2010.04.30 東野鉄道の廃線跡を訪ねる:後編(その1)




前回の続き〜ヽ(・∀・)ノ

■ ふたたび黒羽から




さて前回は西那須野から黒羽までを訪ねてみた。この区間は最後まで鉄道の営業が行われていたいわば "縮小された東野鉄道" にあたる部分である。今回はここから先、那須小川駅跡までを走ってみることにしよう。

…が、いきなり走り出す前に前回のおさらいの意味も込めて東野鉄道の成立時の状況をもう少し振り返ってみたい。
前編でも少述べたように、東野鉄道は那須野ヶ原西部が開拓事業によって急速に発展する中、既存の城下町であった大田原や黒羽が地盤沈下していったことからその挽回を目指して敷設された経緯がある。もちろん株式会社の形をとったことで出資者は地元民以外にも多数おり、当然のことながら純然たる投資行為として参加した者や 「おらが町まで鉄道を引っ張るぜよ」 と下心を持った株主(^^;)もいたわけだが、事業の旗振り役の中心はあくまでも地元愛にあふれる黒羽の有力者であった。

栃木県庁に発起人が集まり会合を開いたのが大正2年で、その年のうちに鉄道敷設申請が出され8月には免許が降りた。翌年に第一次世界大戦が始まったことから工事は数次の延期を経たが、大正7年4月に竣工、開通にこぎつけている。




こうして誕生した新・鉄道会社の社長には黒羽出身の植竹三衛門という人物が就任し、会社名は東野鉄道株式会社となった。東野とは野州、つまり上野国+下野国のうち東の端という意味で、その営業域は宇都宮以東の栃木県と茨城県の一部である。「茨城って何だ?」…と思われる方もいるかも知れないが、この鉄道は当初から小川で終わる予定はなく、馬頭を経由して茨城県の大子までを結ぶ計画だったのである。




その区間は↑このようなものであった。路線の意図するところは明快で、栃木県と茨城県の境界を為す八溝山地を鉄路で越え、東日本の交通の軸=東北本線と茨城県平野部を結ぶ幹線となることを目指したのであった。大子まで抜けることが出来ればそこからは久慈川に沿って水戸方面と連絡(→これは現在の水戸線のルートと重なる)するのも比較的容易になり、これは日立や大洗などの港湾との結びつきを意味するから経済的インパクトは大きい。実現すればまさに夢のような計画なのであった。

第一期工事(西那須野〜黒羽)完成後この黒羽で行われた開通式で植竹社長は 「いささか国家の興隆に貢献せんことを期す」 と志の高い挨拶を行い、続いて夢多き第二期工事に着手する宣言を行った。

…しかしやがて時代は関東大震災、世界恐慌へと進み、また周辺路線との建設競争も激化していく。そして東野鉄道の夢はついに幻と消えていくのである。

…それが見えるのが、これから訪ねる区間である。前置きが少々長くなったが、ゆるゆると進んで行こう。




■ 湯坂川と橋台の列




さてそんな訳で現在ではホームセンター 「コメリ」 になっている黒羽駅跡から南側に進んでみる。

黒羽駅跡にはホームセンター以外に東野交通の職員休憩所となっている部分もあり当時の様子をなんとか想像することができた。しかしその先は宅地化が著しく鉄道の痕跡を追うのは難しい。コメリのすぐ南側にあたる↑このあたりもすっかり造成されて分譲地になっていた。




しかしそんな状況でも黒羽の市街地の縁にあたる湯坂川にはまだ鉄橋の橋台などが残っているらしい。なんとか途切れた道路のその先を脳内補完しながら探してみると…




おお、なにやらコンクリートの構造物跡がある…ヽ(・∀・)ノ




その先に、藪に覆われてはいるがやはりコンクリートの土台らしい構造物が現れた。これが鉄橋の跡である。

ここは深さ10mほどの切り立った崖になっており、那珂川の支流である湯坂川が流れている。黒羽市街地の住宅密集地はこの川を区切りとしてその南側が農村地帯となっている。東野鉄道の第二期工事は、まずこの川を渡るところから始まったのであった。

ところで写真右側で雑木が切られているのが見えるが、これは崖っぷちぎりぎりまで分譲地が造成されて木が伐採されているものだ。このまま宅地化が進行すればいずれこの鉄道遺跡も撤去されてしまいそうな気もするが…果たして市当局はどうするつもりなのだろう?




市街地側からはちょっと藪が深すぎて川が見えないので、ぐるりと迂回して南側からアプローチしてみた。湯坂川は砂岩で出来た岩盤を削ってちょっとした渓流のような様相で谷を刻んでいる。東野鉄道はこんなところに橋を架けて南へと延びていったわけだ。




さてこれは湯坂川の南側崖上の端台跡である。この川は右岸と左岸の高さが違っており、それを補うためにコンクリートの橋台が転々と連なっている。鉄道が現役の頃は、ここは低い鉄橋のような外観で線路が延びていたようだ。




橋台は、周辺の民家の庭先に取り込まれて転々と続いている。蛇尾橋〜中田原のような土盛りではなく鉄橋にした理由というのがよく分からないが…土手を造るよりは安く済んだということなのだろうか。




近くに寄ってみると…おお、鉄道の土台だけに結構デカい( ̄▽ ̄;)

それにしても史跡として保護の対象になっているような様子も無く、これが民家の庭先に何十年も保存されているというのは少々奇妙な光景のように思われた。庭石にするにはちょっとマニアックすぎる(?)形状だと思うのだが…w




水田を挟んでその先にも橋台跡と思われるコンクリート構造がみえた。こちらも絶賛放置プレイ中…といった面持ちだが、とにもかくにも 「保存されている」 という一点において貴重な史跡といえる。

ちなみにこの湯坂川の鉄橋は映画のロケ地としても使われたようで、郷愁の野州鉄道の記述にによれば山本有三原作の 「路傍の石」 の鉄道のシーンなどがここで撮影されたという。 黒羽以南は路線廃止後、基本的にレールは撤去されていたのだが、黒羽駅から数百メートル程度(ちょうど鉄橋末端あたりまでか)は残されており、ちょうど撮影には都合の良い状況だったらしい。藪で覆われた今の状況からは想像も出来ないが、きっとかつては絵になる良い風景が広がっていたことだろう。




■ 狭原〜湯津上付近




湯坂川を越えてしばらくは、鉄道跡地は区画整理によって水田と民家のパッチワークのような状況になり、痕跡がはっきりしない。しかし大豆田を過ぎるあたりからふたたび鉄路の跡をクルマで追えるようになっていく。やはりこの先も、鉄道の跡地は道路に転用されているのであった。




この付近では鉄道はほぼ一直線に南下していく。転々と集落が川沿いに連なり、そこを旧街道(R294)が縫うようにつないでいるのはここが河岸段丘の底にあって回廊のような構造になっているためだ。水運も、道路も、鉄路も、自然の地形に逆らわずに物流路を造ろうとすれば結局似たようなコースになってしまうという典型例だろう。




さてやがて狭原駅のあったあたりに来るのだが…既にこの区間が廃止されて70年も経過しているためか、痕跡らしいものは見出せない。




付近では路面もすっかり拡張されてご覧のとおりである。幹線道路としてはすぐ東側=那珂川沿いを走るR294のほうが沿線の人口も多く走るクルマも多いのだが、道路というものはそこにある限りどんどん拡張されてゴージャスになっていく運命にあるらしい。




小船渡の集落近くまで来たところで農家の方に聞いてみたところ、どうやらこの辺りに湯津上駅があったという。場所は田島公民館の50mほど北側である。しかしやはり道路拡張工事によって駅の痕跡は綺麗さっぱりなくなっていた。




「ほんの10年くらい前までは、ここにホームの跡があったんですけどねぇ」

…と農家の方の指差すあたりには、新しく拡張された道路の境界標が打たれていた。湯津上村を表わす 「湯」 の字が見えるが、今ではその湯津上村も大田原市に吸収されて消滅してしまった。まさに光陰矢の如し…( ̄▽ ̄)




その先も道路は拡張されており、笠石神社への入り口近くにあった笠石前駅の痕跡も残っていなかった。
うーん…こりゃ〜参ったな…( ̄▽ ̄;) ここまですっかり破壊されてしまっているとは…

<つづく>