2013.03.21 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(前編その4)




■ 出雲大社 〜 古代出雲歴史博物館に見る鉄剣と製鉄の様相




さて古代遺跡を見た後は、せっかく出雲に来たのだから出雲大社とそこに隣接する古代出雲歴史博物館にも立ち寄って行こう。ようやく一般的な出雲観光の標準コースに合流するような感じだな(^^;)




混雑を避けて敢えて表参道を外して迂回路を通り、r28 から R431 経由で出雲平野をゆるゆると走っていく。まだ田起こしも始まっていない水田が延々と続くのどかな風景が広がっている。本来の出雲の風景というのは、こんな弥生の余韻をのこした稲作の地こそがふさわしい。




出雲大社は、そんな平野の北西の奥まったところにある。かつては大きな湾を望む岬に建っていたのだが、現在では斐伊川の流れが変わって湾は干拓され、"出雲平野の西端" と表現したほうがよさそうな状況になっている。




さてここで古代神話の話を始めてしまうと長くなるので途中はばっさりカットして、奥にスタスタ進んでみよう。




観光ポスターによく載っているアングルの拝殿を眺めて、日本の敵の滅亡(ぉぃ)を祈った後は…




出来たばかりの新・本殿をちょこっと眺めてみる。まだ式年遷宮の儀式は終わっていないのでこの時点では神様(大国主命)は拝殿を仮本殿として鎮座ましましてるのだが、新居は実に立派にリニューアルされていた。

…そういえば今年は伊勢神宮の式年遷宮もあり、日本の神様業界は非常におめでたい年となっているのであった。是非とも八百万の神様パワーを結集して、明るい世の中にして戴きたいものだなぁ…(´・ω・`)




…で、参拝はそこそこに引き返して、そして今回のテーマに関してチェックすべき三之鳥居脇にリターン(なんだか忙しいぞ ^^;)。

ここには日本神話における幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)到来の場面を現した銅像がある。人の心を司(つかさど)る4つの魂すなわち荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さちみたま)、奇魂(くしみたま)の四魂(しこん)の神のうち、大国主命は海から現れた幸魂(=愛)と奇魂(=真理)と出会い、新しい国造りの決意をするのである。



・・・が、とりあえず神話の話はそのくらいにして、ここでは3D化された大国主命の装備している剣に注目したい。これは和風の直刀(大刀)で、像を作った芸術家の中の人は6世紀頃の時代考証で造形したようだ。舶来品ではなくちゃんと日本固有の柄のデザインを採用しているあたりはさすがである。




参道を挟んで反対側には、因幡の白兎の場面もある。もともとは鳥取の海岸の話なのだが、まあ大国主の主要エピソードなので出雲でも銅像のテーマに選ばれたのだろう。




こちらも装備しているのは直刀で、どうやら7世紀初頭くらいの時代考証で作ってあるような気がする。神話の像で真面目な時代考証が成立するのか、と言われると筆者も少々苦しいのだが(笑)、我々現代人がもっている神話時代のイメージが、案外新しい時代の装束で構成されていることがわかるのは面白いと思う。

※ちなみに日本神話の年代記述を額面通りに解釈すると大国主は神武天皇の皇后の父ということになり、紀元前7世紀くらいの人物ということになってしまう。ただしその時代の日本にはまだ鉄器も銅器も無く、もちろん金属製の剣などは無かった。古い絵巻物などに描かれる神話の場面の装束をヴィジュアル面(特に剣)から追っていくと、元ネタになったであろうエピソードの年代は6〜7世紀と考えるのが自然で、これは古事記の書かれた奈良時代初期から見て100〜200年ほどの過去となり、当時なりにそこそこの昔感覚があって、かつ考古学的知見(吉備国、出雲国の消滅→神話エピソードとの共通項)とも一致するという面白いことになっている。




さて出雲大社を出た後は、隣接する古代出雲歴史博物館に寄ってみた。そろそろ閉館時間も近いので電撃見学で要所だけ見てみよう。すたたたた〜ヽ(´ー`)ノ




内部は神話世界と考古学の交錯する世界について色々な展示がある。…が、今回はそれらは敢えてスルーして、"鉄と日本刀" にフォーカスした部分のみを見ていく。(ここでは日本刀というよりは直刀を見ているのだが…まあそこはそれ ^^;)



さてそんな訳で、剣のコーナーである。時代区分からいうと古い青銅の剣/矛から展示品が並んでいた。何やらやキンキラキン(↑)なのは、発掘品から型をとって新規に作った "当時の色" の剣が展示されているためだ。

青銅というと一般には緑青(ろくしょう)で緑色に染まったものを想像する人が多いかもしれない。しかしそれは表面の酸化が進んだ後のもので、新品はこんな金色に近い輝きなのである。




この青銅の剣の展示がとにかく派手なので驚く(^^;) このくらいの規模になると十分に "工業製品" という感じがする。これらは鋳物の量産品であり、後の日本刀のように鍛造している訳ではないのだが、殺傷能力という点ではそれなりの威力をもっていた。…それにしても、古代出雲の生産力というのは仲々侮れないものがありそうだな。




発掘品をみると日本刀とは明らかに異なるデザインセンスの産物であることがわかる。これは中国東北部の青銅器と構造がそっくりで、おそらく朝鮮半島を経由してそれらが伝わったのちに、出雲でやや和風のアレンジを加えて量産されたものと推定されている。…ただこのスタイルの剣は、やがて鉄剣に置き換えられて廃れてしまった。




時代が下って片刃の直刀(鉄剣)になったあたりで、凄い発掘品が展示されていた。外観をみるとどうやら大陸の品らしいのだが、宍道湖畔のかわらけ谷古墳で発掘された鉄剣で、土中からの発見であるにも関わらず奇跡的に保存状態がよかったものだ。刀身の表面は錆びていたものの、鞘から引き抜くことが出来たのである。




これの表面を研いでみたところ、なんと一皮剥いた下には光沢のある地鉄が現れた。不純物が少ない素性のよい鉄を使うと、これほどまでに保存性がよくなるらしい。




ただし同時代の鉄剣でもすっかり腐食しているものもあり、どうやら品質のばらつきというのは相当にあったようだ。当たりを引くか、外れを引くか…剣を発注する側の豪族の中の人も、この辺はなかなかに悩ましいところだったのではないかな(^^;)



 

■ たたら製鉄について




さて刀剣コーナーを急速見学した後は、製鉄コーナーを見てみた。

面白いことに、日本で製鉄が始まったのは6世紀と言われるけれども、鍛冶遺跡そのものは弥生時代末期(3世紀頃)から見られるという。この時代の鍛冶は輸入鉄を熱して変形して道具を作るというもので、こういう仕事であれば割と初期の頃から古代人は鉄を扱えたらしい。

ここでいう "製鉄" と "鍛冶" の違いは何かといえば炉の火力レンジの差であり、これによって出来ることの上限が決まっていた。鉄は叩いて変形させるだけなら1000℃くらいでも可能で、溶融させるのに必要な1400℃前後まで安定した過熱ができれば製鉄が可能になる(※)。この1400℃のラインを突破できたのがおおよそ6世紀の頃で、いわゆる野蹈鞴(のだたら)が行われるようになったのがそれであった。

※実際にはそんな単純なものではなくノウハウがいろいろあるそうなのだが、本稿は素人紀行なのでまるめた表現になるのをご容赦戴きたい(^^;)




その後の製鉄遺跡の分布は、なかなか興味深い変遷を示している。古墳時代から平安初期の頃までは中国地方に広く分布していた製鉄遺構が、どんどん出雲周辺に集約してくるのである。特に旧・吉備国の領域での製鉄遺跡の減少が顕著で、かつての製鉄王国が現役引退していった様子がみえる。室町時代あたりになると、鉄の生産はもうほとんどが出雲産になってしまう。

ただしこれは "製鉄" の集約が進んだということで、他の地域の鍛冶師が衰退したとか壊滅した訳ではない。製鉄の設備は時代を経るごとに大型化していき、設備投資も運転資金も莫大になり、ノウハウも特殊なものとなっていった。その結果、現代の半導体産業のように大規模資本による寡占化が進んでいったのである。出雲でつくられた素材鉄(玉鋼もそのひとつ)は全国に散って、その先の加工品は各地方の鍛冶師に委ねられた。今風にいえば、広範囲な水平分業体制が出来たと思えばよいらしい。




面白いことに、日本には製鉄の盛んな地域が山陰(出雲がその中心)の他に東北にもあったという。ただし製鉄のアプローチは異なり、出雲が高殿(専用の建物を建てて工場とした)でシステマチックに製鉄を行ったのに対し、東北は小規模な野蹈鞴が多かったようだ。南部鉄器などはこの奥州の鉄の産業的な結晶のひとつと思われる。…あれ? よくみるとこの地図では筆者の住んでいる栃木県北部もそのテリトリーに入っているな(笑)

ちょっと意外だったのは、戦国時代を終焉に導いた織田/豊臣/徳川の本拠地=名古屋圏ではさっぱり鉄が取れていないことである。これなら西国で尼子+毛利、東北で伊達家あたりが資源戦略をガッチリ固めて粘っていたら、実は歴史が変わったのではないだろうか。武器の調達できない信長ファミリーなんて、もしかしたら 「単なるうつけ者集団」 としてネタ芸人くらいの存在感で終わっていたかもしれないのだが…(^0^;)




古代製鉄の様子は、ジオラマでも再現されていた。これはごく初期の野蹈鞴による製鉄である。ドラム缶くらいの土の炉に炭と砂鉄を交互に投入し、鞴(ふいご)を使いながら空気を送り込むことで燃焼温度を上げていた。




時代が進むと設備が大型化し、高熱+長時間操業に耐えるよう炉の地下構造が工夫されるようになった。これは主に湿気対策に重きがあったようで、大型化の代償として床土の湿気と溶融鉄の接触で水蒸気爆発を生じる危険性が増したため、徹底的な水抜き+乾燥を行ったのである。

床土は何日も薪を燃やして徹底的に乾燥させ、その上に幾重もの灰の層を重ねて、さらにその上に炉を構築した。もちろん雨がかかるのは厳禁なので、設備は専用の建物(高殿)で覆って全体をワンパッケージ化した。そしてこれに付随して砂鉄採りや炭焼き、卸鍛冶などの職人がセットになって大量生産・連続操業を可能にする "製鉄の村" が形成された。

ここまでくるともう完全に装置産業といえるだろう。もちろん炉の構築ノウハウや操業手順、温度管理や砂鉄の投入量などは秘中の秘とされ、外部には漏らされなかった。出雲の鉄の隆盛は、良質な砂鉄の産地であったことに加えて、この装置産業化がいちはやく進んで競争力のある生産体制を組めたことが大きかったように思う。




実は明日、斐伊川を遡ってこのたたら製鉄の遺跡を訪ねることにしている。これについては、別項でもう少し詳しく書く予定だ。




■ 稲佐浜




さてもう夕刻も間近となった。今日はもう遠出をする予定はない。天候も良さそうなので稲佐浜で夕日を眺めて、ゆるやかな時を過ごしてみよう。




午前中の雲はどこへやら。すっかりピーカンの青空となって、稲佐の浜はひろびろと広がっていた。かつて日本神話で国津神と天津神が国譲りの交渉(…というか脅迫というか ^^;)を行ったとされる伝説の浜である。




浜には波の跡とともに黒い砂鉄の筋がうっすらと残っていた。現在は斐伊川の流れは宍道湖に向かい、この浜に砂鉄を供給していない。本来ならもう少し黒々とした浜砂鉄が見られたかもしれないのだが…まあ、歴史を巻き戻すわけにもいかないので、これはこれで現代の稲佐の風景として眺めよう。




・・・それにしても、出雲というのは奥が深いところである。今回は鉄と日本刀という切り口で巡っているけれども、古代史を絡めて幅広く見て歩けばいろいろと発見もあることだろう。時間さえ潤沢にあれば、もう少しゆるゆると深い旅が出来そうなのだが・・・まあ、あまり高望みをするのは贅沢というものかな。




…さて、明日は斐伊川を遡って、たたら製鉄の歴史を探訪する予定だ。まだまだ、旅は続く。


<出雲編:中篇につづく>