2011.07.23 復活のアクアマリン、そして福島原発に向かってみる:後編 (その1)




前回の続きです〜(´・ω・`)ノ

 
さてそんな訳で前回の続きである。ここからは海岸沿いを北上して原発方面にアプローチしていくことにしよう。

この地域はかつての陸前浜街道に沿った細長い平地の連続する回廊のような地帯で、福島県内では浜通りと呼ばれている。奥州街道沿いに発達した白河〜郡山〜福島一帯の中通り、猪苗代湖より西側の会津とはそもそも文化圏が異なり、阿武隈山地による地理的な分断もあってむしろ回廊の両端にあたる北の仙台、南の水戸との結びつきが強い。


 
この浜通りのちょうど中間付近が、発電所の集中する電源地帯となっている。発電所というのは存外に大きな敷地面積があり、一箇所の広さは2〜3km四方ほどにも及ぶ。この巨大な敷地の中に何基もの発電炉を並べて集中的に運用する…というのが日本の火力/原子力発電所の(幾分貧乏くさい)特徴であるのだが、そのへんの解説は他のニュースサイト等でさんざん報じられているのでここでは省略しよう。

今回は一般人の近づけるぎりぎりのポイントということで、広野火力発電所に隣接する J-VILLAGE を目標にして行く。航空機で上空から見下ろせばこの地図↑のような壮観な風景が見られるはずだが、残念ながら今回はクルマでの移動なので目の高さ以上の視点はない。まあそれはそれとして出発してみよう。




■海岸沿いを北上する


 
水族館を出た後は、ふたたび津波に破壊された市街地を行く。

埠頭を出てゆるゆると進む小名浜市街地では、まだ信号機があちこちで死んだままになっている。もう7月も半ばを過ぎているのにこんな状態が放置されているのはちょっとした驚きだ。ほんの1000m先では普通の市民生活が続いているのに、いったい何がこれほどまでに復興を遅らせているのだろう。


 
幹線道路から一歩奥まったところには、損壊した建物が今もそのままになっている。津波の高さは地上から2m程度でちょうど建物の1階部分がぶち抜かれた格好になっている。

こういう状況は素人目には 「全壊でなくて良かったですね」 と言いたくなるところだけれども、実際には土台や柱が損傷してしまって結局建て直しが必要になり、実質的に全損と変わらないケースも多いらしい。いわき市にはこんな状態の住宅が非常に多い。


 
いわき市内では全壊(全損)と判定された家屋は7/1の段階で6000棟あまりに上っている。一部損壊まで含めると34000棟ほどになり、補償や再建支援がどのような形式になるのか筆者にはよく分からないが、気の遠くなるような処理が待っていることだけは間違いない。

こういった損壊家屋の解体/撤去は現在、所有者からの申請に基づいていわき市が代行している。解体を個人責任に任せておくといつまで経っても瓦礫が片付かないので、ここは公的サービスとして市が引き受けた訳だ。ただしあくまでも申請があってから個別に対応するタテマエなので、ひとつの地区がまるごと壊滅している場合でもブルドーザーで一気にガガガ…という効率的な対処にはなっていない。未曾有の大災害に単発の解体作業を延々と繰り返すというアホな事態 (※市当局は大真面目である) になっているのは、ひとえに政治の不毛のなせる業といえるだろう。


 
実をいえば、瓦礫(流された家財道具や車などを含む)や損壊家屋に付随する個人の財産権を制限して一気に片付けるための仕組みは災害対策基本法の中に既にある。しかしそれを発動するための災害緊急事態の宣言を菅内閣が行わなかった(※)ので、従来法制の枠内でちまちまと処理を進めるしかなかった…というのがこの非効率な状況の要因であるらしい。

街が消えて何万人もの避難民が途方に暮れている前で、瓦礫を片付けるのにいちいち "ゴミは分別しましょう" などとやっているのはその最たるもののように思える。…が、ここは政治ブログでも法律事務所でもないので慣れないツッコミは適度に端折っておこう( ̄▽ ̄;)

※この宣言を今行わないでいつやるんだ、という議論は散々出尽くしているのでここでは取り上げない




■小名浜漁港


 
さてまだ筆者は小名浜に居る。水族館から1kmほど海岸沿いに進んだ小名浜漁港である。

現在の小名浜港は総延長が6kmほどもある巨大な港になっている。そのうち南側の7割ほどが工業用埠頭、残りがレジャー用途と漁港になっており、先のアクアマリンふくしまもその一部に過ぎない。拡張された港では辰巳町にある大型埠頭から順に第一、第二…と埠頭名が付いており、現在は第7埠頭までが稼動している。しかしその北側にも第0番とでも呼ぶべき小埠頭があり、実はここが近世における小名浜港の発祥の地なのである。

この埠頭の列の北端は三崎という岬の影の部分にあたり、付近の字名は "古湊" という。地名が示すようにここは小名浜の最も古い市街地である。

沖合いの海中に長大な防波堤を築く技術の無かった時代、ここは外洋から打ち寄せる波を避けて停泊するのに適した場所であり、明確な記録はないものの最初の港はここに流れ込む小名川の河口港として始まったようだ。付近には縄文時代に遡る遺跡もあり鹿の骨で作った釣針なども発見されていて、その起源は古い。


 
そんな古い港に建つ市場の施設は、柱と天井だけのガランとした姿となっている。震災直後には乗り上げていた漁船も現在は撤去されている。

一階部分は津波で綺麗に流されてしまっているが、もともと水揚げされた魚のコンテナを並べるだけのスペースであり、漁協の方曰く現在の様相でも水揚げとセリは可能とのことであった。 しかし実際の水揚げはまだ行われていない。


 
実は先月(=6月)、小名浜漁協はカツオ漁の解禁時期に合わせてここで初水揚げを行う計画を立てていた。

しかし残念ながら原発事故が収束していない現在、"福島県産" というだけで市場では魚に値が付かない。何度も慎重に検討が行われた結果、結局、直前になって水揚げは中止となってしまったのであった。


 
水産庁では東北沿岸の近海魚に含まれる放射性物質を毎週調べていて、その結果をみると福島県沿岸ではまだ暫定基準値を超える検体が時々見つかっている。これは地元の漁師も承知していて、さすがに福島県でこの時期に "沿岸漁業" をやろうとしている漁協はない。

ちなみに先の小名浜漁協の行おうとしていたカツオ漁の漁場は福島県から数百kmも離れた三陸沖や八丈島方面であり、実は他県の漁船もほとんど同じ漁場で操業しているのである。しかしそれでも水揚げ港が福島県内というだけで敬遠されてしまう訳で、これはさすがにちょっと可哀想な気がするのであった。

※補足:その後8/29になってカツオ漁の初水揚げが行われ、ようやく復興が緒に就いたらしい




■ 永崎


 
小名浜を離れた後は、県道15号線(r15)で海岸線を北上していく。道路の瓦礫はさすがに片付けられたようで、クルマで走るのに特に大きな支障ない。ただ歩道部分には津波由来と思われる堆積砂がところどころに残っていて、確かに水がきたことを示していた。辺りの建物はことごとく壊れており "津波" というものが広大な地域を巻き込んだ災害であることを改めて認識させられる。

民家の壊れ方は、ブロック塀=全倒壊、住居=壁抜けというパターンが多いようだ。日本家屋というのは力学的には柱で屋根を支えてオマケのように壁がくっついているので、津波や洪水のように横からの大きな力が加わるとまず壁だけが抜けるように壊れやすい。これは壁財で全体を支える欧米建築とは違うところで、この構造のおかげで 「2階に逃げて助かった」 という人は多かったにちがいない。2階部分まで水が来た相馬以北に比べて相対的に死者/行方不明者が少なかった理由は、そんなところにも一因があるような気がする。


 
さてそうこうしているうちに永崎付近までやってきた。ゴーストタウンではない人の生活の匂いの感じられる地区が見えてきたので 「おお、ちゃんと残ったところもあるんだなぁ」 と思ってみたのだが、そういう地区はほんの少しだけ海面から高かっただけであることが多い。

写真↑は永崎南端の大平という字名のあたりなのだが、ここは標高が6〜7mほどあって津波がぎりぎり到達しなかった。一方でほんの100mほど向こうには津波の破壊跡が広範囲に広がっていて、そのあまりの対称ぶりにまるで悪魔が気まぐれに引っ張った境界線でも存在するかのような印象さえ受ける。


 
海浜集落というのはたいてい小河川の三角州とか隆起した砂浜とかの平地に形成されるものだが、浜に近い一等地は古くからその土地に住む旧家が占めていて、新参組や分家組などは周辺の傾斜地に住んでいることが多い。

今回の津波はその一等地を集中的に破壊して周辺部だけを残す格好になった。皮肉といえば皮肉な結果ではあるけれど、今回はその被害の大きさから一等地の価値基準そのものが変わる可能性もありそうだ。


 
その被災集落中心部にやってきた。破壊された一等地の住宅街は、やはり1階部分をぶち抜かれて山寺の楼門のような風体になっているものが多い。塀はやはり殆どが倒されていて、どこまでがどの家の敷地なのか傍目にはよくわからない。

遠目からみると建物のシルエットは一応 "住宅" としての形を保っているように見えるが、内部の破壊の程度は凄まじくふたたび人が住むには相当な修理が必要だろう。


 
永崎の集落はもともと遠浅の砂浜だったところに堤防を兼ねた道路を通して拡張された地区で、住宅地の標高は海抜1〜2mくらいしかない。海水浴場の駐車場を兼ねた護岸堤部分を越えられてしまうと、津波は住宅街を埋めるように流れ込む地勢になっていた。


 
通りを挟んだ堤防には、捻じ曲がった鉄柵が見える。津波がここを乗り越えた痕跡である。ちょうどここは海水浴場の真正面で、堤防の上面は駐車場を兼ねた幅広スペースになっている。

ここは筆者も過去に何度か訪れており、遠景に三崎を入れながら砂浜の写真を撮ったことがある。…さて、震災の後はどうなっているのだろう。


 
…と、思って海側に出てみて驚いた。

なんと、砂浜はすっかり無くなっていたのである。


 
ちなみにこれが2009年に撮影した同じ場所の風景である。広々とした砂浜が特徴の、実に平和な海水浴場だった。

それが…いったいどうしてしまったのだろう。潮の干満の差だけではちょっと説明には無理がある。…やはりこれは広大な地盤沈下が起こっているような気がする。


 
砂浜は永崎の北側の港に近い付近ではいくらか残っている。…が、波でヒタヒタ…と洗われていて、以前は無かった筈の大きな石がゴロゴロと打ち上がっている状態であった。

…これでは事実上、海水浴場は消滅してしまったようなものだろう。夏は家族連れでにぎわうところで地元に落ちるお金も結構な額であったろうに…これは、厳しいなぁ。


 
海岸では、一人のご老体がお孫さんらしい幼子を抱えて静かに海を眺めていた。これがまた、寂しい光景なのである。

打ち寄せる波がいずれまた砂を運んで新しい浜を作り上げていくのだろうけれど、いったいどれほどの年月を要するのか…筆者には、よくわからない。

【つづく】