2013.03.22 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(中編その1)




前回からの続きです〜 (´・ω・`)ノ



さて随分と筆不精して記事をほったらかしにしてしまった(^^;) なるべく嘘を書かないように…と調べ物がはじまるとよくこんな体たらくになってしまうのだが、やはり素人が首を突っ込むには和鉄とか日本刀というのは奥が深すぎる。そんな訳で少しばかり反省をしつつ、あまり根を詰めずに多少の勘違いや理解不足が合っても "そこはそれ" ということでまるめて書いて行くことにしよう。 

それはともかく、出雲での2日目の朝が来た。本日は斐伊川を遡って古い製鉄遺構を眺める予定である。




…といっても出雲でかつて何基も稼働していた製鉄施設=高殿は現在ではすっかり失われてしまって、雲南市は吉田の里にかろうじて一か所を残すのみという状況にある。今回はまずそこを尋ね、その後は金屋子神社に寄って、夕刻までに神話の里=横田を目指してみよう。

砂鉄の川である斐伊川は、この広大な奥出雲の山中をいくつもの支流に分かれて流れ下っている。その水系の広がりは日本神話に登場する八岐大蛇(やまたのおろち)の象徴であるとも言われ、英雄=須佐之男(すさのお)神と奇稲田姫(櫛名田姫)の伝説はこの水系に沿って分布している。

この須佐之男が八岐大蛇を退治してその体内から取り出したとされるのが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で、これは後に草薙の剣と名を変えて皇室の三種の神器のひとつとなった。その材質は青銅か鉄かで古くから論争があるのだが、筆者のみるところ鉄剣説のほうが優勢のようである。




ちなみに斐伊川の源流は須佐之男神が降臨したとされる船通山にある。この山を下ったところにある最初の小盆地が横田で、ここはオロチに食われそうになった奇稲田姫の里である。ここを含む斐伊川流域の広大な山々は、古代より神話と和鉄の歴史で彩られてきた。出雲での旅のハイライトはこの横田盆地になる予定だ。



 

■ 斐伊川を行く




そんな訳でさっそく斐伊川を遡ってみよう。ここは昨日も訪れた神立橋である。わずか一晩で砂の様相が一変している。見た目はゆるやかな水の流れだけれども、砂の描く文様は常に変幻自在に移り変わっていくらしい。




奥出雲を目指すには斐伊川に沿って県道26号線を行く。ここはかつては川の左岸にある集落を縫うように走っていた道路で、出雲平野から奥出雲への玄関口である。現在は改修されて堤防に沿ってすらりと伸びた近代道路になっている。




斐伊川は現在では治水工事が進んで堤防もずいぶんしっかりしたものになった。明治26年に起こった洪水を機に近代堤防の整備が着々と進んで、段差に乏しい河原と住宅地がきれいに分離されている。

県道26号線は上来原のあたりからこの堤防の上に乗り、視界が利くようになる。かつては秘境とまで呼ばれた奥出雲は現在では随分とアクセスが改善して、上流の三刀屋盆地まではこの道に乗って川筋を追っていくことができる。




堤防の上からは斐伊川の川面がよくみえた。山間部に入っても相変わらず砂地基調の不思議な景観が続いているな…(´・ω・`)




さて神立から9kmほど山間部を遡って森坂橋付近にやってきた。斐伊川はまだまだ砂地が続いていて、橋の上から見ると河床がおびただしい砂鉄で黒ずんでいる様子がみえる。




橋からは、もうひとつ面白い風景をみることができた。ここには斐伊川の支流のひとつである赤川 (写真右側) が合流してくるのだが、同じ中国山地を流れながらもこちらには砂がほとんど堆積していないのである。




一口に "中国山地には広く鉄鉱床が広がって云々…" といっても、やはりその分布には濃淡があるようで、すべての川が同じように砂で埋め尽くされている訳ではない。幾筋も流れる川の中で斐伊川が有名になっているのには、やはりおいしいところを流れて "個性がハッキリ出ている" というのが大きいような気がする。



 

■ 花崗岩の風化と砂鉄について




さて斐伊川への砂と砂鉄の供給は、中国山地を構成している花崗岩の風化によってもたらされるという。いい機会なので、ここで少しばかりそのあたりの理屈を紹介しておこう。




まずはこれ(↑)を見て頂きたい。この写真は筆者が斐伊川で採取した砂鉄を顕微鏡で見たものである。その正体は直径100ミクロン前後の磁鉄鉱の粒で、自然物なので少々歪(いびつ)になっているけれども、状態の良い結晶は本来は正六面体を呈する。これらは地下のマグマがゆっくりと冷えて岩石として固まるときに溶融していた鉄分が結晶化したもので、花崗岩には平均して1%前後含まれている。

ここで何の前触れも無く "花崗岩" というのが出てきているけれども、地中深くの岩盤というのは地球上どこでも大抵は花崗岩なのである。石材店では御影石(みかげいし)として売られていて、よく墓石などの材料に使われている。地球上でもっともありふれた岩石と思っていい。

自然の地形ではこれが地殻変動で地上付近に押し上げられて、よく隆起型の山脈の芯になっていたりする。中国山地は概ねこの花崗岩質の山が多い。




さて斐伊川の砂鉄以外の砂粒はどうかというと、こんな(↑)感じである。 これらの多くは中国山地を形成する花崗岩が "風化" して砂となったものだ。

花崗岩の主成分は正長石、斜長石、石英が各30%前後で、そこに黒雲母がいくらか混じる。写真では白い長石、透明な石英などが見えているが細かい話は割とどうでもよくて、砂粒の色が個別に分かれているところにポイントがある。元は一体の岩石であったものが成分毎の結晶の境界できれいに分離してバラバラになっている訳で、ハンマーや砕石機で力任せにぶっ叩いたのでは、こうはならない。これは風化によって岩石が崩壊した証拠なのである。

花崗岩の風化というのは、地中深くでつくられた岩盤が地表付近に押し上げられ、季節あるいは昼夜の寒暖の差にさらされることで進行する。花崗岩は主成分がどれか一種類に極端に偏らずほぼ均等割で含まれ、かつ熱膨張率の差の大きい組み合わせになっているため、暑かったり寒かったり…という温度サイクルが繰り返されるたびに、結晶の境界に少しずつ亀裂が入るのである。やがて亀裂には水が浸透し、冬季にはそれが凍結膨張してさらに亀裂を広げていく。これを長年繰り返すと、固い岩もいつしかグズグズになり、ついには風雨などによる物理刺激で崩壊して砂になる。

結晶境界に埋もれていた砂鉄は、このプロセスの中で "磁鉄鋼のみの粒" として分離されていく。岩石中にわずか1%しか含まれない成分が自然の浸食作用のなかで岩盤から綺麗に単体分離されていく奇跡は、そんな自然のサイクルのなかで静かに進行しているのである。




こうしてみると、斐伊川というのはこういう自然の営みが幾つも重なって豊かな砂鉄の川となったことがわかる。単体分離された砂鉄は、さらに水流による天然の比重選鉱プロセスによって選別、濃縮され、黒い帯となって河床に堆積していく。これによってはじめて人が砂鉄の存在を認識でき、また製鉄の材料として用いることが出来るわけで、翻ってそこまでのお膳立てが自然環境によってもたらされたことの凄さが実感できる。

…こいつはまったく、神懸かっているとしか言いようがないではないか。




 

■三刀屋川流域へ




さて森坂からは対岸側に渡って r197 でやはり斐伊川に沿って遡上し、やがて三刀屋(みとや)盆地に至った。ここは中国山地を広く版図にもつ雲南市の中心部である。ここからは r54 に乗り換えて進んでいく。




本日の第一の目的地である吉田は、斐伊川本流ではなく、支流である三刀屋川の流域に成立した "鉄の村" である。筆者もここからは斐伊川から離れて、三刀屋川に沿って登っていこう。




三刀屋川は、さきほど見た赤川に類似して砂地基調ではないごく普通の渓流の相をみせる。かつては鉄穴流しで人工的に大量の砂が流されていたのだが、たたらの火が消えて百年ほど経ったいまではほとんど砂の堆積は無い。




付近に広がる鉄穴流しの跡地は、現在では棚田や段々畑になっている。ザラザラと崩して砂鉄を採った跡に、周辺の山林からかき集めた落ち葉を撒いて腐葉土化したり、別のところから客土(=土を持ってきて盛る)して耕地にしたものだ。奥出雲の山々では至る所にこういう村の跡がある。




面白いことに、これらの耕地は三刀屋川本流(→かつて砂が流されていた)の水には依存せず、鉄穴流しに用いられたであろう沢水で灌漑されている。こうして本流よりも常に高い位置から水を引いている限り、集落は洪水とは無縁でいられる。うまく考えられたものだと思う。




・・・さてそうこうしているうちに高殿の近くにやってきた。




…が、肝心の直通道路はなぜか通行止め(^^;)




うーむ、最短距離でアプローチしようと思ったのだが…崖崩れでもあるのかな。

仕方がない…とりあえず、南側の吉田集落側から回ってみるか。


<つづく>