2008.02.17 那須塩原市で "不発弾" 発見さる




いわゆるひとつの時事ネタです〜 ヽ(´ー`)ノ


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去る2月12日、那須塩原市内の道路工事現場で不発弾が発見され、新聞等で報道された。場所は埼玉小学校の近くで、同小学校では市役所や教育委員会と連絡を取り合い児童および保護者向けに図のような案内書を配布している。不発弾は米軍の250kg爆弾である。太平洋戦争当時のものと見られている。

処理まで1ヶ月というのは遅すぎるような気もするが、信管を抜くために米軍に当時の爆撃記録との照会や不発弾の型式/構造の問い合わせを行う必要があり、そのための待ち時間のようだ。処理の実務担当は自衛隊である。



さて新聞では具体的な場所が記載されていないのだが、この超地元ローカルな説明書にはズバリその位置が載っている。まあ、近づくなと指導するからには場所を示さなければならない訳で、この措置は至極まっとうなものだ。筆者的には学校や市当局の指導内容は必要十分と考えており、特段の論評を行う立場にはない。




さて案内書の地図はあまりにも地元ローカルすぎてかえって分かりにくいので、もう少し近隣の全体像がとらえられる縮尺でMAPを起こしてみた。位置関係から見れば旧日本軍の埼玉飛行場を爆撃しようとしたものであることは明白で、おそらくは司令部(現・埼玉小学校)または隣接する格納庫を狙ってそれたものかと思われる。

米軍の戦闘記録によると、埼玉飛行場は大田原の金丸飛行場とセットで昭和20年7月10日、同8月13日に空襲を受けている。いずれも茨城県沖に遊弋する空母レキシントンの艦載機によるもので、東京大空襲のような大型機による絨毯爆撃ではなく単発の爆弾投下による攻撃であった。前者は2波、後者は5波の波状攻撃(うち埼玉飛行場は第2、4、5波)で、投下された爆弾は以下の通りである。

【昭和20年07月10日:埼玉飛行場投下分】
攻撃波
発艦 - 帰艦
攻撃機数
投 下 弾
1
9:00 - 13:45
8
260ポンド破砕爆弾 × 16
500ポンド通常爆弾 × 7
ロケット弾 × 24
2
10:00 - 14:50
機銃弾のみ

【昭和20年08月13日:埼玉飛行場投下分】
攻撃波
発艦 - 帰艦
攻撃機数
投 下 弾
2
07:15 - 12:15
3
ロケット弾 × 12
4
13:30 - 16:10
6
500ポンド通常爆弾 × 5
ロケット弾 × 24
5
13:45 - 18:00
4
500ポンド通常爆弾 × 4
ロケット弾 × 24

埼玉飛行場と金丸飛行場は航空機の速度では1分少々で到達できる距離にあるため、爆撃は2つの飛行場をセットにして上空を8の字を描くようにぐるぐると回りながら行われたという。投下された爆弾のうち500ポンド通常爆弾と記載されているのが250kg爆弾(1ポンド≒0.45kgに相当)で、合計16発が投下されている。今回見つかったのはそのうちの1発というこになるようだ。

※データは 那須の太平洋戦争(下野新聞社) より抜粋




さてでは現場に向かってみよう。黒磯文化会館から通称 "国体道路" を青木方面に向かうと、まもなく道路工事現場が見えてくる。黒磯那須北線…という名前で呼ばれても行政関係者以外はピンとこないかもしれない。




不発弾処理待ちのためか工事現場は立ち入り禁止で誰もいなかった。あれ…? ガードマンとやらは週末は休みなのかな(^^;)




場所的には不発弾発見現場は運動場の敷地裏になるので、運動場側からアプローチすることにする。




道路から50mほどの野球場から先が立ち入り禁止となっていた。グラウンド内は往来自由なのでもうすこし現場に近づくことができる。・・・それにしても、もう少し野次馬がいるかと思いきや、誰もいない(^^;)




つくづく思うのだけれど、日本民族は約束事を実に律儀に守る。こんな紙一枚で安全措置が徹底してしまうなんて、外国ではちょっと考えられない。諸外国と比べて治安維持のコストが比較的低く済むのは、こんなところにも遠因があるのかもしれないな・・・(^^;)




かくいう筆者も下手に爆死して新聞記事になる趣味はないので、望遠レンズで捉えられる範囲の状況確認以上のことはしないことにする。発見場所とされる箇所に一台パワーショベルが止まっているけれど、あのへんがそうなのかな?




あたりは山林が伐採された跡の切り株が広がっていた。道路工事そのものはずいぶん前から進んでいたのだが、どうやら今回の発見は周囲の山林の樹木を切り倒して造成しようとしたところで土中(1mほどの深さ) から爆弾を掘り出してしまったようだ。

付近は栃の葉国体(昭和55年)のときに運動公園として造成され道路も通ったが、たまたま今回の現場は山林のまま手付かずで残っていた。そんなわけで、大戦末期に投下された爆弾は目標を外れて林間に落下したのち、やわらかい土にめり込んだまま60年以上も放置されることになったわけだ。




その爆弾発見位置からわずか数十mの体育館では、この日なにかのスポーツ大会(参加しているのは中学生くらい?)が開かれていた。面白いのはマスコミが騒ぐほどに一般人が動じていないところで、雰囲気としては 「へえ、不発弾ね」 くらいのインパクトでしか受け止めていないところだろう。

それが社会の成熟具合の証なのか、単なる無関心なのかはインスタントに判断することは難しい。しかしまあ、これが地元の不発弾に対する反応の現実だったりするのである。うーむ( ̄▽ ̄)




■後日談




1ヵ月後…と言われていた撤去作業は、2週間ほど予定をオーバーして3月26日に処理された。信管付近は錆付いていて分解できなかったようで、結局先端の信管部分全体を切断するという荒業で処理されたようだ。自衛隊のみなさま、任務ご苦労様・・・♪

ともかく、これで那須塩原市の不発弾騒動(…騒いだのはマスコミだけだけどw)は収束したのでありました。ちゃんちゃん。


<おしまい>