2009.03.28 那須基線:縦道を行く(その1)




桜の季節を目前に、那須基線を走ってまいりましたヽ(・∀・)ノ



那須基線とは明治11年に那須西原に設けられた測量基準線のことである。明治政府は近代化の一環として欧米の測量技術を導入して国土の正確な地図の作成を試みたが、その際に関八州の測量基準として那須野ヶ原と相模野に基線が設けられた。基線を定めるというのは三角測量を行う際の最初の一辺を定めるということで、この両端が決まると第3点目(=測量目標)は基線からの角度を測るのみで決定できる。こうして求めた第3の点(三角点)を順次やりくりしながら網の目を増やしていき、全国をカバーしていったのである。

我が国における基線測量は明治6年に勇払基線(北海道開拓使)、同11年に那須基線(内務省地理局)、同15年に相模野基線(陸軍省)が測量されている。当時は精密な地形図はそのまま軍事情報でもあったためか、地図の作成は最終的に内務省から陸軍省の管轄となり、実際に全国を覆う大三角点網の基準として採用されたのは陸軍省参謀本部測量課(=現在の国土地理院)の測量した相模基線のほうであった。

全国測量の基線としては採用されなかった那須基線ではあったが、那須野ヶ原の開拓事業にあたっては地割の基準のひとつとして扱われ、この線に沿って道路と那須疎水第4分水が通された。基線の長さはおよそ10.6kmあり、道路のほうは縦道(たてみち)、疎水のほうは縦堀(たてぼり)と呼ばれている。自然発生的な旧い道と異なり、ここにはきわめて真っ直ぐな道路が延々と延びている。今回はその縦道を訪ねてみたい。

※理論的には基線は1つ決定すれば十分だが、実際には正確を期すため全国で13箇所の基線測量が行われた。
※人によっては縦道を 「開拓道路」 と称することもある。標識上の表記は 「たて道」 である。




■観象台(南端)




さてまずは基線の南端側の基準点=観象台から初めてみよう。「観象台」 という呼び名は緯度を求めるために天文観測を行ったことから付いたものらしい。経度については軍用電信を用いて計測したそうで、おそらくはグリニッジとの時差から経度換算している筈なのだが詳細はよくわからない。

測量当時(明治11年4月9日〜6月11日)、ここには高い櫓(やぐら)が組まれ、北側の観象台とお互いに目視確認ができたという。その観象台跡は、縦道の直線の終端部(大田原市実取)に現在も残っている。地図でみると縦道の直線が観象台の直前で曲がっているが、これは測量が終了してからも櫓がしばらく残っていたので道路のほうがそれを避けて造成されたものと思われる。




いつもの出発点=那須塩原駅方面からアプローチしていくと、ニコンの倉庫がひとつの目印になる。以前は石材店を目印にする人が多かったようだが、現在では石屋は(有)高橋運送なる運送業者の資材置き場になっているのでちょっと注意が必要だ。観象台跡は直線部分が終わって道がカーブし始めた少し奥…ちょうど写真の矢印の付近にある。




運送屋さんのすぐ南側に空き地があり、奥側が一部舗装されている。ここが観象台の跡地である。縦道 (この付近ではカーブして直線からは外れ初めている) からは50mほど西側で、一応は道路からも視界は通るのだけれど、余程注意していないと見過ごしてしまいそうな地味な立地となっている(^^;)




これが観象台跡である。実際の標識はこの石室の中に収められており、蓋をはずさないと見ることはできない。測量が陸軍の管轄になって以降、内務省の設置した三角点石柱はほとんど抜き取られて (※おそらく陸軍設置分と紛らわしいため) しまったのだが、ここは土に埋もれていたせいか処分を免れ、戦後の発掘で当時のものと思われる標識が発見された。現在は使われておらず歴史的モニュメントとして保存されているのみである。

"使われていない" 背景としては、明治政府内における内務省と陸軍省の管轄争いがあったらしい(^^;)。内務省年報に那須基線測量の技術顧問として英国人 コリン=A=マクヴィン、ヘンリー=シャボーなる技師の名前があるが、これは内務省が英国式に準拠した測量計画を立てていたことを示している。一方、陸軍は独逸留学で測量学を学んだ田坂虎之助陸軍工兵大尉の影響が大きかったようで、こちらは独逸方式で測量計画を立てていた。先行していたのは内務省だったのだが、最終的に管轄が陸軍省となったことで彼らが自前で測量した相模野基線が正式採用されたらしい。




ちなみにその2mほど北側に、国土地理院による現役の三角点標識が設置されていた。こちらは生きた三角点だが、那須基線とは直接の関係はないらしい。扱いとしては三等三角点で、1/25000の地図を作成する際の基準点である。




■縦道を行く




さて南端を確認したところで、さっそく縦道を進んでみよう。話題の性格上道路写真ばかりで申し訳ないが(^^;)、みどころのひとつとしては正面に見える山(鴫内山)の位置に注目して欲しい。真っ直ぐ延びる縦道は、あの山を常に正面に見据えて延びている。観象台(南端)から山までの距離はおよそ20kmある。

南北の観象台間の距離は、測量結果によれば 10628.310589m だったという。どうやって1μm(ミクロン)の単位まで測ったんだよ!…とツッコミのひとつも入れたくなるけれど、これはおそらく何度も計測した結果を平均して概念上の距離を出したもののように思われる(※)。

実際の計測はヒルガード桿という直径9mm、長さ4mの精密な棒(両端は三脚で支える)を繋いで計測したという。これでもうまく測れば5kmあたり1mm程度の誤差で計測できたそうだから、なかなか侮れないものだ。

※理系の人からすると有効桁数いくらだよとツッコみたいところではある(^^;)




測量では、ヒルガード桿を物理的に繋いでいく作業、および北端/南端の観象台の櫓(やぐら)を見通すために、その経路にあたる直線状の区域で草や樹木を刈り取る作業が行われた。何を隠そう、その即席の直線空間こそがこの縦道の原型なのである。

冬季の那須下ろし(山から吹き降ろす強風)が収まってから梅雨入りまでの3ヶ月間、大勢の住民が借り出されて草刈り、整地などを行った。それが踏み固められて開拓道路へと変貌していったのである。




それは、那須疎水よりも、国道4号開通よりも、国道400号開通よりも、そして鉄道開通よりも先に那須野に開けた開拓のプロローグといえる出来事だった。

のちに印南丈作、矢板武らの興した那須開墾社が入植したのは、この原・縦道の周辺の短冊状の地域であった。南から順に一区、二区、三区、四区と分けられた地区割りは現在も町名としてそのまま残っている。そのすぐ北東側にはやはり短冊状に華族農場が立ち並び、こちらには官費で塩原街道(R400)が通されることになった。これが縦道終端と交差するのは、松方農場(現・千本松牧場)の南端である。




さて写真は二区町の辺りである。やがて新幹線の高架橋が見えてきた。写真では見えていないが下を東北本線(宇都宮線)が通っており、縦道は立体交差で両者の間隙を抜けていく。




架橋の上から見る縦道。鴫内山に向かってまだまだ真っ直ぐ延びているのがわかる。道の右側の歩道になっている部分は那須疎水第四分水(縦堀)で、現在はコンクリートの蓋がかかって暗渠になっているが、かつてはこれが地区を支える "命の水" であった。




この周辺には梅の木が多く、白梅/紅梅ともよく目に付く。東京ではもう桜が咲いて今週末が花見のピークだそうだが、まだまだ那須野は梅の季節が終わっていない。




途中で標識を見かけたのでせっかくだから撮ってみたヽ(´ー`)ノ

わざわざ平仮名で書く理由というのがよく分からないけれど、現在この道の公式名称は 「たて道」 という表記になっている。面白いのは "町道幹1−1号線" の表記で、ここからも縦道がこの付近で最も初期に造られた主要幹線道路であることが読み取れる。




さてさらに進んでR4と交差する縦道。R4はかつての原街道である。三島県令の命により原街道は国道に格上げされ拡充されていくのだが、もちろん時期的には縦道のほうが古い。




相変わらず鴫内山を正面に真っ直ぐ延びる縦道。観象台の櫓がどの程度の規模であったかはよく分からないが、10km以上も離れたところから目視で見えたというのだから、よほど大きくて立派なものだったのだろう。筆者の不健康な視力では、10kmどころか1km先の住宅ですら見通すのは容易でない。




さてそろそろ三区町に入ったようだ。




周囲の水田を見渡してみる。みな那須疎水の恩恵で開けた美田である。那須疎水よりも山側では山間の水を使える一部地域を除いて、畑作か酪農が主になっており、水の量が作物の内容を分けている。それは開拓地の立地の厳しさを反映した風景である。

縦道は、そんな景色のなかを縦貫しながら続いている。

<つづく>