2013.03.24 鉄と日本刀を訪ねる:関編:後編(その1)




前回のつづき〜ヽ(´ー`)ノ    ※注:行ったのは2013年ですが記事に起こしたのは2016年ですw

■ 折り返し鍛錬の実演




さて前回は肝心の折り返し鍛錬のシーンまで行かずに力尽きてしまった(ぉぃ ^^;)
そもそも筆者はこれを見たくて関までやってきたので、今回は勿体ぶらずにいきなりそのシーンから初めてみよう。

折り返し鍛錬の実演はここでは1ヶ月に1日の割合で行われている。取材時には午前/午後の各1回だったが2016年の予定表では1日で3回(10:00、13:30、14:30)に増えているので見学者にとっては利便性が増している。

観光施設ではあるけれども刀鍛冶の仕事は神事でもあるので、鍛錬場には神棚がきちんと備えられていた。さて、気になるのは祭神だが…



祀られていたのは憤怒の相の神様で、三面八臂(さんめんはっぴ=顔が3面+腕が8本)の姿であった。これは明王像の形式のひとつで、意匠のプロトタイプは降三世明王あたりだろうか。一見すると釈迦の眷属のようだが仏教とはほぼ無縁で、手には日本刀を持っている。

刀匠さんによるとこれは金山彦神だという。出雲で見た金屋子神と根は同一の金属の神様だ。関鍛冶は "鍛冶集団の氏神" としては藤原氏つながりで春日神社(建御雷、経津主、天児屋根命)に庇護を求めたけれども、鍛冶の現場を管轄するのはやはり専門職の神様に任せている。やはり餅は餅屋ということなのだろう。




炉に火が入るとぼちぼち人も集まり始める。観客は子供連れのファミリー層が多い。

やがて説明役の刀匠さんが出てきて簡単な挨拶があり、折り返し鍛錬とは…という解説があった。マニアや研究者を相手にしている訳ではないので内容は一般向けにまるめたものだ。曰はく、折れず曲がらず良く切れる、それは折り返し鍛錬で鋼を鍛えているからですヨ…というもので、まあブログやTwitterに 「関に行ってきたよ!」 と投稿するには必要十分というくらいの内容である。




説明の後ろの方では、本日の親分らしい刀匠さんが玉鋼を沸かしている。ここで行われる実演は正味20分くらいで、要領よくかなりテキパキと進んで行く。出雲のように工程をまるごと見せましょうというものではなく、時間のない観光客向けにおいしいところのみダイジェストで見せるという構成になっているようだ。




さて鉄が沸いたところで相槌役が三名加わって、四人がかりでスタンバイ。




藁灰をまぶして金床に乗せ…




まずは親分さんが一打、カキキィィィン…!




続いて相槌がリズミカルに、キン、キン、カキィィン…! と続く。

見ればかなり力いっぱい叩いている。観客は 「おお〜♪」 と声を上げ、しばしシャッタータイムが続いた。やはり館内の人形展示よりも、本物の作業風景のほうが迫力があるな。




複数人数で行う相槌は、沸かした鉄が冷えてしまう前に効率的に鍛錬を進めるのに有効だったという。大した回数を打たないうちに玉鋼が冷えてしまうと何度も沸かさねばならず、どんどん鉄が目減りしてしまうので、それを防ぐ意味合いもあった。

現代ではモーター駆動のスプリングハンマーがこれを代替してさらに高速なハンマリングを可能にしている訳だが、中世以前にはすべてが手作業であったから、相槌の出来不出来は刀の品質に直結した。そういう背景があって、この多人数でのパフォーマンスが成立している。



余談になるけれども日本刀の作刀において相槌の重要性を示すもののひとつに三条宗近の伝承がある。彼は一条天皇の頃(980〜1011)京都の三条に居した刀匠で、一条帝に作刀を依頼されたものの満足のいく出来にならず困っていたところ、氏神である稲荷神が手を貸して相槌を打ち、名刀小狐丸を完成させたという。

この話は 「小鍛冶」 の題名で古くから能楽の定番演目のひとつになっている。もちろんクライマックスは刀を打つシーンで、話の胆(きも)は相槌の良し悪しで刀の出来具合が影響されるというものだ。こういうところからも、鉄の文化の一面を窺い知ることができるというのは面白い。

※上図はWikipediaのフリー素材より引用(稲葉山小鍛治/尾形月耕/明治時代)  → ただし折り返し鍛錬ではなく刀身の形を精密に整えている火造りと思わしき段階で、横から思い切りぶっ叩こうとしているのは少々ツッコミどころがありそうな気がしないでもない…(^^;)




さて相槌三人打ちが一段落すると、ここで割斧が入る。




そしてコンコンと折り返し。




何度見ても切れそうで切れない玉鋼の塊(^^;)




それがぴたりと重なって、折り返し終了。

ナニゲに 「ふーん、折り返しね」 と見流してしまいそうだが、そういえば鍛着剤(ホウ砂)を使っていない。これはもしかして藁灰に多く含まれるという珪酸が鍛着剤の役目をする…というのを(誰も説明してくれないのだけれど)見ているということになるのだろうか。




この後、相槌役を二人にしてさらに打ち込みが続く。それにしても派手に火花が飛ぶなぁ…(^^;)



刀匠さんの実演は10分くらいで一段落し、後半は観客の参加タイムになる。ここはもう主役は子供たちなので、いい年こいた大人が割り込んではいけない(^^;) 彼(女)らの突撃精神は旺盛で、「う〜重い〜!」 などと言いながらも、ゴツン、ゴツン、と楽しそうに叩いていた。




そんな訳で、総計20分くらいで実演+体験は終了した。撮影メインで見学するなら迷っている暇はなく、覚悟を決めて撮りきらないとあっというまに終わってしまう。優柔不断は大敵だ。




子供たちが去った後には、大人向けの質疑応答の時間がいくらか設けられた。いわゆるぶっちゃけトークの時間帯である。難しい顔をしたおぢさんたちがワラワラと寄ってきていろいろ質問をぶつけるのだが、内容は初歩的なものが多く、どうやらみな筆者と似たようなニワカな人たちのようであった。それでも刀匠さんは丁寧に応答しており、極論に走りがちな素人談義をなるべく中庸に落ち着けるような話し方をされていた。

筆者もいくらか話をさせて頂いた。関の刀の特徴は…とか、そんな基本的なことを聞いてみたのだが、思いのほかいろいろな話を伺うことができた。以下、それをメモがてら書いてみよう。




■ 足軽の武器とは




「折れず曲がらず良く切れるというでしょう。でも実態は少々違いましてね」

…と、のっけから 「そうなんですか?( ̄▽ ̄;)」 的な内容でぶっちゃけたのだが、曰はく、いかに堅牢に作られた日本刀でも、実戦で力任せに斬りつければ、刃こぼれもするし折れたり曲がったりもするらしい。 その中で一番重要なのは 「折れない」 ことだったと刀匠さんは仰った。




ミもフタもない話だがこれは結構切実であったらしい。刃が欠けようがひん曲がろうが、折れさえしなければそれをブンブン振りまわして足軽は生きて帰ってくることができた。「だから曲がっていい」 …とまでは刀匠さんは言わなかったけれども(笑)、硬く作れば良いというわけではないということは示唆されていた。なかなかこういう話は聞く機会がないので面白い。

そして欠けたり曲がった刀は、そのまま捨ててきた。これも 「えー、修理しなかったの?」 と言いたくなったけれども、すぐに新しいものが支給されるので信頼性の怪しい損傷品はそのままポイ、だったそうだ。

※図はWikipediaのフリー素材を引用(関ヶ原合戦図屏風)




かつて南北朝のころは、刀といえば自腹を切って購入する "資産" のようなものであった。その経済価値は刀一本と馬一頭が釣り合うくらいのもので、現代であればクルマを買うくらいの経済感覚だったと言われる。

しかし戦国末期の物量戦の時代になると、刀はもはや使い捨ての消耗品である。耐久性や性能はそこそこでいいから、まずは数をそろえることが求められた。経済力のある戦国大名はこれらをまとめて購入して、配下の足軽に支給した。いわゆる束刀(たばがたな)がそれである。

物量戦では百人の剣豪よりも一万人の雑兵の力押しが勝る。指揮官クラスに高級な注文刀が売れる一方で、そんな事情を背景に安い刀が大量に消費されていった。関の刀剣産業はそういう世相の中で最盛期を迎えており、必然的に量産技術が発展した。これが関の刀剣を良くも悪くも特徴づけている。




「関の刀はトヨタ車みたいなものです。極限まで最適設計を突き詰めているのです。」

と刀匠さんは説明を続けた。手にしているのは素延べ前の四方詰の鍛接サンプルである。関刀のスタンダードな構造がこれになるらしい。




そのココロは、材料の節約と規格化にある。他の地方では甲伏せで刀身を形成することが多いけれども、関鍛冶はそれでは刃の部分以外にも高価な玉鋼を使うことになりムダになる…と考えた。そこでありふれた安い鉄(包丁鉄など)を組み合わせてハイブリッド化したのである。

玉鋼は刃先にだけ使い、真中は軟らかい包丁鉄、側面と峰は包丁鉄にいくらか吸炭させてやや強度を持たせたものを使う。あらかじめパーツを作り置きしておけば、必要な品質のものをサっと鍛着して打ち延ばせば刀になった。

四方詰にすると甲伏せで1本分の玉鋼から5本の刀を作ることができたという。物量戦を戦っていた武将であれば、きっと身を乗り出して詳細を聞きたくなったのではないかな(^^;)



 

■ 焼刃土




さて刀匠さんと話したい見学者は多いので、筆者は少し後ろに下がって順番を譲った。

次に眺めてみたのは焼刃土を盛った刀身の見本である。長船や出雲にも同じようなものがあったけれども、あちらのものはガラスケースに入っていて "見るだけ" であった。ここでは直接触れることが出来るのが素晴らしい。




見本なので一本の刀身にいろいろな刃紋の型が盛られており、これをそのまま焼き入れしたら何とも珍妙な日本刀が出来上がってしまいそうだが(笑)、このサンプルの本当の見どころはそこではない。




筆者は、その堅牢さに驚いたのであった。実際に触れてみる焼刃土は、"土" という表現とは異質の、非常に硬いセメントのような感触だった。土を盛っただけで本当に焼き入れ時の作業に耐えられるのか、筆者はずっと不思議に思っていたのだが、これなら必要十分のように思える。

タネ明かしをすると "土" とは言ってもその辺の泥をそのまま盛っている訳ではなく、砥石の粉と炭粉、そして鉄粉をある配合(刀匠によって秘伝の割合がある)で混ぜて作るという。これが防火用の石膏ボードのような堅牢さで刀身を守るらしい。そして刃紋の緩急具合はこれの盛り方で調整される訳だ。

その粘着力は強力で、焼き入れをしてもポロポロと落ちることはない。砥石を当てて荒研ぎを始めた段階でようやく落ちるのである。




なお参考までに載せてみるけれども、備前長船の焼刃土はこんな外観であった。

一見して関のものとは色が違っており、成分が異なることが見て取れる。素人目なので認識が誤っているかもしれないけれど、こちらは炭粉や鉄粉といった黒い材料ではなく、砥粉が主体となって構成されているようだ。あるいは別の材料や添加物があるのかもしれない。

こういう比較はとても面白い。日本刀を作るための方策に唯一無二の回答というのはなく、いくらでも別解が成立するということが示唆されている。それぞれの焼刃土には特有の機械強度や熱伝導率があり、それぞれに適した熱し方と冷却の仕方がある。焼き入れ作業時の冷媒にしても、水、湯、油などいくつもの方法論がある。

優れた刀匠は、これらを駆使して自分なりの最適条件を探しだし、いずれかの "局所解" にたどりつく。そうして得られた己の信ずる最適な条件の積み上げが、いわゆる "秘伝" ということになるのだろう。…これはなかなかに、奥が深そうな世界ではないか(^^;)


<つづく>