2011.10.23 那須硫黄鉱山跡を訪ねる:前編(その1)




那須の硫黄鉱山跡を巡って参りました (´・ω・`)ノ

 
さて今回のテーマは那須硫黄鉱山である。現在の那須町は年間約500万人の観光客が訪れ、そのうち登山客が70万人を占める山岳観光の町となっている。しかし今のようなお手軽な登山が本格化したのはボルケーノハイウェイが開通した昭和40年以降のことで、案外最近のことなのだ。

それ以前にももちろん徒歩で登る道はあったのだけれど、戦前は湯本の殺生石あたりまでがお手軽にアクセスできるエリアで、そこから上は鉱山開発で人が入っている時期が長かった。 そして現在の茶臼岳周辺の観光施設や登山道も元はといえばこれら鉱山施設の跡地の再利用なのである。

その鉱山で何が採れたかというと、金、銀、銅、亜鉛、鉛、硫黄、明礬(みょうばん)などで、鉱区は何箇所にも点在していたらしい。量的には硫黄が多く、特に山頂付近の火口部周辺は優良な鉱床であった。

今回はそんな鉱山の形跡をたどってみたい。例によってあっちこっちに話が飛ぶのはご愛嬌で…(^^;)




■ 1枚の写真から


 
さて那須の温泉街を歩いていると、時々文鎮代わりに硫黄の塊が使われているのを目にする。ちょっと物珍しい置物といった感じで、気が付かなければそれまでなのだけれど、実はこれは硫黄鉱山の置き土産だ。

黄色の純度の高い塊は精製硫黄の端材で、おそらく製品インゴットになり損ねたものだろう。採掘された硫黄は最終的には型に流し込んで巨大ローソクのような形に整形して出荷されていた。もう50年以上も前の話である。


 
現在では絶版となっている 「目で見る那須の100年」 (郷土出版社 1990※) という書物を紐解くと、大正時代の火口付近の硫黄採掘風景が載っている。大正時代というと特にその前半は第一次世界大戦で火薬の需要が急増した時期にあたり、戦争景気で硫黄の価格も急沸していた。鉱山が最も活況を呈した頃といってもいい。

那須硫黄鉱山は生産額では国内9位の規模であったという。実をいうと筆者は当初もっと零細なものを想像していたのだけれど(^^;)、調べてみると歴とした第一級の鉱山なのである。あの山の上(しかも火口部)にトロッコの軌道を敷設しているなどかなりチャレンジャーな試みもしており、これはちょっとばかり手間隙をかけて尋ねてみる価値がありそうに思えた。

…そんなわけで、下調べも漫(そぞ)ろに出かけてみたのである。

※この本は現在ではAmazonマーケットプレイスにもYahoo!オークションにも出品がなく古書サーチにも引っかからない幻の良書である。見つけたら即買いすべきプレミア品なのだが…残念ながら現状では図書館の郷土コーナーくらいでしかお目にかかれない。




■ 殺生石から


 
さてこの日、那須一帯は雨であった。早朝に県道17号を茶臼岳方面に登っていくと、湯元の温泉街は雨に煙って幻想的な雰囲気となっている。まあ雨といっても霧雨なのだけれど、山に登るにはちと無理がありそうな気がして、今日は途中撤退もありという覚悟で来ている。

なんでこんな日に登ってきたかというと、ずっと週末が雨続きでせっかくリニューアルした AF-S NIKKOR 18-200mm VR2 の初陣がさっぱり叶わなかったので痺れを切らしたのである(笑) …が、まあそれは筆者の事情なのでしばらく脇に置いておこうw


 
ところで那須で硫黄鉱山というとWEBでは茶臼岳火口付近の話題が多く、その源を辿っていくと3年ほど前に復活した茶臼岳の山神の碑に行き着く。最短距離でオチにたどり着くならそれでもよさそうだ。

しかし今回のレポートでは、実は山神の碑は後回しにすることに決めているのである。筆者としてはもう少し寄り道をして、ゆるゆると行きたい。そしてゆるゆるついでに、鉱山探訪はここ殺生石から始めたいと思った。

…なぜなら、ここも実は硫黄鉱山の跡地のひとつだからである。


 
予習ついでに調べてみたのだが、明治維新より以前の "日本の鉱山を網羅する公式資料" というのは実は存在しないらしい。徳川幕府は金/銀/銅山には強烈な執着を持ったといわれるが、その成立期に全国の有力鉱山を片っ端から天領として召し上げたために、各地の大名は領内の鉱山開発についてあまり意欲を持たなくなったとも言われる。そして仮に何かが見つかっても、幕府に進んでその実態を報告しなかったらしいのである。一口に鉱山といってもその背景事情はなかなかに難しいのだ。

明治維新の後、新政府はドイツ人地質学者ハインリヒ=E=ナウマンを招いて国内の地質調査を行い、明治8年になって文部省がこれを各府県金石試験記というタイトルでまとめた。これがわが国における最初の公式鉱物誌といわれ、橡木県(当時は栃木県にこの字を当てていた)那須郡には以下の2つの鉱山が記載されている。

硫黄 下野国那須郡湯本村
明礬 下野国那須郡湯本村

前者は茶臼岳火口、後者は湯元温泉(殺生石)を指すらしい。これは時期的に幕末の鉱区をほぼそのまま引き継いでいるものと思われるが、明治14年の茶臼岳の大噴火で火口の鉱区は火砕流に直撃されてきれいさっぱり失われてしまったので、今では当時の詳細はわからない。

その後那須郡では6箇所ほどの鉱区が新たに登記されており、その中に湯本鉱山というのがみえる。これが現在の殺生石で、登記された鉱区は1万7000坪ほどあった。1万7000坪といってピンと来ない方は、おおよそ上の写真で示された園地の範囲がそのくらいの広さだと思えばよい。


 
現在の賽の河原は、噴気が随分と少なくなって周辺から徐々に草木の侵略を受けている。しかしかつては朦々(もうもう)と煙があがり地表の温度は80〜90℃ほどもあった。この噴気に含まれる硫黄が付近の砂礫や岩石に分厚く沈着しており、ここではそれを採取していたのである。


 
賽の河原の噴気は常に一定という訳ではなく、多く噴き出す時期とそうでない時期を交互に繰り返してきた。現在は少ない時期にあたっており、かつてのような派手な噴煙のヴィジュアルはちょっと望めない。

岩石上の硫黄の層はその噴気の緩急にあわせるように年輪状に形成されている。汚れて黒っぽくなっている層が噴気の弱かった時期の表面で、硫黄はこの層を境にして剥がれやすい。硬度はそれほどなく、踏めばザクっと崩れるくらいである。


 
採掘の痕跡を伺わせるものとしては、岩石にタガネを打ち込んで砕いた跡がいくつも見られる。

…と言っても、べつにこの石を溶鉱炉などで溶かした訳ではない。硫黄は融点、沸点とも一般的な金属鉱物より低いので、鉱石を400℃くらいに焼いて昇華したものを冷やして再結晶させれば容易に精製できるのである。方法には幾通りかあり、鉱石を焼く以外に、硫黄分を含む噴気を石垣状にならべた石導管に通して自然冷却で再結晶させたり、あるいは噴気の上に藁(わら)や萱(かや)のような繊維質を置いてその表面に析出させてもよい。

工業原料としての純硫黄を得るためには昇華法や煙道法が、また入浴剤レベルの硫黄分を得るには簡易的な萱敷き(湯畑方式)が行われたらしい。それ以上専門的なことになると筆者にはよくわからないのだが、まあ野次馬的に産業遺構を眺める程度であれば、こんな予備知識でも十分だろう。

タガネで割られた岩はどうやら煙道を作るのに用いられたような雰囲気を感じるが、素人の印象であまり断定的なことを書くのもアレなので、ここは門外漢の特権でマターリと雰囲気だけを味わうことにしたい(笑)


 
殺生石での硫黄の採掘は、近代では幕末と戦時中を除けば "湯の花の採取" の方が有名であった。残念ながら現在では商業ベースでは行われておらず、観光客用にデモンストレーションとして小規模な湯畑が造られているのみである。

※噴気からではなく温泉の湯から採取する "湯の素" は今でも販売されている。


 
そのデモンストレーション区画はこんな感じになっている。噴気の出る斜面に粘土を敷いてそこに萱(かや)やススキの穂を敷き、そのまま100日ほど放置するらしい。


 
やがてその表面に硫黄が沈着して、チョークの粉で固めたような状態になる。これが湯の花で、かつては専用の工具でかき取ったものを販売していた。温泉組合に加盟する組合員はそれぞれが自分の湯畑を持っており、年に3回ほど回収していたという。


 
この採取方法には、実は縁起がある。

賽の河原の一角にある盲蛇石がそのモニュメントとなっており、こんな伝説が伝わっている。





  <案内板より>

昔、五左ェ門という湯守が長く厳しい冬を越すために山に薪を採りに行きました。その帰り道、五左ェ門がこの殺生河原で一休みしていると2メートルを超える大きな蛇に出会いました。大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。可哀想に思った五左ェ門はこれでは冬を越せないだろうと蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげました。

次の年、蛇のことを忘れなかった五左ェ門は湯殿開きの日に小屋に来て蛇を探しました。しかし蛇の姿はどこにもなく変わりにキラキラと輝く湯の花がありました。盲蛇に対する暖かい気持ちが神に通じ、湯の花の作り方を教えてくれたのでした。

その後、湯の花の作り方は村中に広まり、村人は盲蛇に対する感謝の気持ちを忘れず、蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそうです。



まるで仏教説話の善行報奨譚を思わせるような伝説だけれども、話の根幹はいずれかの時代に暇人(^^;)がいて噴気孔の近くに刈草の束を置いてみた…というものだ。原初の硫黄採取というのは、こんな素朴な遊び心から始まったものなのだろう。

時代が下ると、湯畑は単に萱(かや)を置くのではなく、もう少しノウハウが蓄積して、地面に粘土層を作ってその上に敷き詰める方法にシフトした。粘土を敷くとその中に含まれる鉄やカリウム、アルミニウムなどの金属元素が硫黄と反応して、より化学的に安定な明礬(みょうばん)となって析出するのである。この明礬をさらに精製すると純硫黄を取り出すことができ、分類上はこの明礬を産出する湯畑も "硫黄鉱山" なのである(※)。

もちろん自然の空気中で起こる反応なので、得られる結晶は何か特定の成分が100%ということにはならず、純硫黄、鉄明礬、カリ明礬、あるいは硫酸塩などの混合物になる。噴気孔に付着する純硫黄よりもこちらの方が温泉の泉質により近いとも言え、その土地の粘土由来の成分比が、そこを通って湧出する温泉の個性ということにもなるのだろう。

…が、そのへんは素人が簡単にあれこれ考察するより専門家に聞いたほうが早そうかな(^^;)

※亜硫酸ガスなどの噴気が出ている場所には鉱石として析出した硫黄分も豊富にあるのが普通で、鉱石を焼いて精製するのと噴気から直接析出させるのとどちらを主力とするかは、鉱区の状況によって採掘者が決めていた。後に紹介する那須硫黄鉱山株式会社では鉱石採掘と噴気からの析出の比率は50:50でほぼ拮抗していた。

<つづく>