2010.04.02 靖国神社〜千鳥ヶ淵界隈(その1)




東京で桜を見てまいりましたヽ(´ー`)ノ



どうも今年は桜の開花が遅いらしい。いつまでも寒気が残っていて、熊谷でもようやく3〜5分咲きにはなってはきたもののいまひとつパッとしない状況である (´・ω・`)

そんな中、TVでは 「東京は満開ですぅ♪」 などとやっているので、筆者にしては珍しく都心で花見でもしてみようかと思い立ってみた。目的地は気象庁の開花判定基準木のある靖国神社、およびニュースで映像が繰り返し放送されている千鳥ヶ淵である。




■靖国神社への道




さてマスコミ報道で (何かとネガティブに) 取り上げられることの多い靖国神社だけれども、地方在住の方だとその正確な位置を知らない人も多いのではないだろうか。場所は皇居に隣接した九段界隈で、戦没者墓苑のある千鳥ヶ淵と隣接している。市谷駅を挟んで付近には防衛省のある市ヶ谷駐屯地があり、他の省庁+国会議事堂、首相官邸などの集中する皇居南側の永田町〜霞ヶ関界隈とは多少雰囲気が異なっている。

首相官邸からの距離は2km足らずで車に乗れば5分とかからない。しかし1980年代に朝日新聞がA級戦犯合祀について騒ぎ立てたことから中国/韓国の政治干渉を招き、たったこれだけの距離を日本国首相が自由に行き来できない異常事態が続いている。…が、今回は政治問題は控えめにして比較的マターリと風景を描写してみよう。




そんな訳でJR中央線の市ヶ谷駅である。花見の季節、都心にクルマで乗り入れるのは少々無謀(^^;)なので今回は鉄道で訪れることにした。

熊谷からだと高崎線〜山手線〜中央線と乗り継いで、市ヶ谷駅で降りることになる。靖国神社には飯田橋駅から行っても距離は大して違わないのだが、市谷駅からだと靖国通りの桜をよく見ることが出来るので散策の上ではこちらの方が都合がよい。




市ヶ谷駅のホームから周囲を眺めると、既に堀端の桜が満開であった。中央線は旧江戸城の外郭に沿って走っており、城の外堀がよく見える。




かつての江戸城の外堀は総計12kmほどもあって、千代田区と中央区の一部にわたってぐるりと逆コの字形を描いていた。城の東側は隅田川が事実上の外堀の役目を果たし、その堤にも桜が植えられていた。滝廉太郎の 「花」 で "春のうららの隅田川〜" と謳われたのはその桜堤である。

現在の外堀は都市開発によって国会議事堂周辺〜八丁堀にかけてはすっかり埋めたてられてしまったが、市ヶ谷周辺は保存状態も良く往時の面影をのこしている。




■靖国通り




さてそれではさっそく靖国通りを歩いてみよう。実を言うと筆者は靖国神社を訪れるのは始めてである。中央線に乗ることはあっても市ヶ谷で降りることなど滅多になく、靖国通りを歩くのもおそらく初めてなのだ♪ ヽ(´ー`)ノ




歩き始めてすぐ気がつくのは、駅の脇にある外濠公園である。堀に沿った幅10m程度の細長い公園で、街路樹はもちろん桜である。ビルをバックした桜よりもこちらの方が風情がありそうだな…w




…が、いきなり脇道というのもアレなので(笑)、とりあえず王道ということで靖国通りを行くことにする。




通りはひたすらに桜、桜…で埋め尽くされていた。これが靖国神社までずっと続いているのである。




日本で街路樹としての人気のある樹木は大雑把に30種類ほどあるそうだが、年間でわずか10日ほどしか見頃のない桜がわざわざ選ばれているところに、日本人の価値観が色濃く現れているような気がする。

命短くとも一瞬きらめいて儚く散る…それが美しいとされるようになったのは平安時代の後半、日本が遣唐使を廃止して "中国絶ち" を250年ばかり続け国風の文化が醸成された時代である。歴史的にはちょうど武士が台頭してくる時期にあたり、以降の武家のありようにもそのイメージが投影されてきた。源平から鎌倉〜室町〜南北朝〜戦国〜江戸…と続いて、明治期以降武士階級が廃れてもその伝統は残った。靖国に続いているのはその系譜の思想ともいえる。いわば"シビアな意味での桜" である。




一方庶民の感覚としては、農業暦の代用とか学校の入学式/卒業式…あるいは花見の宴(^^;)と絡んで春の季節感を代表する花として捉えられてきた。現代では入学式のイメージが特に強いかもしれない。

近代教育においては明治5年の学制制定で文部省布達第十三号別冊に 「学区取締ハ毎年二月、区内人民子弟六歳以上ナルモノノ前年学ニ就モノ幾人、学ニ就カサルモノ幾人ト第一号ノ式ノ如ク表ヲ作リ、之ヲ地方官ニ出シ、地方官之ヲ集メテ四月中督学局ニ出スヘシ」 とあり、4月が入学者受付の区切りのひとつであったことが伺える。ただしこの頃は入学は随時可能で、4月に一斉入学…という風景はまだ見られない。

4月からの就学が始まるのは、明治時代前後の世界基準=大英帝国の制度に倣って会計年度の区切りを4月にしたのが起源(→明治19年)のようである。学校の運営も会計年度に合わせよとのことで、まず尋常小学校が明治33年に4月入学に切り替わった。ただし旧制高校や帝国大学は対応がバラバラで、ほぼ全学が4月入学となるのは大正10年頃までかかった。入学/卒業に関する桜の情緒はこれ以降に形成されたもので、実は案外新しいのである。

<つづく>