2011.03.11 震災の日 (その1)




今回は、紀行ではなく後日のための記録です(´・ω・`)



平成23年03月11日というのは、現代日本人にとっての強烈な共通体験=東日本大震災の起こった日である。幸いにして筆者の居住地である栃木県、そして秘密基地のある埼玉県は比較的軽微な被害で済んでいる。…が、それでも幾分かの影響はあったので、記憶の薄れないうちに当時の様子を書き残しておきたい。




■03/11 (震災当日)




さて震災の当日=平成23年(2011年)03月11日は金曜日であった。筆者は埼玉県某所のとある工場で底辺労働に従事しており、この日の午後はたまたま研修室で偉い先生のセミナーを聞いていた。天気は晴天。世間は花粉の飛ぶ季節で、杉の木が真っ赤に染まって花粉を飛ばしまくっている…そんな、平和な週末の午後だったのである。

午後2時46分すぎ、初期微動のかすかな揺れが来た。普通なら気に留める必要のないようなレベルだったれども、しかし妙に長かったのを覚えている。30〜40秒ほどもこれが続き 「…地震ですかね?」 などと声があがった後に、グラリと大きな横揺れがやってきた。周囲にいた誰かが声を上げる。

「でかいぞ!」

どのくらい揺れていたのか、正確な時間は測っていない。しかしこの横揺れもかなり長く、気分的には緩急をつけながらも1分以上は続いていたように思う。その間、まるでテレビの地震特集でよく出てくる油圧式の振動体験マシーンにでも乗っているような感じで、机や椅子が踊っているのが見えた。もちろん机や椅子を置き去りにして床のほうが動き回っていたのであるが…(´・ω・`;)

気象庁によるとこのときの筆者の居所=埼玉県北部の震度は5強であった。 …が、このとき筆者にはその情報はなく、初期微動が長かったことから震源は遠くだな…、それでいてこの揺れ方だから震源近くはさぞ大きく揺れただろう…という漠然とした意識しかなかった。




さて民間企業は巨大地震が起こったからといって簡単に早期退社とはならない。

余震が続く中、きっちりと定時過ぎまで設備の点検などが続いている間に首都圏の鉄道網が全線ストップした旨の構内放送が入り、職場の電車通勤者はほぼ全員が帰宅難民となった。筆者の秘密基地は比較的近場なのでバスで駅まで行き、あとは徒歩でアパートに戻った。長い週末の始まりであった。

部屋の中では食器が全損していたものの、それ以外の大きな被害はなかった。知人の中には買ったばかりの液晶TVがひっくり返って画面のど真ん中に大きなキズが入った人もおり、それに比べたら100円ショップで買った皿などモノのうちには入らないだろう。ひとまずPCとカメラが無事であれば贅沢は言うまい(^^;)




…で、TVをぽちっと点けてみると…信じられない被害が出ているのであった。

これは仙台の名取付近らしい。堤防やら防風林をなぎ倒して巨大津波が襲ってきていた。




この時点では地震の規模はM8.8と発表されている(後にM9.0に修正)。見慣れない 「大津波警報」 の文字が画面に躍っており、北海道から沖縄まで太平洋側はすべて警報で埋め尽くされていた。




東京湾岸では市原の石油コンビナートが爆発炎上していた。…おいおい、こんな光景は怪獣映画の特撮シーンでしか見たことが無かったのに、いったい日本はどうなってしまったんだ?!




都内では交通渋滞がエライことになっている。空港は離発着停止、鉄道は新幹線/在来線とも停止である。




駅やバス停、タクシー乗り場など、あらゆる交通機関に大量の帰宅難民が溢れている。

なお画面右上に見える死亡者数は、この時点(午後9時)で60名程度である。TVの津波映像をみればその程度で済む筈がないことは容易に想像できるが、警察発表は確認された人数でしか行われていない。これが、どんどん増えていくのを筆者はポカーンと見ていた。




午後10時を過ぎると燃える気仙沼市街の映像が流れてきた。…これはもう、壊滅状態としか言いようがない。自衛隊の偵察機も手の施しようがなく、ただ見ているだけ…という映像が延々と続いていく。

夜半を過ぎると、大学教授らしいセンセイ方が多数登場して地震のメカニズムの解説報道が盛んになった。…が、それは別にこのサイトで記録しなくても良さそうなのでカットしておこう。




■03/12




さて翌日である。本震から20時間ほど経過してもTVではまだ津波警報が続いている。余震も断続的に続いており、救援活動はまだ本格的には始まっていない。地上波TVはどのチャンネルも震災特集であり、それぞれ勝手な呼称でこの未曾有の大地震のことを呼びはじめていた。被害者のカウントは、あまりの被害の大きさに死亡も行方不明も一緒くたの数え方にシフトしたようである。残念ながらこの状況で行方不明ということは、ほとんど死を意味しているようなニュアンスなのであった。

ニュースによると日本政府がモタモタしているうちに米軍の方が動き出し、トモダチ作戦なる救援活動を開始するらしい。地震発生後から9時間半後の3/12 00:15、米国オバマ大統領からの要請で菅総理との首脳会談(電話)があり 「支援するから待ってろ」 との話があった。日本の政治家よりよほど頼りなるというか、さすがに自称 "世界の警察" は決断も行動も素早いのであった。




普段筆者は新聞は読まないのだが、この時期なのでコンビニで買ってみた。当たり前だが地震一色の紙面である。このときは津波の高さが10mと書かれているが、それは潮位計が振り切れてそれ以上計測できなかったためで、最大39mという数値がずっと後になってから報告されている。




写真2枚と見出しだけ…というレイアウトもみえる。新聞社も絵としてのインパクトを前面に押し出している。
それだけ衝撃的な災害だったということだろう。




…そしてこのとき、福島原発は冷却機能を喪失して既にメルトダウンの危機にあった。発表されているより事態は深刻で、原子炉格納容器内の圧力は設計限界を超えて急激に上昇していたらしい。

どこぞのアホ総理が専門家の議論に首を突っ込んで 「オレがオレが」 と事態をかき回していたのがこの頃である。緊急事態でバタバタしている東京電力本社に乗り込んでいって 「説明しろ」 などと怒鳴り散らし、何時間も作業を遅らせたことが後に非難を浴びることになる。




そんなこんなで、本来なら週末は自宅に帰らなければならないのだが、TVから目が離せない。どうやら、原発もいよいよ危なくなってきたらしい。アホ総理は今度は 「俺が視察に行く」 と言い出してヘリで現地上空を遊覧飛行、このパフォーマンスが決定的な時間のロスを招くことになる。午前7時の頃である。

のちに分かったことだが、この頃既に炉心は解け落ちていわゆるメルトダウンを起こしつつあったらしい。午後3時ごろには建屋内の放射線量が通常の1000倍を越え、建屋外でもセシウムが検出されはじめていた。昨日のうちならまだ安全に行えたであろうベント作業は決死隊が時間を区切って突入するカミカゼ型で実施されることとなった。




午後4時前、炉心溶融の速報が流れた。1号機の建屋が爆発を起こし、もはや誰の目にも危機的状況であることが明らかになったためであった。その後専門家らしい学者先生が登場して 「炉心溶融とメルトダウンは必ずしも同じものではない云々…」 と苦しい解説を始めたが、もはや制御不能であることに間違いはなさそうである。

そしかしこの時点では 「放射線はまだレントゲン1回分」 などの説明が繰り返されるのみで事実関係は伏せられたままである。付近の住民は何の情報も与えられないまま、機械的に描いた半径10kmの円の内外で一時避難と屋内退避の指示だけを受けていた。




さてそんなこの世の危機にあっても単身赴任のお父さんはマイホームに戻らねばならない。埼玉県は直接的には被害らしい被害もなく街が瓦礫の山になった訳でもないが、午後になるとガソリンスタンドにクルマの列が出来始め、物資不足の影響が及び始めていた。この時点ではスタンドには給油制限はなく、並べば満タンにしてもらえる状況にある。

いつも利用している東北自動車道路は緊急車両優先で一般車は通行止めになっていた。実はこの時の措置でタンクローリーや民間の支援物資輸送まで止めてしまったことで東北地方の物資不足が加速していくことになるのだが、それが改められたのはずっと後のことであった。




高速道路が使えないのでやむなくシタミチを行く。…が、これがもう大渋滞なのでエライこっちゃなのであった。この時点では下り線のほうが圧倒的に混雑しており、どうやら東北に向かう人が極端に増えているようであった。家族や知人の安否を確認したい人が多いのだろう。

そのような次第で、いつもなら高速利用で2時間半くらいで行ける距離を、6時間以上もかけてノロノロと進む。これがまたガソリンを食うのだなぁ…orz




すっかり暗くなったころに那須に到着すると、コンビニには既に食料品が無かった。コンビニだけではなく、深夜営業のスーパーなども商品がすっかりなくなっている。

セブンイレブンの中の人に聞いてみると、栃木県北部エリアの商品は茨城方面から調達しているものが多く、その茨城県が震災で甚大な被害を被ったので入荷がなくなってしまったと言っていた。高速道路が通行止めになったのも響いているという。…なんだかなあ。

<つづく>