力が入っていて、米軍兵士は戦後の占領統治開始まで存在感がまるで無い。それまでは地図の上の矢印でしかないのである。なんてこった。
これは係員氏に聞いてみたら 「当館で一番大きく展示しております!」 といわれた写真である。実は急いで通り過ぎてしまって 「そういえばアレを確認しなかったぞ」 と思い後から係員に聞いてみた(汗)。実際には無修正で大伸ばしにされているのだけれど、手足がちぎれてバラバラに吹き飛んでいるのが忍びなく、ここではモザイクをかけさせていただく。 以前は集団自決(もちろん日本軍の強制)の現場写真とされていた有名な写真である。
現在では米軍側から 「砲撃による死」 との説明があり、展示の扱いも集団自決から一般的な 「住民犠牲」 へと修正がなされている。いずれにしても60年間も晒し者にされつづけている仏さんに合掌・・・南無南無・・・。
・・・それにしても、残虐!残虐!と叫び続ける割に、死者に対する 「ご冥福を祈ります」 的な言葉って一切無いんだな、ここって…(-_-)
戦後統治の半分くらいのあたりで閉館時間となったので、以降は流し見程度で外に出た。
それにしても、やはり何度見ても目眩を覚えるような偏向展示である(-_-)。この後味の悪さは、内容の悲劇性というよりも、そこに込められた悪意によるものだ。この "平和祈念資料館" の展示全体を通して感じるのは、なによりも
これは日本人の感覚とは違うだろ
という強烈な違和感なのである。戦没者に対する日本人の感覚というのは基本的に 「安らかに永眠ください」 であって、間違ってもホトケ様の生々しい遺体写真を大伸ばしにして 「どうです、ほら悲惨でしょ!」 と貼り出したり、蝋人形で残虐シーンを再現したり、大袈裟に 虐殺!虐殺!虐殺!・・・などと連呼したりはしない。そんなものは、明らかに日本文化とは異質なものだ。たとえば・・・そう、南京大虐殺記念館 とか 朝鮮民族資料博物館 などを作ってしまう、あの感覚に近いように思う。とにかく、なにかこう、物凄く異質な何かが沖縄県には紛れ込んでいるのである。
案内板に、設立の理念だけは立派なことが書いてある。
しかしここに展示されているのはご都合主義の箱庭世界だ。"悪の帝国ニッポンが、ある日突然世界侵略をはじめ・・・" という、特撮ヒーロー番組並みの陳腐な歴史観が、しかし入念に考え抜かれた 「歯の抜けた櫛(くし)のような年表」 によって飾られている。日本軍が決死の覚悟で沖縄を守ろうとしたことは意図的にカットされている。いや、「必死」 といえばその通りかもしれない。ここに展示されている日本兵は蝋人形か死体写真かの2種類しかいない。文字通り "必ず死んで" いるわけだ。
真面目な話、沖縄県に問いたくなった。沖縄防衛のために飛び立った1800機もの特攻機のことはどう思っているのか? 菊水作戦での戦艦大和の特攻については? 全部お前たちを救うためだったんだぞ?
…どちらも、資料館には何の展示もない。"完全無視" である。170ページもある資料館総合案内にも一言の紹介も無い。素直な感想を言わせてもらえば、ここは平和運動を隠れ蓑にした、ただの反日施設としか思えなかった。
こんな電波施設に、毎年40万人もの来館者があるという。その半分は修学旅行生だ。インターネットの普及で最近はサヨク的なプロパガンダが通りにくくなっているご時世とはいえ、免疫のない子供達がこの電波を浴びたら、いっぺんに沖縄病を発病してしまいそうだな・・・
■ 栃木の塔
さて気分をとりなおし、国立戦没者墓苑のほうに歩いてみた。すでに西日とはいえ日射は強烈なので霊園の向こう側までいく気力はない(汗)。しかし筆者は栃木県人なので、栃木の塔には寄って行こう。
これが栃木の塔である。平和記念公園には各県ごとに戦没者慰霊碑が建っている。ここは南方戦線で戦死した栃木県出身者31000人余の慰霊塔で、中央の銘板は県内産の足尾:庚申御影石、台座部は大谷石が使われている。
戦没者に手向ける言葉。やっぱり、日本人の慰霊の感覚はこういう真摯なものでなければならない。
・・・さて静かに英霊の冥福を祈ろう。南無南無。
余談になるけれども、各県慰霊碑の集中する霊園エリアには、肝心の沖縄県民の慰霊碑は存在しない。筆者はてっきり一番巨大で公園施設の中心を成している "平和の礎" がそうだと思っていたのだけれど、案内板には慰霊碑ではありませんと堂々と書いてあって非常な戸惑いを覚えた。
沖縄戦を象徴する "平和記念公園" にあって、他県県民の慰霊碑はあっても肝心な沖縄県民の慰霊碑が無いという不思議。これは復帰後の沖縄に浸透していった左翼勢力の思想と照らし合わせると符号するところがあり、実は最初から慰霊などするつもりはないのだと理解すれば実にスッキリと辻褄が合う。
沖縄県民および戦没者の本来の慰霊施設は護国神社である。それをインパクトで凌駕する巨大な "単なる名簿の列" を作って慰霊行事の会場を神社から引き剥がし、本来の慰霊の式典をさせない。さらには隣接してこれまた巨大なプロパガンダ施設を作って "平和の美名" のもとに反日工作を行う。 神社と日本の伝統的な信仰の構造を知ったうえでこの連中の所業を見ると、 「これは悪魔の所業だ!」 としか言いようがないのだが…(-_-;) 本当に、沖縄県庁の職員は今すぐ一人残らず全員死ねよ、と筆者は素朴に思わずにはいられない。
※沖縄左翼については、これ以上話を引っ張ると旅の雰囲気がぶち壊しになるので、いったんここでカットします( ̄▽ ̄;) 気が向いたら別途考察した結果を追記するかもしれません。
<つづく>
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