2010.01.30 草津温泉(その5)




■湯揉み踊り




さて公園を後にして、湯畑脇にある 「熱の湯」 を目指して歩いていく。途中、何かの旅行番組の取材風景を見かけた。レポーター役がおらずカメラマン一人だけ…w これは低予算路線の地方局か旅チャンネルあたりかな(^^;)




ほどなく湯畑のすぐ目の前にある熱の湯に到着。ここは湯もみと踊りの見られる湯屋として有名なところである。

本当は昨日のうちに見られることを期待していたのだけれど、冬季はオフシーズンにあたるらしく、案内所で 「この季節だと午前中に3回しかやりませんよ」 と言われて Oh, My God ! を叫んだのであった(^^;) 筆者的には 「温泉といえば冬だろう」 との意識が強いのだけれど、観光客の推移グラフは世間が "温泉の季節=夏" と認識していることを示していて、どうも彼我には認識のズレがあるらしい(爆)。…まあ一人で異論を唱えても仕方がないので、とりあえずチケットを購入して入ってみよう。




"熱の湯" の内部は、こんな感じである。湯船の底に敷き詰められた石は河原だった頃のゆかりのものらしく、床面=地面の高さと殆んど変わらない水準でじわじわと湯が湧いている。今でこそこうして建物で覆われてしまっているけれど、原初の姿は西ノ河原で見た風景のように荒涼とした石ころだらけの平地に、池のように湯が湧いていたのだろう。

…さて、そうこうしている間にも客はゾロゾロと入ってくる。ロケーションをあれこれ検討している余裕は無さそうなので、カメラアングルを考えて一番全体像を捉えられる2階の角位置にポジションを定めた。ここから先は視点固定となってしまうが、まあイベント撮影ではよくあることなので甘受しよう(^^;)




見ればここにも、小さいながら温泉神社が祀られている。神名、社名などは何も記されていない。

隣の白旗の湯でも同様の祠があり、そちらは頼朝宮などと呼ばれているのだが…どうもこちらの神様には気の利いた名前は無いらしく、ちょっと可哀想な気がするな(^^;)




湯屋の天井は思った以上に高かった。外から見ると二階建てのように見えるのだが、実際はこんな具合の伽藍堂(がらんどう)である。湯気を浴槽付近に留まらせず上に抜くためにこんな造りになったらしい。




さて湯揉みとは要するにセルフクーリングのことである。意外なことに、始まったのは幕末から明治維新の頃と割と新しい。源泉から湧き上がる熱い湯を板で攪拌しながら温度を下げ、「えいや!」 とばかりに短時間だけ入ってすぐに上がる…という入浴を行ったもので、時間を決めて湯長の指示で一斉に入浴する作法があり "時間湯" などと称している。攪拌して温度を下げるといってもその温度は48〜50℃ほどもあり、これは人間の身体が耐えられる限界に近い。

強酸性の湯に高温で入浴する "時間湯" は一種の荒行のような印象も受けるが、このような入浴方法は皮膚病や感染症などによる疾患に対しては殺菌作用を高める効果があり、治療には有効らしい。その効能は明治時代、お雇い外国人であったドイツ人医師のベルツ博士(→明治天皇の主治医)によって論文にまとめられ、海外に紹介されて広く知られるようになった。ちなみに欧州には強酸性の温泉というのは殆んど無いそうで、草津温泉の療養プロセスは西洋医学界からは非常に興味深い事例として受け止められたようだ。

ベルツ博士関連の資料を斜め読みして筆者にもなんとなく理解できたのだが、草津温泉の効能とは結局、この酸と高温による殺菌作用であるらしい。たとえば梅毒菌などは45℃で30分ほど加熱すると死滅するそうで、有効な治療法のなかった時代には、草津の湯に何度も入ることでたしかに治療効果が期待できたのである。皮膚病なども細菌性のものにはこの効果が有効に働いたらしい。




草津温泉では長い歴史の中でこれらが経験的に知られており、温泉の成分(→酸)を薄めずに攪拌して温度を下げ、その温度も人間が耐えられる限界くらいの高温で入浴するのが良いと認識されていた。入浴時間を短縮してでも温度を高めにしたほうがよい、と明示的に入浴手法の最適化が図られたのが幕末から明治維新の頃で、湯治客の素人判断では危険が伴うため、専門家(湯長)が判断して時間を区切って入るようになった。

その温度環境を作る所作が "湯揉み" という行為である。これは湯治客自身によって行われ、熱い湯に入る前の準備運動も兼ねていた。現在観光客向けに行われているのは、この湯を攪拌する動作に歌と踊りをミックスしたものである。現在ではすっかり草津を象徴するようなシンボリックな芸能になっている。




さてやがて開始時刻となり、湯揉みおばさんのご一行が登場した。…はて、草津温泉公式HPではたしか妙齢の娘さんのイラストが描かれていたような気がするのだが…まあ草津は山深い里でもあるし、きっと30年ばかり時の進み方に差があるのだろうわなにをす(爆)




簡単な挨拶と由緒の説明があり、チョーン、チョーン…と拍子木が打ち鳴らされて、湯もみの実演が始まった。流れるのは草津節…あまりにも有名なあの歌である。

♪草津良いとこ
一度はおいで
は〜ドッコイショ
お湯の中にもコーリャ
花が咲くよ
チョイナ〜チョイナ〜

♪忘れしゃんすな
草津の道を
は〜ドッコイショ
南浅間にコーリャ
西白根よ
チョイナ〜チョイナ〜

♪朝の湯けむり
夕べの湯もや
は〜ドッコイショ
草津は湯の町コーリャ
夢の町よ
チョイナ〜チョイナ〜




♪お医者様でも 草津の湯でも
は〜ドッコイショ
惚れた病はコーリャ
治りゃせぬよ
チョイナ〜チョイナ〜

♪草津よいとこ 里への土産
は〜ドッコイショ
袖に湯花のコーリャ
香が残るよ
チョイナ〜チョイナ〜

♪積もる思いと 草津の雪は
は〜ドッコイショ
解けるあとからコーリャ
花が咲くよ
チョイナ〜チョイナ〜




一曲終わると、観客も加わって同じ調子で湯揉みを体験する。やることは至極単純なのだが、参加することがこれほど楽しそうにみえるイベントも珍しい(^^;) 一節歌っては順番待ちの人に交代して、記念品を貰って帰っていく。人生に疲れた時にこれに参加すると、前向きパワーを得られるかもしれないw




ところで時間湯から発展して草津節が生まれた時期はかなり下って大正時代になってからだという。当初は黙々と湯を混ぜる動作に飽き足らない湯治客が勝手に色々な唄を口ずさんでいたようだが、その節回しを寄せ集めて温泉街の芸妓が座敷唄の形式に編曲したらしい。

いくつかのマイナーバージョンを経て、最終的に 「チョイナ、チョイナ」 でお馴染みの草津節に落ち着いた。草津湯もみ歌などもほぼ同時期の成立とのことである。



これらの歌が登場した時代は、傷病者が治療のために長期逗留する湯治のスタイルから、都市部の観光客を呼び込むリゾート路線へと、草津温泉のあり方が変化していく転換期にあたっている。軽井沢からの草軽電気鉄道(※)誘致、また高崎/渋川からバス路線を開通させるなど、交通の便が急速に改善していくのも大正期の前後だ。

大正14年にはラジオ放送が始まり、草津節は昭和のはじめ頃にはNHKラジオなどでも繰り返し放送され、その知名度を上げた。口ずさみやすい節回しで効能を歌い上げる草津節は今で言うコマーシャルソングの草分けのような役割を果たし、観光客誘致に大いに貢献したという。

※現在は草軽電気鉄道は廃止されている。現在バスターミナルの付近に駅があったらしい。




さて再び湯揉みが始まった。写真では音が伝わらないのが残念だが、マイクもスピーカーも使わずに地声で歌いながらの攪拌である。これは結構大変な気がする。




来客の9割がリゾート観光客となった現在、"時間湯" を実施している湯屋は地蔵の湯、千代の湯の2箇所を残すのみとなった。一般客が見学できるのは実質1箇所で、それも要予約、かつ撮影は禁止である(湯治客が主役であるため)。一般の観光客は、実質的にはこうしてショーの形でしか見ることができない。

…筆者は、もっと町中でモミモミやっているのではないか…と密かに期待したのだけれど、まあ現実というのはこんなものなんだろうな(^^;)




しかし、そうはいってもこうしてショーアップして見せる方法論に関しては、草津温泉はとても上手にこなしているように思われた。実際、これを見る観光客はたいそう喜んでいて、反応も上々なのである。




客様に満足してもらうという意味において、この湯揉みと踊りのイベントは単純ではあるけれど、とても有効に機能しているように思えた。かつては必然であった "湯揉み" という行為が、いつのまにか伝統芸能に昇格して、実質的な意味を失った後も観光資源として存続している。それどころか客を巻き込んでの体験ショーとして草津温泉のアイデンティティの一部を構成するに至っている。これはとても面白い現象なのであった。

こうして一歩引いたところから俯瞰すると、人の反応が面白い。ほんのちょこっとであっても参加することによって客の満足度が上がっていることが非常によくわかる。…これは接客とか観光イベントという切り口でみた場合、実に示唆に富んだ光景のように思われた。

いわゆる "大風景" によって成り立つ観光ももちろんあるのだけれど、こうして人の営みによって成り立つ観光というのもあるのだなぁ…。筆者にとっての湯揉みショーは、そんな感慨を得たイベントなのであった(´・ω・`)




熱の湯における湯揉みの実演/体験は、流れるように20分少々で幕となり、次の観客と入れ替わりで外に出た。

さて、このあたりでそろそろタイムアップである。もう少しあちこち掘り起こすと面白そうではあるけれど、天の声の最後のお土産選定に付き合う必要があるので筆者の自由時間はここで枯渇したw

そんな訳で レポートもここまでにしたい。




■帰路




帰路は、ふたたび吾妻渓谷を眼下に眺めながらの山間行となった。何気に気温表示を見ると正午近くなのに2℃…湯気の漂う温泉街に居たせいかもう少し暖かいかと思いきや、気分と現実には随分な乖離があるらしい(^^;)

そのうち暖かい季節にでも再度やってこよう…などと思ってはみたけれど、…さていつそんな機会が訪れるかな(爆)

【完】




■あとがき


今回は家族サービスのついでのレポートなのであと一歩の詰めが甘すぎなところもあるのですが、まあとりあえず国内最大の湯量を誇る温泉を体験できたということでそれなりに面白い小旅行でした。

しかし実際に現地に行ってみると、特に温泉街中心の地図をみて当初は 「なんだここは?」 という第一印象を筆者は受けて戸惑ってしまいました(^^;)。湯量豊富な湯畑は、沸いた湯が滝となって流れ下った先に、流れていくべき川がなかったのです。西の河原方面からやってきた湯川も途中で消滅してしまい、ふたたび現れるのは市街地のかなり下流のほうです。つまり、本来は温泉街の真ん中に湯の流れる情緒たっぷりの河原があったはずなのに、いつのまにかそれは埋めたてられて旅館やホテルがひしめき合う空間になり、肝心の湯川は温泉街の地下を暗渠(あんきょ)となって流れていたのでした…( ̄▽ ̄)

これは明らかに開発のやり過ぎで、本編ではあまりネガティブなことは書きませんでしたが、実質的に景観としての草津温泉中心部は既に行き着くところまで行ってしまった感があります。湯畑は、その圧倒的な湯量でそれでも草津を代表するスポットとして機能してはいますが、「このお湯ってどこに流れていくの?」 …と素朴な疑問をもった者に適切な回答を示してはくれません。岡本太郎が頑張っても駄目ですw




しかし、少々足を運んで西の河原公園まで行けば、開発される以前の湯畑周辺の状況を想像できるような景観が広がっています。かつての因果で長らく開発の対象外とされてきたエリアではありますが、筆者的にはむしろこちらのほうが草津にとっての原風景のように思えました。

湯川の流れはこの辺りから始まって、無数の源泉の湧く河原が1.5kmほど下流側まで細長く続いており、地形的には湯畑もその一部という位置づけになります。温泉街はその細長いエリアの中で最も見栄えの良い場所 (=湯畑周辺) に発達しました。あまりに発達しすぎて元の姿がわからなくなり、この "捨て置かれた空間" にのみその片鱗が残った…というのはある種の皮肉かもしれませんね( ̄▽ ̄)

※ところで、あまり遺体を捨てた、捨てた…と書くと 「草津はそんなに非情なところなのかい」 とのツッコミがありそうなので補足しておきますが、死人が出た場合は光泉寺がまずその遺体を引き取り、可能なかぎり親族を探して連絡を試みたそうです。とはいえ江戸時代で年間1万人ほどの来客 (→それも不健康な人が多い) のあった温泉ですから、いちいち全員に懇切丁寧な対応という訳にも行かず、やがて湯治客は事前に 「万一の際はここの作法で埋葬してよい」 旨の証文を書くようになったといいます。 それでも行き倒れや身投げの身元不明人はいたといいますから、ご当地にとってはなかなか頭の痛いことではあったでしょう。



 

■湯治場の時代とらい病について




ところで現在のような観光リゾート路線になる以前の草津というのはどんな雰囲気だったか…思って調べてみると、何故からい病(ハンセン氏病)の資料ばかりが大量に出てきて少々戸惑いました(´・ω・`)。あまり明るい話題ではありませんが、ざっと概観したところ草津温泉を語るうえで外すことの出来ないテーマのように思えたので最後に少々書いてみることにします。

らい病とは細菌感染によって末梢神経が麻痺し、軟骨が侵されて顔や手足が変形していく奇病です。現在では治療薬が開発されており、また感染力は非常に弱いこともあって新規患者は国内ではほとんど発生していませんが、かつては日本各地に患者が散在していました。

このらい病患者が、かつての草津温泉には全国から集まってきていました。これは温泉側が 「治療に効く」 と宣伝していたたからで、湯治に来てそのまま住み着いてしまう者も多く、なかなか正確な統計がないのですが常時町の中に数百名が居住/滞在していたようです。

らい病患者の湯治客は平均40〜50日ほども滞在してくれる安定顧客であり、宿の経営上はたいへん重要な客層でした。ただし顔や手足の部分欠損を伴う症状のため、他の一般客からは敬遠されがちで、宿の側もその扱いには非常に慎重だったといいます。一般客とはなるべく顔を合せないように表通りから見えない裏側に宿泊させたり、また外湯に入るときは別に湯壷を設けたり夜間に入るようにするなど、工夫を凝らして対処していたようです。しかし基本的には共存した状態が長く続いたといえます。

この共存関係が変化し始めるのが明治2年の大火の後で、温泉街を闊歩する患者たちの姿がイメージ的に良くないとの指摘が町当局から出始め、焼失した町の復興とともに患者居住地区の移転が図られます。その移転先は現在の健康増進センターから熱帯植物園のあたりで、当時はその地区を "湯之沢" と称しました。明治以前は西ノ河原と同様に死体の転がる因果な場所で、"骨ヶ原" などとも呼ばれた所です。

そんな場所ではありましたが、自由な生活が保障されるとの約束を取り付けたうえで患者達は移転を進め、ここにらい病患者の巨大な集落が形成されます。その人口は最盛期で221世帯804人を数え、草津町の全世帯の26%という規模に達しました。ここには湯治に使用できる専用の源泉(現在の大滝之湯)もあって、不遇な境遇に置かれることの多かった患者達にとっては治療に専念できる理想的な環境と言われるようになりました。




これが現在の湯之沢地区付近です。ただし残念ながら地図を見ても "湯之沢" の文字はありません。明治40年、国の方針でらい病患者の隔離政策がとられるようになり、住民の国立療養所への移転が進められたからです。そして昭和16年、ついに湯ノ沢地区は "解散" となり、この時点で草津温泉街かららい病患者はいなくなりました。現在の市街はその後再開発されたもので、当時の建物は残っていません。

明治末期〜大正〜昭和初期といえば草津温泉が観光リゾート路線に転換して湯揉み踊りや草津節が華やかなりし時期にあたりますが、一方でかつては共存していたらい病患者達が "町発展の阻害要因" とされて隔離/排除されていった時期でもあり、時代の趨勢というものがあるにせよその明暗の差はあまりにも激しいといえます。

現在の草津温泉はリゾート開発ど真ん中という感じで明るく爽やかなイメージで売り出していて、それはそれで結構なことなのですが、消えて行ったかつての難病湯治客の存在があまりに希薄というか、まるで存在しないかのような扱いになっているのはちょっと可哀想な気がします。

現在も草津温泉の来訪者の10%程度は湯治客で、それぞれ色々な疾病を抱えて温泉療法を行っているのですが、その存在もあまり見えてきません。これは観光という風評に左右されやすい人気商売と、難病患者を受け入れて来た湯治場としての実績がせめぎあっている部分で、一介の旅人である筆者が簡単に良いとか悪いといえる性質のものではありません。ただありのままの歴史は歴史として認識したうえで、草津という非常に稀有な効能をもった温泉を理解していくべきなのだろうと思います。

<おしまい>






サソ