2009.02.01 〜五族協和の夢の跡〜 南ヶ丘牧場(その1)




寒い時期はやっぱりペチカの前でロシア料理だよな、と思い立ち南ヶ丘牧場に行って参りましたヽ(´ー`)ノ



南ヶ丘牧場は那須を代表する観光牧場のひとつである。那須湯元にほどちかい原野を切り開いて拓かれ、那須高原/那須野ヶ原の開拓農地の中では最も山側近くに位置している。施設は通年営業しているが、この時期は観光牧場としてはオフシーズンにあたり、人影はまばらだ。しかし視点を変えてみれば、この季節だからこその味わいも見出せる。それはちょっと変わったお食事処としての顔だ。




さて出かけたのは休日の午後。毎度の如く雪雲がかかっている那須の山々だが、雲というよりも舞い散る雪そのものが遠景として見えていると思えばよい。日本海でたっぷりと水分を蓄えた大陸からの季節風が山脈を越えながら日本海側に大雪を降らせ、その最後の降雪を那須の山々に残して、関東平野側に空っ風ととて吹き下ろしていくその境界がみえているのである。




そんな境界の山麓を板室温泉を経由して山麓道路を湯元へむかって進む。積雪は少ないが風は冷たい。あたりには乾いた(…と表現するのが適当なくらいにサラサラの)雪が舞っていた。




付近を流浪する猿の群れも、木の皮や雑草などを食(は)みながら寒さに耐えているようだ。




そして到着した南ヶ丘牧場。うーん…やっぱりオフシーズンだけあって閑散としているなぁ(^^;)
しかしオフシーズンといっても牛馬や羊などの世話は必要なので職員氏は仕事をしているし、売店やレストランも営業している。筆者のようにちょっとメシでも…というノリで訪れる場合は、この時期はむしろゆったりとくつろげるという点で具合が良い。

この変形鳥居のような門は開拓初期からのものらしい。当初は現在のような観光を意識した牧場ではなく、湯元温泉や那須登山に訪れた観光客がときどき訪れる程度だった。それを歓迎して牛乳や黒パンなどを提供したところ好評を得たというのが、現在の観光牧場路線の基点となったようだ。




ところでこの牧場は、アメリカ風でもスイス風でもなく、ロシアンテイストが他にはない特徴となっている。それもヨーロッパに近いロシアではなく、ウラル以東のシベリアンなロシアだ。…それは、この牧場が形成されるに至った経緯に多少の理由がある。

そんな訳で、今回はメシを食いに来ただけなのだけれど、せっかくなので少し風呂敷を広げてそのへんの話をしよう。それは日本の近現代史とつながっている。多少長くなるがお付き合い願いたい。




■それは満洲から始まった




さていきなりだが戦前の東アジアの地図(1932)である。
この頃は日本の領土は現在の2倍ちかくあり、満州事変を経て中国大陸東北部には満洲国が成立している。満洲国はロシアの南下圧力に対する緩衝地帯として日本が後ろ盾になって成立させた国家である。…が、時代背景を説明すると長くなるので詳しく知りたい方は映画 「ラストエンペラー」 でも見ていただきたい(爆)

南ヶ丘牧場の創始者、岡部勇雄氏(故人:前社長)はこの時期、満州国に開拓団の一人として入植している。昭和恐慌を経て日本では海外で一旗上げようとする移民志向が強かった時期があり、政府もこれを後押ししていた(※)。特に満洲国は国籍法上の "国民" の規定が曖昧で、日本国籍を捨てることなく入植ができる点で開拓民にとって比較的行きやすい入植先だったようだ。

そこでは満人/蒙古人/漢人/日本人/朝鮮人の共存共栄を目指すいわゆる五族協和が唱えられ、日本から盛んに資本も投下されたため、満州国は急速な経済発展を遂げていた。まもなく始まった日中戦争、太平洋戦争では満洲国は中立の立場をとり、戦禍らしい戦禍には巻き込まれずに比較的平和裏に国土が温存された。

※満洲以外では北米カリフォルニア州(途中から移民排斥法により不可となる)、ブラジル移民やペルー移民など米州の行き先が多かった。




岡部氏が入植したのは満州国の版図の中でもソ連との国境ぎりぎりに近い三河(サンガ)という草原地域である。北緯50度を越える高緯度地方で、夏は白夜とまではいかないまでも午後11時くらいまで太陽が輝き、日の出は午前3時という風土であった。冬になると気温は零下50度まで下がり、夏であっても地面を2mほども掘れば永久凍土に突き当たった。ただしそれでも表土は豊かな黒土で、麦などを撒けば肥料なしでもそれなりの収量を上げることが出来たという。

興安嶺という山脈で満州国の主要地域と隔てられたこの土地は、地形的にはむしろモンゴル平原の一部といってよく、モンゴル遊牧民とロシア人コサックの世界であった。満州国全体ではロシア人は全人口の1%にも満たないが、この草原地域ではコサック式の酪農が最も成功していたため、開拓民は特にこれに注目し、多くを学び取り入れた。

その学び方は極めて濃密なもので、入植の初年はロシア人農家に住み込みで冬を越し、まさに寝食を共にするものであった。馬鈴薯の作付けではやはりロシア人部落から牛を借りて耕作をしたという。コメなどまったく取れない気候風土の中では "郷に入れば…" を徹底する必要があったようで、住まいの造りから食習慣、耕作地の地割や放牧地の置き方など、なんでもロシア人のすることを真似たのである。そしてこのロシア式酪農で日本人開拓団は次第に生活基盤を整えていった。




現在は絶版になっている 「三河 その青春の碑」 (※ 1976,古沢敏雄/南ヶ丘牧場) によると、この付近にいた露人の出自は、ロシア革命(1917〜)の動乱後ザバイカル(裏バイカル)地方を追われたコサック農民らしい。三河地方で最大の部落(居住地の意)はドラゴチェンカといい、ロシア人のほかブリヤート人や満人なども雑居していたようだ。

その生活スタイルは自給自足を基本とし、出来た産品は協同組合を通じて外部に販売もしていた。協同組合では自前設備で牛乳をバターやチーズ等の最終製品に加工して販売まで行っており "一次産品を作った後は換金してお終い" と思っていた日本人入植民に新鮮な驚きを与えたらしい。

ちなみに彼らの経済は作物や乳製品を張付け(書類上の納品) したぶんだけ後で日用品を購入できるというもので、現金をあまり介在させない間接物々交換のような方式であった。なんだかコルホーズの真似事みたいに見えなくもないが、筆者には論評できるだけの経済学の素養はないので、現地ではそれなりの合理性があって取り入れられたのだろう…とだけ思っておきたい( ̄▽ ̄)。

※この本は筆者が購入したAmzonマーケットプレイス(古書)では結構な高値がついているのだが、実は南ヶ丘牧場の売店で定価(\780)で購入することができる(^^;) 史料本としても興味深く読める。




満洲時代の入植地の名前=三河(サンガ)は、現在でも牧場施設の名として使われている。やはり、それなりに深い思い入れのようなものがあるのだろうな…(´・ω・`) ちなみに岡部婦人はこの時代、現地人からロシア式の家庭料理の手ほどきも受けたらしい。牧場のレストランで出されるロシア料理はそれに由来するものだという。




…しかし日米開戦後、次第に日本の敗戦色が濃くなると、平和な日々も終わりを告げることになる。ヤルタ会談、原爆投下を経て、1945年8月9日ソ連軍は日ソ不可侵条約(※)を一方的に破棄し、電撃的な侵攻を開始したのであった。この地域を守備していた関東軍は兵力を南方戦線に引き抜かれて弱体化していたため、ほとんど一方的なタコ殴りにあって瓦解してしまう。

国境線ぎりぎりにいた開拓団は慌てて退避を始めたが間に合わず、興安嶺を越えて一ヶ月あまりも逃避行を続けた果てにソ連軍に拘束され、収容所送りとなった。帰国できたのは翌年になってからである。貴重品その他の所持品はすべてソ連兵に略奪され、無一文となっての帰還であった。

※日ソ不可侵条約の対象地域には日本領以外に満州国も含まれていた

<つづく>