2013.01.01 初詣:母智丘神社と三島神社(その1)




旧西那須野町域にある母智丘神社と三島神社に行って参りました (´・ω・`)ノ



さて平成25年の初めは母智丘(もちお)神社と三島神社のダブルヘッダーでお送りすることとしたい。ここは明治初期の那須野ヶ原開拓の端緒が開かれた場所で、元薩摩藩士の三島通庸(当時の栃木県令)が開拓農場を営んだ場所である。現在では宅地化が進んで開拓農場の面影は薄れてきているが、ここに建立された2つの神社は地域のモニュメントとして現在も確かな存在感を保っている。

2社のうち最初に建立されたのは母智丘神社で明治14年、次いで三島神社が明治22年であった。時代が比較的新しいのは開拓でようやく人が定住しはじめたのがこの頃だったからで、神社の歴史はほぼこの地区の歴史といっていい。特徴的なのは三島神社のほうで、祭神が豊受大神および三島通庸本人とその家系(子孫)の人々、および開拓農民142名を合祀するという "人を祀る神社" である(母智丘神社とは本宮/奥宮の関係にある)。今回はそれらを開拓時代の余韻のようなものを感じながら、ゆるゆると巡ってみよう。




■母智丘神社




さて大晦日の紅白歌合戦も酣(たけなわ)の午後10時頃、少々早いかな?…と思いつつも自宅を出発して、真っ暗な田舎道を進みはじめた。本来ならこんなに早く出る必要はないのだが、新年を迎えるタイミングで三島神社に居る予定があり、また由緒の順番からいえば一足早めに母智丘神社にアタックしておきたいのでこんなことになっている。

※それだと初詣にならんのじゃないかというツッコミは、まあ 「そこはそれ」 ということで、神様に大目に見てもらうことにしよう(ぉぃ)




今回目指す母智丘神社、三島神社はともに三島通庸の興した開拓結社
肇耕社(ちょうこうしゃ)の敷地内にある。那須野ヶ原開拓の推進者として有名な印南丈作、矢板武らの興した那須開墾社とはちょうど隣接する位置関係にある。ともに出資者を募っての株式会社の形態で、有限期間内に短期決戦型で開拓を推進しようという団体であった。

ちなみに那須野ヶ原の開拓は国有地の民間払下げに乗った形で進められたが、これには年限があったらしい。着手から15年以内に開墾が完了(→払下げが認められる程度の耕地化)すれば土地の所有権が譲渡されるが、未完了なら払下げにはならないというのである。入植にあたっては原則的に公的な補助はなく、開墾費用は入植者の自前調達が前提で、"成功報酬として土地がもらえる" というのがインセンティブになっていた。これは奈良時代の墾田永年私財法にそっくりで、開墾事業を推進させる原理の普遍性が見える点で面白い(^^;)




さて三島通庸は山形県令、福島県令を歴任して、明治16年さらに栃木県令を兼務してている。この間の推移を自由民権運動や旧奥州列藩同盟対策と絡めると面白い考察ができるのだが、それだと話が長くなるので(^^;)そっち方面は大幅にカットしてここでは神社に関連した話をしたい。

三島農場は三島通庸自身が強力に建設を推進した塩原道路(現:R400)、陸羽街道(現:R4)の交差点に位置し、かつ開業したばかりの那須駅(現:JR西那須野駅)に面していた。駅に近い位置には1町歩(ほぼ100m四方)単位で碁盤の目に区切られた区画があり、ここが農場の中心部である。母智丘神社は、この区画から塩原の日留賀岳を見る方向に位置している。ここには赤田山という標高310mあまりの小高い山(※)があり、神社はその山頂に造られた。建立したのは三島通庸自身である。

※平地面が既に標高280mほどあり、隆起高さとしては30m程度である




この母智丘神社は、もともとは日向国(現:宮崎県)の都城(みやこのじょう)にあった。何故に都城?…とツッコミが入りそうだが、実は三島通庸は戊辰戦争を戦ったのち、明治2年に新政府からこの地の地頭職(※)に抜擢されて臨時の領主をしていたのである。

※当時は廃藩置県の前なので地頭という職はまだ存在していた。

余談になるが、都城は三島通庸にとっては内政家としての出世の端緒の地となっている。都城は維新時には政情不安のあったところで、難治の地として認識されていた。三島は在任期間2年でそれを押さえこんで統治を成功させたことから、その行政手腕を買われてのちに山形、福島、栃木などやはり統治の難しい地域の県令に抜擢されていくのである。ちなみに "統治が難しい" というのは不平士族の反抗や自由民権運動 (→実態としては没落士族の反政府活動に近い) が盛んであったというもので、薩摩藩士であった三島はこれを薩摩風の武断統治でビシビシ取り締まった。のちに "鬼県令" と呼ばれる素養はこの頃からみえる。

三島の土木志向が始まったのもこの都城で、道路建設に重きをおく殖産興業路線はここに原点がある。その執行スタイルは即断即決の武断型で、役人が 「この計画には3年程度…」 などとと報告すると、大声一喝して突貫工事を命じ、一か月で完了させるという具合であったらしい。お蔭でインフラの整備は驚異的な速度で進行した。




その工事リストのなかに、母智丘神社の整備が含まれていた。戊辰戦争の直後といえば天皇親政と廃仏毀釈の時代であったから、仏寺に代わって地域に立派な神社を建てることがトレンドであった。一般に革命政権のやりそうなことの第一が "モニュメントの建設" なのだそうだが、明治政府(とその配下にあった地方官吏)もその例に漏れなかったということだろう。…ただそれが 「神社」 といういささか古色を帯びた形式をとったのが、いかにも日本らしい。

この都城の市街地からは、霧島山地がよく見えた。この山裾に広がるシラス台地の丘陵地には、
母智丘という丘があった。ここには古代の祭祀跡らしき巨石群遺跡があり、江戸時代末期には石峰稲荷という神社が置かれていた。




これを、赴任してきた三島通庸が拡充、整備して母智丘神社としたのである。祭神は、民百姓が食うに困らぬようにと豊受大神(食物の神)を祀った。のちにここは旧社格制度で県社の指定をうけ、さかんに桜が植えられて現在では花見の名所として知られている。これがのちに那須野ヶ原の赤田山に勧請されたのである。

面白いことに、この
都城市街〜母智丘神社〜霧島山の位置関係は、実は那須野ヶ原の三島農場〜母智丘神社〜日留賀岳そっくりである。これは単なる想像だが、三島通庸は那須野ヶ原の赤田山を母智丘丘陵になぞらえ、かつて都城で見た風景を那須野ヶ原に投影していたのかもしれない。




さて前ふりが長すぎたが、その母智丘神社にやってきた(^^;) 深夜なので残念ながら神社の遷座している赤田山の全貌は見えない。社務所前には氏子さん達がぼちぼち集まってきて火にあたっていた。

本殿は鳥居をくぐった先に延びる石段を150mほど登った先にあり、やはりここからはちょっと視界はとどかない。本当に漆黒の闇である。




暖をとっている氏子の皆さんに 「やー、どーもー」 などと挨拶をすると、特に面識もないのにたちまち 「おーよく来た」 「火に当たれ」 「まあ飲め」 という展開になり恐縮してしまった(^^;) ・・・さすがにクルマで来ているので飲むわけにはいかないが、時間はたっぷりあるので雑談の輪に加わってみた。話の中身は…本当に雑談そのものなのでいちいち書くは控えさせていただくけれども(笑)

…傍らには、ラジオがあって、紅白歌合戦の様子を流していた。目の前では、電信柱ほどもありそうな雑木の丸太がパチパチと燃えている。…なにやら実にイイカンジというか、これこそが正しい田舎の年越しという気がするヽ(´ー`)ノ




さて神社の遷座する赤田山は、平坦な那須野ヶ原において物見櫓のようにチョコンと盛り上がった形状をしている。明治初期の頃の那須野ヶ原にはほとんど樹木はなく、広大な原っぱで見通しはよく効いた。三島通庸は開拓を始めるにあたり明治13年6月まずこの山に登って周囲を見渡し、こんな歌を詠んだという。

神代(かみよ)より
荒れし那須野を拓きつつ
民栄えゆく村と為さん

歌の芸術性としては 「そのまんまじゃんw」 という感じだが(^^;)、この万葉調のストレートさはいかにも薩摩人らしく、三島の人となりをよく表している。もちろん歌を詠んだにとどまらず、このとき三島は開拓の青写真を描き、考えた以上は躊躇することなく実行し始めるのである。




その二か月後、明治天皇の東北巡幸があり、名代としての有栖川宮熾仁親王がやはりこの赤田山に登って視察をしている。もちろん宮様がぽつんと一人でやって来て景色を見たわけではなく、政府の役人を大量に引き連れて現地を検分していった訳で、開墾計画についてもおそらく三島本人が説明をしたことだろう。
(仮にも明治帝の名代の対応を代理人に投げたりはしなかった筈である^^;)

この時点ではまだ那須野ヶ原には開拓の鍬は入っていなかったが、その年のうちに母智丘神社が建立され、翌年にはもう大夫塚とこの赤田山麓に開拓民の第一陣が入った。赤田山麓の開拓はまず人口の溜池(↑写真参照)作りから始まった。…そんな訳で、まさに三島式というか、ものすごいスピード感をもって事業が回りだした端緒の地が、ここ赤田山=母智丘神社なのである。




さて底冷えのする夜なのでもう少し暖を取っていたかったが、だんだん時間もなくなってきたので山頂まで登ってみることにした。画面でみると明るいようにみえるが、裸電球が点々としているだけで実は結構、暗い。




振り返ると、参道はこんな感じで山の頂上へと続いている。年越しの直前に蝋燭を灯す…という話なのだが、まだそのタイミングではないらしい。・・・やはり少々フライングの度が過ぎたかな(笑)




社殿は、誰もいない山頂に慎ましやかに建っていた。年が改まるまでまだ1時間ほどあり、さすがに初詣での参拝者はまだ出現していない。

この時間帯だと真っ暗で見えないが、神社のすぐ裏手には水道の配水池がある。現在はもう使われていないが、かつては標高差を利用して山頂の配水池から周辺に水道を通していた時代があった。わずか30mばかりの小山ではあるけれど、これが開拓地にあったことでどれほどの恩恵があったかは計り知れない。




さてフライング詣でに御利益があるのかどうかいまひとつ不明ではあるけれど(^^;)、ひとまず家内安全と武運長久、生命財産の安全などを祈ってみた。いつもならここで気合の足りない政府に喝をいれるところなのだが、野田政権は昨年末に崩壊済みだし、安倍政権はひとまず景気を良くすると言っているので 「給料とボーナスが上がりますように…南無南無」 と無難でささやかな願いを追加するにとどめた。




参道を降りてから巫女さんに 「このタイミングでお札を頂いてご利益的にどうなんでしょうねぇ」 と聞いてみたところ、「あははは」 と実に日本的な答え(爆)を頂いたので、とりあえず頂いておくことにした。 日本の神様はフレキシビリティが高いので、きっと出張サービスであまねくご利益ビームを照射してくれることだろう(ぉぃ)


<つづく>