2007.06.29
沖縄紀行:琉球八社を巡る −2日目ー (その4)




■ 戦跡碑




ふたたび島の中央=尾根路のような r186 に戻り、くねくねと島の南部を目指す。道路がところどころ赤い舗装になっているのが何とも不思議だったが、あとで聞いたところこれは5年ほど前に集中豪雨で道路が大規模に崩れたのを修復したものらしい。災害時の教訓から雨天時スリップしにくい舗装材を選んだのだそうだ。




そんなまだら色の道路を進んでいくと・・・




途中に戦跡碑があった。それにしても、沖縄はどこに行っても戦争の記憶が残っているな・・・




頭を使わない予定の渡嘉敷紀行だったけれど、1日目の平和記念資料館のインパクトが強烈だったので、慶良間戦について少し書いてみる。

慶良間諸島は沖縄戦の最初の上陸戦のあったところである。米軍は沖縄本島攻略の足がかりとして1945年3月末、まずここを占領し兵站基地とした。飛行場を3本抱える伊江島(本島本部半島沖5km)への侵攻を予想していた日本軍にとってはこの作戦は意表を突かれたものだったらしく、作戦は後手後手で良いところは何もない。

当時、島にはベニヤ板製の粗末な特攻艇部隊130名およびその支援隊、合計300名程度の部隊しか置かれておらず、結論からいえば勝負にならなかった。特攻隊の隊長は、赤松嘉次氏(故人)。当時若干25歳、階級は大尉である。そして彼の部下は、16〜18歳の少年兵が多かった。




圧倒的な戦力差のため島の主要部分はわずか1日で占領。しかし赤松隊は、貧相な装備でゲリラ戦を展開し、北部山岳地に追い詰められながらも8月23日まで戦闘を継続した。本島で第32軍司令部が壊滅してなお2ヶ月も戦っていたのである。




慶良間の悲劇は、米軍の上陸作戦で日本軍守備隊が蹴散らされていく中、数百人の住民が集団自決したことに象徴される。この事件は "日本軍によって強制された死" として戦後のマスコミによって繰り返し取り上げられ、ついには歴史教科書にも載った。沖縄をめぐる平和運動とか反戦運動では必ず取り上げられてきた定番の事件である。

その取り上げられ方は日本軍や日本国そのものへの憎悪と敵意に満ちている。自決命令を出したとされる赤松大尉は報道/出版を通じて鬼か悪魔のように扱われた。沖縄タイムス社の 「鉄の暴風」 に始まり、有名なところではノーベル賞作家の大江健三郎氏による 「沖縄ノート」(岩波書店:1970年)、教科書裁判で有名な家永三郎氏による 「太平洋戦争」 (岩波書店:1968年)などが挙げられる。




戦後、沖縄の本土復帰のとき、赤松(元)大尉は一度だけ慰霊のために渡嘉敷に渡ろうとしたことがあった。しかし空港で大勢の抗議団体やマスコミ取材陣等に取り囲まれて罵声を浴びせられ、ついに渡航することは叶わなかった。その後は繰り返される誹謗中傷に反論らしい反論もせず、沈黙を守ったまま昭和55年に没している。

そして同氏を 「人非人」 「人面獣心」 と非難するジャーナリズムだけが残った。




・・・が、渡嘉敷島の記念碑に書いてある内容はマスコミや反戦運動家の叫んでいる内容とは違うのである。この碑が建てられたのは昭和54年(1979)3月、沖縄の本土復帰から7年目の集団自決の月である。

そこには日本軍が命令したとする記述はなかった

※その背景については、「ある神話の背景」 (曽野綾子 文芸春秋社 1973年)に詳しいが、この書籍は既に絶版となっている。WEB上で参照できるものとしては、多少毛色が異なるが国会の司法制度改革審議会議事録冒頭に経緯の一部が読める。審議会のテーマは "法曹養成制度の在り方" というものだが、冒頭に陪審制度の問題点に絡めてこの渡嘉敷島の集団自決をめぐる報道/出版の状況が述べられているのである。話をしているのは作家の曽野綾子氏。この碑文の撰者である。渡嘉敷村は戦跡碑を建立するにあたり、大江健三郎や家永三郎ではなくこの曽野綾子氏に碑文の撰を託したのであった。




戦跡碑の付近から、阿波連集落がみえた。

こんな綺麗な海なのに、この島は戦場になったがゆえに色々な矛盾を抱え込むことになった訳だなぁ。現代にあってリアルタイムに島民の傷口を広げて突付き廻しているのは左翼ジャーナリズムと自称 "平和団体" といったところだろうか。毎年終戦記念日の頃になると "虐殺!虐殺!" と繰りかえし続けるのは戦没者や遺族に対するイヤがらせにしか思えないのだが・・・(´д`)

ちなみに渡嘉敷の集団自決の真相については、昨年8月に当時の琉球政府当局者が軍命令を否定する証言を行い、戦後困窮を極めた島民の生活を支援(=戦没者遺族年金支給)するために "書類上そういうことにした" ことがほぼ確定したようである。もちろん反日左翼陣営はそれでは都合が悪いので 今頃になってふたたび "軍命令があった説" の証言を探そうと躍起となっているらしい。島民にとってはさぞ迷惑なことだろう。

<つづく>