2011.10.23 那須硫黄鉱山跡を訪ねる:後編(その1)




前回の続きです〜 (´・ω・`)ノ


 
さて今回は山の上側である。写真をみるとなんだか季節が逆走してるんじゃないかとのツッコミが来そうだが(^^;)、今回は姥ヶ平の紅葉の盛りの頃の撮影素材をメインに構成しているのでこんなことになっている。週末悪天候が続いたので取材期間が開いてしまいちょっとチグハグになってしまっているが、まあ気にしないでゆるゆると行ってみよう。


 
今回は茶臼岳火口周辺の硫黄採掘跡を中心に巡ってみる。ロープウェイで山頂駅にに登って無間地獄(現在の主要な噴気孔)を経由して峰の茶屋から峠の茶屋(鉱山事務所跡)に降りていくこの時期のスタンダードなコースである。 最終ゴールは鉱山事務所跡として、ロープウェイ山頂駅側から歩いてみよう。




■前回の宿題:索道終端位置に関するその後


 
さてここで前回は中途半端な判定で終わってしまった索道終点についてその後分かったことを少々追加しておきたい。結論から言うと、やはり休暇村のあったところが終端である可能性が高そうだ。

まず索道ルートを延長して、本来ならどのあたりに硫黄を降ろしたかったのか鉱山側の思惑を推定してみると…湯本温泉街の東側、現在の那須観光ホテルの裏側あたりがターゲットであったように思う。それが何らかの理由で休暇村≒弁天温泉付近でブツ切りになってしまったのである。


 
なんらかの理由とは、休暇村のすぐ隣から湯本温泉街にかけてイヤガラセのように林立している "とある企業" の標識にヒントが隠されているらしい。

那須湯本の周辺では、戦前はこの会社が旧来の地元運送(旅客)業者を買収して整理統合し、そこを足掛かりに大々的な観光開発に乗りだしていた。このとき湯元から明礬沢にかけての広大な土地(ほとんどが未開の原野)が買い占められたのだが、その分布は硫黄鉱山の搬出路をふさぐような形状に並んでおり、これがいろいろと軋轢を生んだらしいのである。


 
大人の事情の内幕というのは今となっては知る由もないけれども、無骨なガテン系の鉱山と風光明媚さをウリにした観光開発(分譲別荘地など)の思惑がぶつかりあったとすれば、少々根の深い対立ということになる。   余談になるがこの地区の朝日岳寄りの斜面は皇室の那須御用邸の敷地に隣接していて、湯元温泉街の周辺は土地の境界が微妙なことになっていた。利用できる斜面はこの部分ではピンポイント的に狭く、土地を買い占められると身動きが取れなくなった。

…ともかく、この区間には索道は作られなかった。そして昔ながらの人力による橇引きが後々まで残ったのである。



 
…ところでこの企業がその後どうなったかというと、第二次大戦中に国からの通達でこの地域の交通業は強制的に東野鉄道(東野交通)に一本化されることとなり、なかば追放されるような形での撤退となってしまった。さんざん先行投資をした末にパージされてしまったのは、ありていに言って軍需物資である硫黄生産の足を引っ張り続けたツケのような気もするのだが、今となっては真相は霧の彼方である (´・ω・`)

…ただしこの企業はバス路線の権利こそ失ったものの、土地やホテルなどの資産は残ったので現在でも那須地域で一定の存在感を持っている。今回の特集では硫黄鉱山を主役に捉えているのでまるで敵役(^^;)みたいな存在に見えるけれど、現在の那須地域のありようはこの企業の描いた未来図の方に近い訳で、風水的な言い方をするなら "時節を得なかった" と表現するのが適当かもしれない。



 

■牛ヶ首へ


 
さて昔話はホドホドに、ロープウェイで山頂駅に着いてからは登山道に沿って牛ヶ首を目指して巻いていく。

鉱山時代の山頂駅付近はアプローチが遠く、ほとんど人の訪れないところであった。なにより明治14年の大噴火でこの付近は火砕流で焼き尽くされている。現在よりも植物相は麓側に後退しており、荒涼とした何も無い砂礫の斜面だった筈である。


 
途中、あまり目立たないけれど硫黄鉱山時代の見取り図の表示があった。かなりデフォルメ+簡略化してあるので実際の地形図とはうまく重ならないのだが、トロッコ軌道の概要がわかる貴重な資料である。現在の地図からは消えているローカルな地名 「沢」 「大噴」 というのもみえて面白い。


 
さてそんな訳で、途中は省略して牛ヶ首である。


 
本日はこれ以上ない紅葉日和。付近にいる観光客の皆さんは、硫黄鉱山などそっちのけで紅葉を楽しむために登ってきている。…まあ普通はそうなんだろうけどねぇ(笑)


 
筆者もいつもならこのまま姥ヶ平に降りていくところだが、それは省略して周りを見渡してみると…


 
休憩所スペースからやや南に下ったところに硫黄層の露頭があった。ここは現在も噴気が出ており、硫化水素の臭いが辺りに漂っている。ただし資料の上では採掘箇所としての記載はないようだ。結構、イケてる場所のように思うのだけれど…やはり、峰の茶屋経由だとアプローチが遠すぎるのが難点なのだろうか。


 
…と思って周辺を探すと、すぐ近くに朽ちた材木の山があり、何らかの施設を作ろうとしていたような形跡が伺える。


 
現在はボロボロになって芯の部分しか残っていないが、3〜4丈ほどもある長さからすると休憩所か避難小屋の柱材のような印象だな。風化の具合からみて5年、10年といったレベルではなく、もっと古いものだ。1960年代より古ければ硫黄鉱山時代のものと考えても良さそうだが…どうなんだろう。


 
さて牛ヶ首から無間地獄(噴気孔)方面を望んでみた。写真左奥から上がっている噴煙がそれである。

山頂の溶岩ドームから流れ下る砂礫の筋は、風雨による風化と、噴火によるドーム壁面の崩壊によるものだ。この斜面の崩壊が硫黄鉱山時代の遺構を年々埋めてその判定を難しくしている。茶臼岳は戦後になってからも昭和28年、同35年、同38年と3回ほど小噴火を起こし、そのたびに土砂が崩れ落ちた。森林のない山頂付近では、この崩落を押し止めるものはない。


 
牛ヶ首のすぐ足元でも、崩れた溶岩によって道筋が変わった場所が見られる。登山客が歩いている道筋のすぐ上に古い踏み跡があるのが分かるだろうか。こんな感じで、古い遺構は徐々に埋まっていってしまうのだ。


 
鉱山施設は、実はここから見渡せる。無間地獄方面(奥側)に登山道を追っていくと…


 
登山客の歩いている道の一段上に、もう一本平らな部分があるのがわかる。

あそこが硫黄採取跡だ。段構造にになっているのは意図的なもので、下の段がトロッコの軌道面、上の段が煙道の出口になる。崩れ落ちたガレでもう随分埋まってしまっているようだが、とりあえず向かってみよう。


<つづく>