中部北陸:雪国紀行 〜糸魚川/親不知編〜 (その1)




雪国を巡って参りました〜ヽ(・∀・)ノ



さて本稿は2013年になってから記事化しているのだけれど、実際に旅行したのは2010年の同じ日付のことである。埋もれさせてしまうにはちょっと惜しいかな、という視点で3年遅れでまとめてみることにしたわけだ(^^;)。

実をいえばこんなステルス紀行ネタは実は大量にあって日々HDDの肥やしとして積みあがっていたりするのである。碓氷峠や越後湯沢なんて瞬間リーチで何度行ったか忘れてしまいそうだが記事にした記憶がないあたりに、まとめる時間が無い@貧乏暇なしの悲哀がそこはかとなく漂っていたりする。…が、まあそこはそれとしてせっかくの素材なので粛々とテキスト化していきたい。

さてここに記すのは冬季の北アルプスの山岳地を遠目に見ながらマターリと周遊したレポートである。秘密基地の熊谷から関越道〜上信越道を経由して糸魚川、親不知で冬の日本海を眺め、その後は富山をスルーして白川郷、飛騨高山で山の暮らしを眺め、乗鞍岳を巻きながら松本盆地に出て北アルプスの全景を眺めてみようという少々欲張りなメニューでコースを選定したものだ。気分の上での優先スポットは 親不知、白川郷、高山 あたりになる。その他は道すがらの立ち寄りになるので滞在密度は適宜様子をみて調整した。

1日目 : 糸魚川まで単純移動
2日目 : 糸魚川 / 親不知 / 白川郷 /高山着
3日目 : 高山 / 乗鞍岳越え / 松本着
4日目 : 松本 / 穂高

今回のテーマ選定のココロは、とにかく白い風景を見てみたいという単純な動機に尽きる。雪国の旅なので天候による視界不良や行動制限もあり、日程も当初は3日間を予定していたが、最終的には4日を要した。まあ斯様(かよう)な次第でいつもの通りあっちこっちに話は飛びながらになるのだが、それはそれとしてその行程をゆるゆると書いてみよう。




■北陸への道




さて熊谷を出発したのは初日の昼過ぎである。今日は移動日のつもりでいるので、とにかく日本海に出て糸魚川までたどり着けばよいというスタンスで上信越道をひた走る。

天候はお世辞にも良いとはいえず、軽井沢から長野あたりまでは小雨模様がつづいた。あまり雨が続くようだと雪が解けてしまう恐れもあり、多少の心配をしながらの北上である。




それでも善光寺平から黒姫あたりに来るさすがに雪が存在感を増してくる。今年はニュースでドカ雪が伝えられているが、撮影時(=2010)は気温が高めで雨の日が続いていたためか、例年に比べると積雪は少なそうだった。




県境を越えて新潟県の妙高高原側に入ったところでPAに寄って小休止。ここでは雪は1.5mほどある。

PAは営業はしているものの、あまり客がいる様子はない。除雪されているエリアが駐車場の半分くらいしかないところを見ると、この季節の立ち寄り客の密度が窺い知れてちょっとした侘び寂び感を堪能できる。




売店ではエースコックが実に素晴らしい仕事をしていた。まだお土産タイムには早いだろうと思って手を出さなかったのだが、実はこのカップ麺、その後に購入する機会を失ったまま2012年の川端康成の回まで巡り合えなかった。こういう商品に出会うと "一期一会" という言葉の重さを感じずにはいられない。




さてPAの2階に上ってみると、展望館+観光案内所…とおぼしきスペースになっていた。
それにしてもこの展示密度…もう少し何とかならんのかな(^^;)




その中に、これから向かおうとしている糸魚川の観光ポスターがあった。糸魚川の風情といえばやはりフォッサマグナかコレになるのだろう。雪の中で翡翠(ヒスイ)を探すようなシチュエーションに巡り合えるかは不明だが、覚えておきたい。




さてあまり休憩ばかりもしていられない。そろそろ峠を越えて海を目指そう。




■日本海を行く




いよいよ日本海が近づいたところで、北陸自動車道を下りてみた。移動だけなら糸魚川まで高速のまま走っていけるのだが、それでは日本海沿いの情緒を堪能できないので名立谷浜ICからは下道を行くことにしたのである。

場所がピンと来ない方のために説明すると、ここは直江津を基点にして15kmほど西側にある小岬である。この海岸沿いに小さな集落があり、名を "名立" という。




花鳥風月的には、この季節の名立には特にこれといって見るべきものはない。しかしその地勢は北陸の本質を語るのに非常に良い標本となる。参考までに地図↑を示してみるが、見ての通りここには平地らしい平地はほとんどないのである。

近代工法で作られた北陸自動車道、JR北陸本線などはトンネルや高架橋で自然の地形をクリアしているけれども、古くは奈良時代にまで遡る旧北陸道(R8)は海岸の崖っぷちにへばりつくように細々と伸びている。これが中世以前の人の移動経路であり、その細い道筋の途中でわずかばかりの平地(ほとんどの場合小河川の三角州)があればそこに集落が形成された。

このような地勢のところでは、人間の生活圏に面的な広がりはない。地上の移動は基本的に一次元、あとは船で沖へ出るしかないが、ここでは港の役割はほとんど沿岸漁業で完結してしまっている。小河川の河口港(※)には大型の貨物船は停泊できないため、商船は富山、直江津、新潟などの規模の大きな港に行ってしまい、途中の小港には物流を担う機能は発達しなかった。結果として奥行きのない小漁村が点在するような構造ができ、これが現在でも直江津から富山まで転々と連なるのである。

※現在の港には防波堤が作られているが、中世以前の港は基本的に河口港である。防波堤を築く代わりに河口に入り込んで停泊したもので、ここでは名立川が天然の港になったと思われる。




その名立集落にむかって断崖を下るヘアピンカーブの下り口で、日本海が見えた。左奥が現在の名立港である。わずかばかりの平地では建物の建っているエリアは幅100m程度しかない。このぎりぎりの立地感が、この地域の情緒を形作っている。




坂を下りきると、旧街道である北陸道を受け継いだR8にぶつかる。この付近の道すじは、おそらく1000年前からほとんど変わっていない。…というより、地形的に道を通せる場所が限定されてしまうため、動かしようがないと言ったほうが正しい。

北陸道は古くは奈良の平城京、桓武天皇以降は平安京を起点に琵琶湖畔から若狭、越前、越中、越後まで続いていた古道である。若狭以降はほぼすべてが海づたいで、今の新潟市(渟足)のあたりまで伸びていた。そこで道が終わってしまったのは、街道の整備された頃(大化改新前後)の大和朝廷の支配領域の北限がそこにあったためで、終点には軍事的な拠点として渟足柵が築かれていた。北陸道はのちに越後国の北限付近まで延伸されるのだが、時代が下ると船による移動の利便性が勝って街道の末端は有耶無耶になっていく。実質は新潟までの道と言ってよい。

さて筆者の現在位置からみれば、この北陸道(R6)を東(右)へ向かえば直江津、柏崎、新潟につながり、西(左)に向かえば魚津、富山、金沢につながっている。今回は糸魚川を目指しているので筆者の進む道は左側だ。ここからは海沿いの道を行きながら、ささやかに古代人の旅の気分を味わってみよう。




R8から海を見てみると、荒れた波頭がどどーんと護岸を洗っている。波が荒いせいか砂浜はなく、僅かばかりの石の浜が細々と続いているのみだ。スローシャッター気味なのでハッキリとは写っていないが、あたりにはちらほらと雪が舞っている。

現代では土木工事の技術の粋を集めてこんな立派な舗装道路が出来ているけれど、かつてはこの波は、細い踏み跡程度であったと思われる北陸道・・・この写真でいえば右端ぎりぎりの崖縁ちかくまで迫っていたことだろう。近代以前の街道事情を考えると、ここを海の荒れる季節に越えていくのはなんとも心細い旅だったように思える。




その心細い旅の区間は、長かった。都から新潟方面まで陸路で移動する場合、富山平野の東の果て=黒部を過ぎてから再び平野の出現する直江津まで、断続的に延々60kmにもわたって崖を這うような道の区間が連続しているのである。もちろん難所といっていい。

地質的には、ここは日本アルプス(=飛騨山脈)の北端が日本海に落ちる部分にあたる。本来なら山脈の岩塊が伸びていくべきところが日本海の荒波に侵食されてすっぱりと切り落とされたような格好になっているのである。

その飛騨山脈自身が巨大なる壁として存在しているために、この難所を迂回しようとすると、遥か木曾方面の野麦峠あたりまで100km以上も南下して行かねばならず、実質的にお手軽な迂回は不可能であった。時代が下るとこの区間は船でショートカット出来るようになっていくのだが、それは平安時代も中期以降のことで、奈良時代〜平安時代前半はこの崖沿いの陸路を行くほかはなかった。それ以降の時代でも、船をチャーターできる財力のない貧乏貴族や一般庶民の旅はもちろん陸路であっただろう。都からこういうところを越えてたどり着いた高田や新潟は、当時の都人にとって現代の我々が感じる以上に遠い地方であったにちがいない。




そんな古道を受け継いだR8を、愛車 X-TRAILで走っていく。海と崖に挟まれた道沿いに、所々細長い集落が現れては消えていく。

前面は荒れる海、後方は崖、そして風雪に耐える家々…。さらには、付近を歩いている者は誰もいない。…この絶妙な辺境感というか風景の寂しさ具合?がなんとも北陸の風景を代表しているような気がする。




海岸集落をみると、崖っぷちギリギリに伸びるわずかばかりの砂浜にせり出すように無茶な建物(舟屋=船の収容施設+住宅)が並んでいるのを見かけた。ひとたび大波がドン、と来たら一瞬でさらわれてしまいそうな立地で、こんなところにまで家を建ててしまおうという執念には驚かされる。




それにしても海の荒れ具合は凄まじい。波の音が、ドォォン、ゴォォォ…と腹の底に響くような音圧をもって迫ってくる。

五畿七道の時代、多少の財力がある高級官吏でも、これでは船で移動するのをちょっと躊躇(ためら)ってしまうだろう。地方官として北陸での勤務を命じられた中級貴族などは、どういう面持ちで赴任していったのやら…。なんとなく、気の毒になってくるな。




ところで話は720度ほど変わるのだが、現代にあっては驚くべきことにこんな季節こそがカニ漁の最盛期だったりするらしい。近代装備で武装しているとはいえこの荒れた海に出撃するなんて、日本海の漁師さんはいったいどれだけ夜叉のような働き方をしているのだろう。




■とりあえず糸魚川に到着




やがて、ヒスイ海岸の看板が現れた。いやー、ようやく糸魚川に到着したらしい。時計をみると16:30をやや過ぎたあたりだった。うーむ、休憩込みで4時間少々で到着するなら早朝から出てきても良かったかもしれないな…(^^;)

実のところ、筆者はもう少し雪で難儀するかと思っていたのである。しかし実際に走ってみると、除雪はきちんとしているし渋滞もそれほど無いし、しっかりした交通インフラが整備されていて実に頼もしい限りだった。

※ちなみにこれらはみな田中角栄の置き土産であるらしく、地元民は今でもその福音に浴している。ロッキード事件が起ころうと派閥政治が批判されようと、はたまた田中真紀子が毒舌超音波で国政をプロレス的バトルフィールドに変えようと、新潟県で角栄人気が高いのはこういうところに理由があるらしい。




雪が激しくなってきたので早々に市街地に入る。町の中央には建設中の北陸新幹線の高架橋がみえた。えーと…これっていつ完成するんだっけ?(^^;)




さてそんな次第で本日の移動は終了である。本格探訪は明日からということにして、とりあえず適当なお食事処で一服。貧乏旅行ではあっても海の幸くらいは味わっておこう。

ちなみに店のおっさんに 「あの荒れた海に出るなんて北陸の漁師さんはスゴイですねぇ♪」 と振ってみたところ、「お客さんいくらなんでもそりゃないヨ」 との答えが返ってきた(笑) どうやら本職さんは気象情報とレーダーを駆使して天候の安定したときを見計らって出漁するそうで、近代的漁業の操業は安全第一で行われており、間違ってもモビーディックに挑んだエイハブ船長のような猛者を想像してはいけないらしい。

…まあそりゃそうだろうな(爆)


<つづく>