2009.12.13 足利学校 (その3)




■方丈とその周辺




さて孔子廟から東側にそれて方丈と庭園のエリアに入った。一番大きな建物=方丈は講義の行われた教室である。




その眼前には瀟洒な庭園が広がる。庭園は方丈の前、奥にそれぞれ設けられていた。復元にあたって適当に造られたものではなく古文書の絵図などを元に再現されたものらしい。




さて戦国時代、足利学校の学徒数は最盛期には3000人ほどにもなったという。そんな人数をいったい何処に収容したんだよ、とツッコミのひとつも入れたいところだが、授業とはいっても現代の高校、大学のようなスタイルをを想像してはいけないようだ。

調べてみると、講義というのは毎日開かれた訳ではなく、基本的に自学自習で学ぶ…というのがここの学習スタイルであったらしい。書物といえば書写が主流の時代でもあり、まずは教科書である四書五経(…いや六経か^^;)などをひたすら書写してオリジナルは返還し、あとは書写した文書を読み込んで自分なりに咀嚼、わからないところは教官に質問、という流れで学んだようである。毎日全員が "登校" した訳でもなく、教室に入りきれない学徒は自然とそのへんの茶屋でも宿でも道端でも写したノートを広げてウンウンと唸っていた。

漢書で有名な鎌倉建長寺住持:玉隠英與(1432-1524)は当時の足利の様子を 「諸国から学徒が集まり、それに感化されて野山に働く人々も漢詩を口ずさみ足利は誠に風雅の一都会」 などと記している。戦国期になんとも能天気なことを言っているものだが、当時流行の東山文化とはそういうものなのだろう。




足利学校では、学生は入学と同時に僧籍に入り、この衆寮で学習に励んだという。なんで僧籍? …という気がしないでもないが、これには上杉憲実が庠主(しょうしゅ → 学長/校長に相当する代表者)として招いたのが代々高名な禅僧であったという事情がある。

大陸から文物をもたらす媒介者というのは時代によって流行り廃りがあるのだけれど、室町時代には禅僧がその大きな位置を占めていた。禅宗(日本では臨済宗と曹洞宗が多い)は仏教の中でも非常に理屈っぽく、問答でやり込められないためには大量の典籍を読み解いて教養を高めておかなければならない。自然と、故事や歴史、思想などの知識が深くなり、ゆえに彼らは教師としても高い資質を示したのである。

大陸で禅宗を修めた留学僧たちは大量の典籍を日本に持ち帰っているが、そこには儒学の書物も多く含まれ、また禅僧から途中で儒学者に転じる者も多かった。

これは中国で隋/唐の時代に盛んに発展した仏教が、その後排斥されるようになり、生き残りのために道教や儒教との共存を模索して融合が図られたのと無縁ではない。廃仏の動きは唐末期の会昌年間(841-846)の頃から顕在化した。禅宗のなかで最も勢力のあった臨済宗はこの "会昌の廃仏" と称される弾圧の後に開かれており、既存の儒教(儒学)と対立するのではなく、むしろ融合/包含する方向に進んでいる。これは日本で神仏混交が進んだのと似たような現象が中国でも起きていたとも言え、儒学のテキストは禅宗でもやはりテキストとして使われ、問答のためのネタ本となっていたのである。

※禅宗の修行には、「禅問答」 などという言葉があるように即答の出来ない質問(公案)に対して修行者が深く思考し回答するという方法論がある。
※当時の中国は明の時代であり、儒学各派の中では朱子学や陽明学などが流行の最先端であった。ただし足利学校は古典重視の路線であったからこれらの新学派はあまり受け入れられていない。




さて衆寮の内部はこんな感じである。1部屋6畳で机が2台。4〜6人ほどで一杯になってしまいそうだが、無料の学府の学習施設はやはり質素なつくりであったことが伺える。




上杉憲実による復興の後、すぐに戦国乱世となったために実用学問としての兵学や易学の需要が伸びたことは先ほど書いた。戦国期には特に易学の府として足利学校は名声を上げることになる。易とは吉凶を占うことだが、その基本思想は陰陽五行であり、また天文学である。あまり中途半端な知識で書くとその筋のマニアから注意を受けそうなのでやめておくけれど(^^;)、「当たるも八卦、当たらぬも八卦…」 の卦という分類(六十四卦の表が多く使われたらしい)に当てはめてあらゆる事象に法則性を見出し、未来を予測しようとするものらしい。筆者もいろいろ資料を斜め読みしてみたのだが…なんだか難しくて民明書房の本を読んでいるようだった(爆)

一方、兵学の方はといと…説かれた講義にはおそらくは孫子とか六韜などの兵法書も含まれたことだろうが、具体的にどんな内容を教えたのかは良くわかっていない。事例としては北条氏康が三略(中国:武経七書のひとつ)の講義を足利学校で受けたという記録があるが、それ以外がどうもはっきりしないのである。ちなみに戦国期には兵法はどこの戦国大名も秘伝として機密扱いであったので、国内ではいわゆる 「兵法書」 というものは殆んど流通していなかった。そんな時代に日本で唯一、誰でも無料で教えてくれる学校があったわけだから、そりゃぁ生徒も殺到するだろうな…などと筆者は思ってみたのであった(´・ω・`)





■キリシタンから見た足利学校




戦国期の足利学校の様子は、イエズス会の宣教師:フランシスコ=ザビエルがインドのゴアに向けた手紙にもみえる。それによると 「日本には都以外に有名なアカデミーが5箇所あり、その中の4つは都から近い高野、根来寺、比叡山、近江でそれぞれ3500名以上の学生を擁している。しかし日本に於いて最も有名で大きいのは坂東(=関東)である」 などとある。坂東のアカデミー(大学)といえば足利学校以外に該当するものはない。

似たような内容は宣教師ルイス=フロイスも書いている。彼の著作 「日本史」 において、「彼ら学生は問答形式で学習する。さらには占星術や医学も幾分か学ぶ。ところでこれらの学問に関して言えば、全日本で唯一つの大学であり公開学校と称すべきものが、坂東(関東地方)下野国の足利と呼ばれるところにある」 などとと記されている。この人物はほぼ畿内でしか活動していないのだが、それでも坂東(関東)のアカデミーの噂は耳に入ったらしい。




彼ら宣教師が足利学校に興味をもったのは、もちろん効果的にキリスト教を布教するにはどこを押さえたらよいかという視点によるものだったろう。味方に引き入れようとしたのか、対立すべき敵とみなしたのか、残念ながらそのあたりは残された文献からは窺い知れない。

ところで、あまり友人関係にはなれそうにない儒学者とキリシタンだが、対立した記録があるか調べてみると、面白い論争の記録が残っている。1606年、新進気鋭の儒学者:林羅山(当時25歳)とイエズス会修道士:ハビアン(同42歳)による "地球論争" というもので、地球は球形か平面かを争った。当時は既に大航海時代であり地球=球形説は南蛮船の渡来で証明されていたようなものであったが、このとき林羅山は頑として球形説を受け入れず、平面説+天動説を主張した。そして驚くべきことに、林羅山の側がハビアンを論破(!!)してしまったのである。 いったいどんな論理展開をしたんだよ、と100万回くらいツッコミたくなるが(^^;)…ともかく日本の儒学者は妙なところで最強伝説を残している。

その後はキリシタン禁止令が出てこの種のオモシロ対決は無くなっていくのだが…足利学校とは直接関係がないので話を少し戻すこととしよう。

※Wikipediaによると、可哀想なイルマン修道士はその後信仰に動揺をきたしてキリスト教を棄教し、批判する側に回ってしまったらしい…( ̄▽ ̄) 林羅山…罪な男よのー。




■北条氏の滅亡と領地没収の周辺




さて写真の順番が多少前後してしまっているけれど(^^;)、中心施設である方丈に上がって往時の雰囲気を味わってみよう。写真手前は方丈と棟続きになっている庫裏(くり)つまり台所棟で、奥側が書院になっている。見学者はこの庫裏側から入場することになっている。




中に上がると、もうすっかり気分は中国…といった感じである。左から孟子、曾子、孔子、顔子、子思子…さてどんな人物か皆さんは言えるだろうかw

孟子:儒家。性善説を唱え、孔子に継いで著名な人物。王道/覇道についての論が有名。
曾子:儒家。孔子の直弟子。孝(→親孝行など)について説いた。
孔子:儒家。儒学の創始者。
顔子:儒家。孔子の直弟子。忠実な実践者で孔子からは後継者と見られていた秀才だが早世した。
子思子:儒家。孔子の孫。曾子の弟子。「中庸」 のオリジナルを著したとされるがテキストとしては現存しない。





ところで足利学校の全盛期を支えた北条氏は、その後台頭した豊臣秀吉によって本拠地の小田原を包囲され、1590年篭城戦の末に滅亡してしまう。これが戦国時代の終焉を告げることになるのだが、足利学校にとって "保護者の滅亡" はそのまま存続の危機でもあった。小田原の役ののち、北条氏の領地は全て没収となり、足利学校の領地も召し上げられて、新たに関東に移封してきた徳川家の所領とされてしまったのである。さらには古典を好んだ豊臣秀次によって貴重な蔵書の一部が持ち去られるという事件も起こった。

この危機に際し、当時の庠主(9代目)三要元佶は新領主である徳川家康に接近し、保護の約束を取り付けるとともに奪われた書籍の返還も勝ち取った。のちに起こった関ヶ原の合戦では、庠主自らが家康の陣中に赴いて卜占するなどの協力を行っている。これ以降、足利学校は徳川将軍家の保護下に入ることとなるのだが…その前途はまだまだ多難なのであった。




■太平の世と足利学校





さて応仁以来の戦国時代が終わり太平の世(江戸時代)がやってくると、戦争の吉凶を占う必然性もなくなり、かつて人気のあった易学は次第に振るわなくなった。剣豪:宮本武蔵が傭兵業で食っていけなくなって放浪の旅に出たのと同じように、足利学校もまたゆるやかな斜陽の時代を迎えつつあったらしい。

北条氏滅亡から100年ほど徳川の所領であった足利は、1688年に足利藩として独立した。藩主は五代将軍綱吉の縁者で本庄宗資という者であった。…ただし足利とはあまりゆかりのない人物で、ほどなく渡り鳥のように笠間藩へと移動してしまった。その後は甲斐から戸田氏が入って幕末まで藩主となるのだが、足利という土地への愛着がどの程度であったかは、わからない。




さて江戸時代に入り、足利学校の新しい庇護者になったのが徳川将軍家であったことは先ほど述べた。9代庠主:三要の関ヶ原合戦への協力がここでなんとか吉と出たのかもしれない。

しかしここで徳川家から与えられた所領はわずかに100石。この収入を現代米価で大雑把に換算すると年収700 〜 800万円程度に相当するのだが、これではその辺のちょっとした農家とたいして変わらず、ザビエルの描いた 「坂東のアカデミー」 を維持するのはちょっと厳しそうである。




さらには江戸幕府における所轄が "寺社奉行" となったのが足利学校の性格に影響を及ぼした。関ヶ原で "易" によって徳川軍の戦況を卜占した記憶が強烈だったためか、幕府は学問所というよりは徳川将軍家を護持する寺社的な施設として足利学校を見ていたフシがあるのである。江戸幕府のもとで年筮(ねんぜい)といって年の初めに吉凶を占った結果を提出するようになったのもその延長線上の措置かもしれない。

そんな故があってか、足利学校にはなんと "徳川将軍家の位牌" が祀られている。最初にこれを見たときは 「ナニゆえこんな所に位牌が!?」 …と驚いたものだが、寺社奉行の管轄であればこその超展開といえるだろう(・_・;)




徳川将軍家の位牌というのは実は何セットも造られていて、ゆかりのある寺社にいくつも置かれている。ゆえに貴重性についてどう評価したらよいのか筆者にはなかなか判断がつかないが、学問所としての性格が寺社的な性格にシフト していった間接的な証拠として捉えれば面白い。




江戸期の足利学校は、こうした財政面、ニーズ面その他の変化に対応していわゆる郷学(藩校に準ずる教育機関)として存続する道を選んだ。近隣の一般庶民に教養を教えるローカルスクールとしてダウンサイジングしたのである。この路線は成功し、江戸時代中期頃までにはそれなりの中興を見た。現在復元されて我々が見ているのは、このダウンサイジングした時期の足利学校の残照ともいえる。



さて方丈の中ほどに 「足利学校漢字試験」 なるコーナーが設置されていた。"入学証" を手にして門をくぐったからには一丁、やってみようかw

…なお案内板には 足利学校は自主学習なので納得したら卒業です、とあった(^^;) …それは試験とは言わないだろう、というツッコミはこの際忘れよう。何ごとも様式美なのであるw




内容は…これを間違えたら 「ゆとり」 の烙印を押されてしまうぞ、という程度の難関さなのであった。
…むむうっ w ヽ(´ー`)ノ




さて実学としての兵学、易学は振るわなくなったが、太平の世の庶民には 「子曰く…」 の儒学はそれなりに好評で生徒数はそれなりにあったらしい。戦争屋よりも文官が必要になった江戸の草創期には、各藩の文官育成のニーズもあったようである(江戸時代初期には諸藩における藩校の整備はまだおぼつかない)。

…ただし、それも寛政年間あたりまでのことであった。




寛政2年、幕府老中:松平定信による寛政の改革の一環として、寛政異学の禁令が布告される。天明の飢饉によって諸国に一揆や打ちこわしが頻発し、これを抑えるために国内の思想統制が図られたものだが、その内容は朱子学を正学として他の諸派を禁ずるというものであった。朱子学とは、さきに述べた南宋の頃に生まれたイデオロギー色の強い儒学の一派である。幕府は自らの支配体制を強化するためにこの朱子学を採用し、役人の試験もこの朱子学でのみ行うようになった。

実際には寛政異学の禁令は幕府の学問所に限ったもので、諸国の藩校や民間の学問所までを対象とはしなかった。しかし諸藩はその空気を読んで一斉に藩校の学風を朱子学に切り替えていった。一方、足利学校は易学を中心とした従来の校風を変更しなかったらしい(※)。理由はわからない。

※一時期名前を "時習館" と変えてカリキュラム変更の試みは為された。もしかするとここで朱子学を取り入れようとしたのかもしれないが、どうも明確な資料がみつからないので筆者的にはグレーな理解のまままである(^^;)




■幕末〜そして廃校へ




さて方丈をぐるりと巡って外に出てみた。すっかり葉の落ちたイチョウの木が寒々としている。ここは丁度孔子廟の裏側で、写真には写っていないがイチョウの古木があり、江戸時代初期からあまり変わっていない(筈の)領域である。方丈周辺(特に庭園など)は絵図などを元に復元された部分なのでやや華美に造られてしまっている感もあり、筆者的にはもう少し地味で古色蒼然としているのが千年学府には相応しいような気がしていて、普通なら観光書籍には載らないであろうこの付近の景観にそんな雰囲気を感じている。

さて寛政年間以降の足利学校はトレンドに乗り遅れたことに加えて、各地で藩校や寺子屋が充実しわざわざ来訪する必然性も薄れてすっかり衰退してしまったらしい。世間の儒学者からも学問所というよりは古書典籍を収めた図書館という認識で見られていたようである。江戸時代も後期となると蘭学、国学などの隆盛もあって儒学の相対的なシェアは下がりつつあり、その中でも朱子学のウェートが大きく、世の知識人の常識は "尊皇攘夷" という状況であった。

…皮肉なことに、幕府存続を願って松平定信の撒いた思想のタネは、その後本当に "尊王" の方向に走って明治維新という形で結実してしまった。現代に司馬遷がいたら、歴史書になんと書いただろう。




明治維新後、足利学校は新生・栃木県によって極めてあっさりと廃校処分となった。時代の勢いというのも在ったのだろうが、明治初期というのは古いものを容赦なく切り捨てることを善とする風潮が強く、足利学校もそのターゲットとされたようである。旧足利藩士:田崎草雲(南風画家)らが保存運動を起こして、書籍の売却阻止、孔子廟の保存などが図られたが、その他の主要建築物は結局取り壊されることとなった。処分決定のわずか2年後には敷地の半分が更地になったらしい。

…ただ、その跡にはやはり学校が建てられた。小さいながらも2階建ての瀟洒な洋館校舎で、役人の中にも気の利いた者がいたらしく名称は "足利学校" と付いた。…これがのちの足利東小学校で、何度かの改築を経て昭和の終わりまで続いた。場所的にも名称的にも、この小学校こそが足利学校の遺産ではないか…と、筆者はその歴史を見直して思ってみた。




しかしこの小学校は、観光振興のための "史跡整備事業" によって20年前に取り壊されてしまった。その後にテーマパークのような体裁で "復元" されたのが、今回見ている方丈周辺の見栄えのよい区画である。

展示室には、この足利東小学校(上図左)、そして1990年にそれを壊して再現された方丈(同右)の上空写真が飾ってあった。写真の意図は明白である。こんな地味な小学校になっていた敷地を、江戸時代の最盛期の姿に復元しました、どうです凄いでしょう!…というオーラが滲み出ている( ̄▽ ̄)

史跡整備事業は1980年代に小学校の統廃合計画と抱き合わせで企画され、1990年に竣工した。時期的にNHKの大河ドラマ 「太平記」 の放送とダブった(…というよりそれに合せたのだろうな^^;)こともあり、観光資源としてこれは一応の成功を収めた。なにしろ筆者もこれを見に来ているくらいである。




…しかし旅人としては、2枚の写真を比べてこんなことも思ってみたのである。

整備され公園のようになった "史跡" としては確かに復元工事後のほうが見栄えもいいし、観光客ウケもするだろう。
しかし本来の機能を考えた場合、どちらが生きた学校と言えるだろう…と(´・ω・`)




…これは、とても難しい話なのである。

器としての学校。

機能としての学校。

…どちらにもそれなりに価値はあると思うのだけれど、果たして孔子や孟子に問うたら彼らはなんと答えるだろう。
「子曰く、学を志すに焉んぞ舎を選ばん」 …おそらく、こんなところじゃないだろうか(^^;)

ただの通りすがりに過ぎない筆者があれこれ注文をつける立場にはないとは思いつつも、小奇麗に整備された "史跡" を眺めてみて、ふとそんな想いがよぎった。べつに批判をしている訳ではない。古い史跡を抱える自治体では普遍的にもっている二律背反的側面が、そんな形で見えたという話である。幸い(?)足利市はここを単なる展示館にする訳ではなく、生涯学習(これも便利な呪文ではあるがw)の場として活用しようとしており、各種講習会なども盛んに開催している。それがうまく機能することをささやかに孔子廟に祈って、師走の足利を後にした。

そんな訳で、たいしたオチがないけどこれにて♪ ヽ(´ー`)ノ

<完>



■あとがき


さて相変わらず起承転結のはっきりしないレポートで申し訳ないのですが(爆)、えいや、…とまとめてみました(^^;)。
足利というのは隣接する新田郡(※)とともに中世を語る上では外せない重要地域で、掘り起こすといろいろな切り口で面白い事象に巡りあいます。しかしあまりに積層するものがありすぎて、実はまとめようとすると 「どの話題を削ろうか」 と思い悩むハメに陥ります。そんな訳でとりあえず今回は足利尊氏には引っ込んでもらいましたw

それにしても調べていてずっと不思議だったのは、誰でも無償で学問のできるこのような場を最初に作った人物はナニモノなんだろう…という素朴な疑問です。これについては専門家の間でも議論されていることなので素人が迂闊なことは言えないのですが、少なくとも 「私」 よりは 「公」 を志向した一角(ひとかど)の人物であったことは確かでしょう。 そして畿内ではなく敢えて蛮勇の地、関東で学校を開いたというところに、足利学校のロマンの原点があるように思います。




儒学的な知識/教養は日本では大学寮草創期(飛鳥時代)から教えられており、奈良時代には既に官吏の一般教養とされていました。ただしその受け止め方は大陸から先進的な制度を輸入するための方便/技術としてみられており、いわゆる徳治思想のようなものがどの程度真面目に受容されていたかはわかりません(奈良〜平安期をみるととても徳治が行われたとは思いませんが… ^^;)

これが政治思想として表に表れてくるのは鎌倉期の頃で、その萌芽のようなものは平家物語にもみられます。一般に 「祇園精舎の鐘の音…」 で始まる平家物語は仏教思想の因果を軸にした説明がなされることが多いのですが、"徳に欠ける政治を行ったので源氏にとって代わられた" …とする主張は易姓革命そのもので、これは儒教の思想がベースにあるものと思われます。また鎌倉末期の後醍醐天皇による鎌倉倒幕運動や南北朝の動乱は儒学を先鋭化させた朱子学の考え方とよく符合します。これは実際の革命(政権転覆)運動に儒学思想が躍り出てきたもので、この動乱=南北朝の分裂が収まったのが上杉憲実の生まれる約20年前ですから、彼自身は非常にリアルに儒教的治世感というものを感じていたのかもしれませんし、さらには正しい徳治を行う必要性を感じていたかもしれません。宋学を要れない形で唐以前の儒学を無償で誰にでも教授する…という足利学校の姿勢は、もしかするとこのあたりに原点があるのかもしれません。




■孔子についてあれこれ


さて最後に孔子についてもちょこっとだけ触れておきましょう。孔子は紀元前500年頃の人物で、大雑把に言って釈迦と同じ頃の活躍です。当時の中国は諸国が割拠する春秋戦国時代…孔子はその中にあって、理想的な政治について論じた思想家の一人です。しかし彼自身は理論を説くだけで実際の政治を取り仕切ったことはほとんどなく、一時は魯国の役人になったものの僅か2年で辞めてしまい、その後は諸国を訪れては大言壮語を吐いて放逐される…ということを繰り返します。つまり理論はもっともらしいのですが、実際の政治では全然実績を残していないのです( ̄▽ ̄)

これを現代に置き換えてみると…

・ 日本を訪れて 「やい、鳩山総理、我輩を取り立ててくれたら理想の政治について教えてやるぞ」 → 放逐
・ 韓国を訪れて 「やい、李明博大統領、我輩を取り立ててくれたら以下同文」 → 放逐
・ 北朝鮮を訪れて 「やい、金正日将軍、我輩を取り立ててくれたら以下同文」 → 放逐
・ 中国を訪れて 「やい、胡錦濤主席、我輩を取り立ててくれたら以下同文」 → 放逐

…とまあ、周辺国を巡回しながらこんなことを繰り返している人物が近寄ってきたら、筆者が国王でも適当に追い返すでしょう(爆) …といいますか、どうも初期の儒家…というか、孔子、孟子などは "国王が自分の意に沿わない" と見るやさっさと見限って出て行ってしまえという考え方をもっていたようで、現状を努力してなんとか改善しようという意思には乏しかったようにみえます。それに加えて偉そうに構えて異様に態度がデカい(^^;) …おかげで春秋戦国期〜秦による統一を経てもさっぱり評価は上がらず、諸子百家の中に埋もれた存在でした。

孔子が評価されだすのは死後300年ほどを経て、漢による中国統一が成った太平の時代です。この頃までに儒学は門徒による追加/編集を繰り返して様々な要素を内包する総合科目セットのような体裁にグレードアップしていました。そして次第に官吏の中に儒家が増え、最大版図を築いた武帝の時代に官学となり、以降中国の基本的な学問体系のひとつとなった訳です。




ところで儒学は本来国家を統治するための学問として始まったはずなのですが、やがて孔子が神聖化されると共に、次第に宗教色を帯びていきました。孔子廟に孔子を祀り拝礼するというのが宗教的側面にあたりますが、これは古代中国の祖先崇拝の延長線上にあるもので、どこまでが礼/孝でどこからが宗教かは筆者には区別がつきません(^^;)

写真は釋奠(せきてん)といって孔子を祀る儀式の様子です。本場中国では羊を生贄(いけにえ)に捧げたりするようですが、足利学校ではかなり和風にアレンジされ野菜と魚(鯛)を供えるようです。

…さて、あとがきもあまり引っ張ってもアレなのでこのへんでまとめに入りましょう。儒学については筆者も四書五経をすべて読破した訳ではないのであまり偉そうなことは書けませんが、ざっと周辺事情を眺めてみると、やはり理屈倒れのいいとこ取りの思想であって、実践するのはかなり難しそうです。普段 "なあなあ" で暮らしている日本人としては、理屈は理屈として 「まあ、そーゆー所もありますな」 …くらいに受け流しておくのが無難というものでしょう。何ごとも適当でホドホドが一番で、これこそが花鳥風月的 「中庸」 ということで2009年を締めくくりたいと思います(笑)

<おしまい>