2013.03.20 鉄と日本刀を訪ねる:備前長船編(その1)




鉄と日本刀の関連地域を訪ねてみることにしました (´・ω・`)ノ



さて今回はいつものノリとは少々趣向を変えて、鉄と日本刀をテーマにした旅のレポートをしてみたい。…と言っても、別に筆者がいきなり武士道に目覚めたとかヤクザ屋さんに入門したとか座頭市に感化されたとかそういう話ではなく(^^;)、"たたら製鉄と刀鍛冶" という世界に多少の興味が涌いたので追いかけてみようと思い立ったのである。

我が国では古来、製鉄とか鍛刀というのはエンジニアリングでありながら同時に神事でもあるという二面性をもって伝えられてきた。それは現代の刀鍛冶、あるいは "たたら製鉄" にも連綿と受け継がれており、そのあたりの周辺事情を眺めながら、日本文化の頂点のひとつでもある日本刀というものを考えてみようと思った訳だ。

とはいえ筆者はこの分野では素人もいいところなので、その道の専門家とかマニアのようなねちっこい話を極めるつもりは全然ない(^^;)。あくまでも一介の旅人の視点で、この独特な世界の雰囲気を感じられれば良いというくらいのスタンスである。




ではいったい何処を訪ねたのか…というと、今回は少しばかり欲張って3箇所の地域を巡ってみた。備前国=岡山県の長船(おさふね)、出雲国=島根県の横田、そして美濃国=岐阜県の である。このうち長船と関が刀剣のメジャーな産地で、横田(というか出雲のかなり広い範囲)が原料である玉鋼(たまはがね)の産地ということになる。

いずれもちょうど関東地方から出かけると、ほぼ一筆書きの要領で効率よく立ち寄ることが出来る。貧乏サラリーマンにとっては往復の旅費代も馬鹿にならないので少しばかりセコいコース設定になっているけれども(笑)、まあ細かいことは気にしないでゆるゆると行ってみよう。なお3箇所も巡るとレポート内容も長大になって一度には紹介しきれないので、本シリーズは

1) 長船編(1日)
2) 出雲編(3日)
3) 関編(1日)




と分割して順次紹介していくこととしたい ヽ(´ー`)ノ



 

■ 始まりは "さむらい刀剣博物館"(真岡市)から




ところでいきなり遠地に旅立つ前に、正しい栃木県民(なんだそりゃ)である筆者は地元の話を書いておかねばならない。実は今回のテーマを選んだきっかけは、真岡市にある "さむらい刀剣博物館" を訪れたことなのであった。

ここは平成の大合併で真岡市に編入されるまでは旧・二宮町の一部だったところで、現在は真岡市大根田という地名になっており、茨城県との県境ぎりぎりの桂というところに刀剣博物館が建っている。栃木県内で刀剣をテーマにした博物館というのは珍しく、面白いところだから行ってみろとかねてから知人に薦められていたのを思い出して、3月の始め頃に訪ねてみたのである。




ここは個人所有の博物館としてはかなり大きな建物で、内部は博物館の他に鍛冶場と研磨作業所も兼ねている。一般人が入れるのは博物館の区画のみだが、それでも結構な広さがあり、もっと小ぢんまりとしたものを想像していた筆者はナニゲに驚いた(^^;)




筆者の個人的な印象としては、ここの本業は刀剣鍛錬+研磨業の方に主軸があるようで(→博物館とは別の入り口がある)、博物館部分は館長氏の趣味みたいな気がしないでもない(^^;) …が、その趣味もある一定水準を突き抜けるとなかなかに見ごたえがあると思う。

※ちなみにここの館長氏は刀鍛冶 + 研ぎ師 + 工学博士 + 筆跡/DNA/指紋鑑定の専門家であり、刀剣関連の実績としては今上天皇の即位乃礼御礼刀の研磨を担当している。なんだかよく分からないがスゴイ人である。




博物館の内部はこんな感じで、戦国期の甲冑コレクションも面白そうなのだが、今回は日本刀がテーマなのでその辺はスルーして…




やはり特筆すべきなのは刀のコレクションだろう。 ここには古刀〜新刀〜新々刀〜現代刀まで大小100振りあまりの展示があって、時代を追ってその変遷がわかるようになっている。



 

■ さて日本刀とは?




さて筆者は素人であるので、まずは基礎的なことのみ押さえておきたい。日本刀には刃が上を向いているものと、下を向いているものがある。上を向いているものが 「打ち刀」 、下を向いているのが 「太刀」 で、大雑把にいって前者が南北朝のあたり以降の主流、後者がそれより前の古い形式と思えば良い。

いずれも刃物としての基本的なつくりに大きな差異はなく、腰に吊る向きに時代なりのトレンドがある。騎馬戦主体の時代の吊り方が太刀、歩兵(足軽)が主体になって以降に簡易に腰帯に挿したのが打ち刀と言い換えてもいい。たとえば平安時代の源義経、平清盛などが装備していたのは馬上戦闘を意識した太刀であり、江戸時代初期の宮本武蔵や柳生十兵衛のようないわゆる "剣客" とか "剣豪" の戦法は馬には乗らない足軽型の戦いで、彼らの振り回しているのは打ち刀である。幕末の志士たちもその延長線上にいる。



ではそれよりもっと以前の刀はどうだったかというと、奈良時代あたりまでのもの(上古刀)は日本刀とは言わないのである。これらは剣(※)の範疇で、大陸渡来の両刃でまっすぐな刃物をいい、日本神話に出てくる神様の帯びているのがまさに "剣" である。飛鳥時代の肖像画などをみると、たとえば聖徳太子が装備しているのも剣であり、やはり日本刀とは言わない。

※肖像画はWikipediaのフリー素材より引用
※のちに日本刀も剣と呼ばれるようになっているので、対比させて言う場合は "直刀" といったほうがよいかもしれない。




それがやがて進化して、片刃の湾曲刀となったものが "日本刀" である。登場したのは平安時代の前半頃で、中国の古代刀が鋳物での大量生産を志向したのに対し、日本刀は鍛造によって強靭な鋼を作る方向に発展した。これが日本刀を素材の面から特徴付けることとなり、やがて高性能化した日本刀は精神性を付与されて武家の魂の拠り所のような存在になった。

…が、そんな "日本の魂" も、館長氏によると 「原料鉄の国産化が出来たのは案外遅くて、南北朝の頃なんだよネ」 ということで、伺ってみると今のような形になるまでには色々な紆余曲折があったらしい。そしてこれがまた色々と複雑で、説明しようにも筆者の手には負えそうも無いのである(^^;)




そこで細かいことはすっ飛ばして、筆者がこの旅を企画した直接のきっかけとなる写真(↑)を紹介しながらこの長すぎる前振りに一区切りをつけたい。光の当たり方によって見えたり見えなかったりするのだが地金の表面にうかぶ波のような模様がみえるだろうか?

これは折り返し鍛錬で出来上がった鉄の層が浮かび上がって見えているものだ。屏風絵や絵巻物 (或いはチャンバラ漫画でも良いけれど ^^;) での日本刀の描写には、焼き入れによってできた刃紋くらいはあっても地金の模様の描写というのはほとんどない。しかし日本刀の性能はこの鍛錬によってつくられた鋼の層構造によってもたらされているのであり、本物を見るとそれがどんなものかがよく分かるのである。

※日本刀には錆び止めの油が薄く塗布してあり、油膜の状態によっては地金の紋様が見えにくいことがある。直接手にとって鑑賞する際の作法は油を拭い去ってから見るのが本来の姿だが、博物館で展示してあるものは触れることはできないのが普通で、紋様が見え易いかどうかは刀の状態による。




ただこの構造を作り上げる "鍛錬" の作業は、なかなか見る機会に恵まれない。有名な刀剣産地でも観光イベントとして月に1回くらい、この刀剣博物館では新年の打ち初め式くらいしか見学の機会はなく、いつでも気軽に…というものではないのだ。

それが今回、ちょうど3月の後半に出雲と関で2日連続で実施されるというチャンスに恵まれたのである。一筆描きの旅行ルートで同時に2か所も見られるのは稀なケースであり、これが季節的にはまだ風景がぱっとしない時期に敢えて遠出を決意するきっかけとなった。そして道すがら、岡山の長船にも立ち寄って3箇所同時攻略をするという野心的な貧乏旅行の基本構想が出来上がったのである。




そんな訳で、気分が乗ってきたところでまずはおもちゃの模造刀などを買ってみた。さあこれで気分を高めて、信長の野望的な不運の…じゃない(笑)、風雲の旅路に踏み込んでみようではないか♪




…ということで、いざ往(ゆ)かん、鉄と日本刀を訪ねる旅へ…♪ ヽ(´∀`)ノ


<つづく>