2011.10.08 那須:姥ヶ平の紅葉(その1)




那須で紅葉を見て参りました〜 (´・ω・`)ノ

 
いよいよ那須で紅葉が始まったので茶臼岳に登ってみた。場所は定番の姥ヶ平である。今年は9月の残暑が長引いてなかなか紅葉の始まる気配がなかったのだけれど、10月に入って急に寒波が到来したため一気に色づきが進行しはじめている。今回はその景観をマターリと眺め、かつ毎度毎度同じようなレポートではつまらないので火山史の話も交えながらヨタ話を書いてみよう。

※ところで今回、MAPの↑アプローチルートがいつもの那須塩原駅からではなく東北自動車道路経由になっているのは前日に深夜残業があってそのまま寝ないで移動してきたためである orz …こういうタイミングで仕事を振って自分はさっさと帰ってしまうような鬼畜な上司は、落下してくる人工衛星にでも当たって(以下省略)…ヽ(`◇´)ノ


 
ところで姥ヶ平の地勢は過去のエントリーでも何度か説明しているのだが念のため再掲しておきたい。那須連山の主峰である茶臼岳の西側斜面中腹、標高1600m付近に開けた数百m四方ほどの平地が姥ヶ平である。ここは噴煙を上げる茶臼岳をバックにして紅葉を見ることが出来るため、観光ポスターなどの定番の撮影場所となっている。

ここには奪衣婆の石像 (仏像ではないので野仏とは言わない…筈 ^^;) が祀られており、姥ヶ平の地名はそれに由来するものらしい。三途の川の追い剥ぎ婆さんがどうしてこんな所に祀られたのかその理由は不明だが、火山の噴気孔の周囲を地獄に見立てるのはよくあることなので、その延長線上にあるのかな…と筆者は勝手に推測している。




■朝の風景


 
さて途中、那須インターから殺生石まで登ってくると、那須温泉神社に大量の提灯が上がっていた。おお、そういえば今日は例大祭なんだな…。

…が、しかしこちらを立てればあちらが立たず orz

ここは紅葉を優先して山を目指そう。…いつか、ちゃんと見てみたいのだけれどねぇ…


 
そのまま一気にボルケーノハイウェイを登って、ロープウェー山麓駅に着いたのは05:40頃だった。

ちょうど日の出の時刻で、久方ぶりの山でのご来光をみる。やはり日本人は山に登ってライジング・サンを見なければならない。


 
ボールケーノ・ハイウェイの界隈はそんな早朝の爽やかさとは対照的にクルマがごんごん登ってくる。今はまさに秋の行楽シーズンに突入した最初の週末…まだ午前6時前だというのに、駐車場はどんどん埋まっていく。

山の道楽 (いや行楽かw) はクルマで訪れた場合、斯様(かよう)に駐車場の競争が激しい。ゆえに筆者は無理をしてでも暗いうちに移動してきたのである。


 
茶臼南端の斜面部を見るとなかなかイイカンジで色づいていた。気温は5℃で、さすがに少々肌寒い。


 
赤く紅葉しているのは主にドウダンだ。これが一日あたり30〜40mほどずつ降りてくるのが例年の状況なのだが、今年は今週になって一気に冷え込みが来たために7合目付近から上がいっぺんに色づいたらしい。

これから一ヶ月半ほどもかけてこの紅葉がゆるゆると里に降りていく。この時期、標高差の大きい那須〜塩原の山々はどこかしらで必ず見頃の場所があり、飽きることがない。


 
 …さてロープウェイの運行開始は7時半頃なので、徹夜移動からの回復を期して少々仮眠をとっておくことにしよう。




■9合目へ


 
…ということでクルマの中で一眠り…のつもりだったのだが、気がついたら午前10時だった(まて)

いかんなぁ、せっかくのピーカンの天気なのに…やはり前日のアレが祟ったのだろうな…ぅぐぅ orz


 
ともかく光線の具合のいいうちに急いで登ることにしよう。ロープウェイは観光シーズン中は混雑具合にあわせて連続運転をしている。片道1回で100名以上を運び上げるのだが、峠の茶屋側の登山道で登る人もあり総勢で何人くらいが入山しているのかはわからない。

…それにしても、この人出をみるかぎり震災の影響はもうほとんど無いような印象だな。


 
9合目の山頂駅付近からは赤く染まった朝日岳が良く見えた。…うおお、失った時間が惜しい(爆)


 
その朝日岳の定番の山裾をアップで撮ってみる。色づき具合は非常によろしい。


 
こちらは隣の鬼面山。やはりイイカンジで染まっている。


 
さて登山客の多くは茶臼岳山頂に向かって巡礼者のように登っていくのだが、筆者は巻き道の方を行くことにした。


 
草紅葉とドウダンの群生を眺めるにはこちらのほうが都合が良いのだ。

※ついでに歩くのも楽なのだ〜ヽ(´∀`)ノ


 
草紅葉といっても、那須の場合は森林限界の上で地表を覆っているのはほぼガンコウランの緑の絨毯で、これはそれほど派手な色は呈しない。その緑の絨毯からちょこちょこと飛び出た小木やコメススキなどが色づいて点々と浮かび上がるのである。


 
せいぜい足元から20〜30cmくらいの高さで展開していく秋の風情…


 
そんなささやかな風景が、しかし見渡す限り薄く広がっている。噴火によって定期的に焼き尽くされてはまた植物がゆっくりと登っていく様は人間の寿命程度の時間間隔ではなかなか実感できないが、ここに広がっている風景はまさにその途中の様相が見えていると言っていい。


 
その気の遠くなりそうな障害物競走の先頭を走るのは地衣類と高山植物の群生である。その最前線があの溶岩ドームの根元あたりにあり…


 
やや遅れて樹木チームの最前線が登山道から200mほど下ったあたりにまで這い上がってきている。

這い上がると言っても、もちろん樹木がスタスタと歩いてくる訳ではなく、花が咲き、実をつけ、それが根元に転がったり飛ばされたりしてほんの少しだけ前進し、やがてそれが芽吹き、成長して、また実を結んで…というサイクルでゆっくりと進んでいくというものだ。

…しかもそれは噴火で火砕流が一度流れ下れば簡単にリセットされてしまう。それを何万年も繰り返しているというスケールを思うと、これはまさに神のゲームであるかのような気がしてくるな…


 
やがて茶臼岳の南側に巻いて行くと、名無し山との間にある谷底に、その神のゲームのスコア表のようなドウダンの群生が現れる。同じ種類の木ばかりが長い年月をかけて生存競争を勝ち抜き、その植生を広げてきた途中経過が、秋になって色彩として見えているのである。


 
これらの樹木は、種類としては明らかに "木" なのだが厳しい環境のゆえになかなか大きく成長することができない。この付近に群生するのはせいぜい膝下くらいの高さのものが多い。


 
しかしよく見るとかつてはもっと大きな木が生えていた痕跡が、枯れ木の存在によって伺えるのである。これは茶臼岳から流れ下った火砕流で破壊されたかつての森の痕跡だ。破壊をもたらした噴火は明治14年7月1日のもので、ざっと130年ほど前のことである。このときは那珂川水系にも大量の噴出物が流れ込み、下流域で魚の大量死が起こった。

文献を遡ると幕末の弘化3年(1846)にも小噴火の記録がみえるが、それ以前は室町時代の応永17年(1410)まで空白期があり、その間は平穏な状態が続いていたらしい。ちなみに応永17年の噴火では茶臼岳の溶岩ドームが出現しており、周辺の村々にまで火砕流が到達し、記録に残っているだけで180名ほどの犠牲者を出している。

森の植生が山を深く覆ったのは、その2つの大規模な噴火(応永〜明治)の間、約470年ほどの期間と思われる。


 
それが明治の大噴火でリセットされて焼き尽くされ、その後130年をかけて少しずつ植生が回復しつつあるその途中経過を、今の我々は見ている。現在の状況は森が再生する前の土壌の形成時期…とでも言えばよいのだろうか。

…いずれにしても、気の遠くなりそうな話である。


<つづく>