2014.01.01 初詣:那須温泉神社 〜月山寺の残照とともに〜(その1)




初詣に行ってまいりました (´・ω・`)ノ



さて世間は正月を迎えたようなので、那須温泉神社に初詣に行って来た。筆者的には埼玉県での拉致監禁生活に一区切りがついて、4年ぶりに地元に戻ってきたという個人的な事情もあり、心機一転して (ついでに景気づけ?も兼ねて ^^;) 山と温泉の神様パワーを戴いてみようかと思った訳だ。

…とはいえ此処はもう何度も紹介している神社なので、同じ切り口ばかりでは金太郎飴のような変り映えしないレポートになってしまう。そこで今回は、神仏習合から廃仏毀釈を経て現在の形に移り変わっていった湯本(温泉街)の様子を、今は消えてしまった月山寺という寺の存在と絡めて書いてみようと思う。

※ちなみにこの神社の名称は 「おんせんじんじゃ」 と 「ゆぜんじんじゃ」 の2種類の読み方があり、由緒正しいのは 「ゆぜんじんじゃ」 の方とされている。



 

■ かつては高湯山振興の登山基地だった湯本温泉街




さて現在では那須湯本温泉街には仏寺が無い。しかしかつては月山寺という寺が存在していた。その昔、那須には白湯山信仰という山岳信仰があり、出羽三山を那須の月山(茶臼岳)、毘沙門岳(朝日岳)、御宝前 (※ここに温泉があり信仰の対象となっていた) に見立てて山岳修験が行われていたのだが、その那須湯本側の総元締めが月山寺であった。寺の名になっている月山というのは、修験道の立場からみた茶臼岳の別称である。

白湯山信仰は同じ御神体を信仰しながら山の東麓と西麗で行者を管轄する寺社が異なっており、三斗小屋側からは白湯山、那須湯本側からは高湯山と呼ばれた。こんな二重国籍のような状態になったのは山の東西で本家の地位を巡って縄張り争いがあったのを大岡越前が裁定した結果と言われ、裁判記録の古文書が残っている。

月山寺はこのうちの高湯山の行者を統括する真言宗の寺院で、湯本村を実質的に仕切る大親分の地位にあった。湯本村の住民はほぼ全員がこの寺の檀家となっていて、高湯山に訪れる行者の宿泊や飲食などで日銭を稼ぎつつ、その上がりの半分ほどを月山寺に上納していた。




「那須温泉史」(那須町教育委員会/2005)に掲載されている古地図をみると、弘化元年(1844)の絵図に月山寺がみえる。当時の温泉街は殺生石(賽の河原)から流れ下る湯川沿い(=谷底)にあって、月山寺はその最上流側に位置していた。温泉神社は崖上の現在と同じ位置にあって、湯川の右岸を登ったところから参道が延び、その登り口のところに、飛鳥時代に温泉を発見したとされる狩野三郎行広を祀る見立神社があった。

仏寺としてはもうひとつ、那須温泉神社の境内に神宮寺というのが見える。これは神仏習合時代の神社に特有のもので、かつてはそれなりの規模の神社には必ずセットで仏寺(神宮寺)が建てられ、神社の管理はこの神宮寺が担当していることが多かった。那須温泉神社にあってはこの寺の別当は絵図には描かれていない観音寺という仏寺が兼ねていたらしい。現在の風景からはちょっと想像しにくいかもしれないけれど、江戸時代の湯本温泉街はこんな密教王国のような状況だったのである。




・・・ということで、あまり前振りが長すぎるのもアレなのでさっさと走り出すこととしよう。

12月に入って既に那須では何度か降雪があったのだが、クリスマス以降は晴天が続いて平野部の雪はあらかた解けてしまった。走りやすいといえば走りやすいのだが、気分的にはもう少し冬らしくあってほしいなぁ…という年の瀬である(^^;)



などと言っている間に、さっさと温泉街に到着。時計をみると、まだ年が明けるまで1時間以上ある(笑) …うーむ、ちょっと早く着すぎたかな(^^;)




時間はたっぷりあるので、少し周辺を散策してみることにしよう。雪は道路面では除雪されているものの、林間部では10cmほどはあってそれなりに格好がついている。やはり山間の古社だけのことはあるな。



 

■ 月山寺のあった風景とは




そんな訳で、年明け間近の温泉街を歩いてみる。こんな時間に賽の河原の近傍を散策などしている暇人などはもちろん筆者以外には誰もいないのだが、まあそこはソレである(笑)

さて殺生石の公営駐車場に向かう途中から温泉街を見渡すと、こんな風景がみえる。写真のど真ん中にある黒い建物が現在の鹿の湯で、水銀灯らしい青い光で照らされているのがその駐車場である。青いスポットのうち手前側のあたりに源泉が沸いている。



元が絵地図なので正確性については多少目を瞑って、現在の地形から江戸時代の月山寺、見立神社、神宮寺の位置を推定してみると、こんな感じ(↑)であろうか。月山寺の正確な位置は実はよくわかっていないのだが、賽の河原駐車場の工事のときに礎石の一部らしいものが出たという話があり、筆者的には 「仮に」 という但し書き付きで駐車場付近説に100ジンバブエドルくらいを賭けている。



近代道路と安政年間以降に整備された新温泉街を消去して (くどいようだが大雑把に) 弘化元年(1844)の絵図の状況を地形に載せてみると、こんな感じになる。湯川の川筋は、現代とは異なって温泉街の中央を流れ下っていた。

さて注目すべきは那須温泉神社の位置関係で、高湯山に登る道 (行人道) は温泉神社の本殿脇に入り口があり、当時の神社境内は温泉街から山に登るための単なる通路になってしまっていた。由緒ある古社であった筈の那須温泉神社は、この時点では社務所も無く、神宮寺の管理下にあって、すっかり修験道の巡礼ルートに取り込まれていた。

つまり神社としての独立性はあって無きが如し。国学者の平田篤胤が嘆いたように、当時の神社というのはすっかり仏教に侵食されていて、那須湯本に於いてもこんな状況になっていたのである。




その月山寺のあったと思われるのがこの橋の奥側になる。現在は県道17号線を通すために石垣が組まれてしまっているけれども、当時はもちろんすっぴんの河原であった。




あたりは真っ暗なので、長時間露光で賽の河原を撮ってみた。現在では湯川の河川改修と観光用の木道などが整備されてしまって、寺の直接的な痕跡というのは見られない。



…が、かつて月山寺の境内にあったと思われる石塔のいくつかは、駐車場の奥のほうに現在も残されている。これは高湯山大権現の碑で、一番上に刻まれている梵字は胎蔵界大日如来を表わす "アーク" という文字である。

修験道では日本古来の山岳神を仏になぞらえて信仰していて、高湯山では真言宗の本尊=大日如来と那須の山の神=高湯山大権現を同一の存在としている。拝んでいる仏様(神様)が共通なので、寺が修験者の面倒をみる関係が出来上がっており、修行法もかなり共通だったようだ。




供養塔の銘をみると、"別当月山寺" の語句がよみとれる。整備工事でこれらの遺物が派手に移動されていないとすれば、やはりこの付近に寺があったとみるべきなのかな。



 

■ 河原の源泉と、かつての参道の登口




さて賽の河原から少し下って鹿の湯のほうにやってきた。これが河原から湧いているおそらく最も古い源泉である。ここから上流側では湯川の水は澄んでいて、下流側は湯の花が混じって黄色い沈殿物が多くなる。那須湯本の信仰空間は、かつてはここがすべての中心になっていたらしい。

※現在は護岸工事と道路工事のお陰でこんな雛壇みたいな地形になっているけれども、かつてはここは賽の河原の延長部分で、河床はもっと広かった。




源泉からさらに30mばかり下ったところにちょっとした足場があるので、そこからロング気味に撮ってみたのがこの風景(↑)である。「なんだよー、真っ暗じゃないか!」 とツッコミが入りそうだが、実際にここは真っ暗なので、これはこれで正しい。 …が、さすがにこれだと何も見えなさすぎだな(笑)




それをカメラの性能に任せて 「えいっ」 …とプラス補正してやると、こんな昼間みたいな写真が撮れる。あまりやりすぎると情緒がなくなってしまうのでホドホドにするべきなのだが(^^;)、ここでは説明の都合上明るくしておきたいのでご容赦いただきたい。

見ていただきたいのは、すぐ目の前にある半円形ステージみたいな岩盤である。奥の源泉からの距離は20mほどで、硬い一枚岩でできている。ここはちょうど、神社の社殿を乗せるのには絶妙な土台具合で、弘化年間の絵地図の見える旧・見立神社はここに建っていたのではないかと筆者は推測している。(※絵図には岩倉の上に社殿が建っている様子が描かれている)

那須温泉神社に登るかつての参道は、この神社を横目に、源泉の位置からまっすぐに現在の見立神社〜愛宕神社方面に伸びていた。地形からすると現在の愛宕神社が古い時代の温泉神社社殿なのではないかと思えてくるくらいだ。




旧参道である階段部は、現在では道路工事で派手に削り取られてしまっている。しかし県道17号線から現・見立神社前に上る部分だけは現在も残されていて、非常〜に地味ながらも存続している。修験道全盛の江戸後期の行者は、ここを登って山に入っていた筈だ。



ちなみにこれが明るいときに源泉側から神社方面を見た構図である。矢印の部分が残された旧参道の階段で、源泉(=古い時代の温泉信仰の中心)から素直にまっすぐ伸びていた様子がわかる。筆者は今までここに階段があることは知っていたけれど、源泉と一直線で結ばれていることには気が付かなかった(^^;)

これを見る限り、原初の那須湯本の信仰空間は、あくまでも温泉(源泉)を中心につくられていたのだろうという気分になってくる。そこにどこかの時点で仏教(真言密教)の要素が入り込み、いつのまにか修験道の聖地になってしまったわけだ。




その仏教による侵食がいつごろ起こったのかは、明瞭な記録が無くよくわからない。文献にみえる仏教勢力の関与としては南北朝時代の玄翁和尚による殺生石済度(1385)があるが、玄翁は曹洞宗の僧であって密教系の修験道とはあまり接点をもっていない。

他に大きな動きがあった件としては、江戸時代の初期に日光山に徳川家康が祀られて東照宮となったときに山岳仏教(日光修験)の一大ブームが巻き起こったことが挙げられる。日光山は戦国末期の小田原の役の際、北条氏側に付いて秀吉の怒りを買い、領地を召し上げられて20年ほど日干しにされたのち、家康の遺言で東照宮が作られるときに復権した経緯がある。その間、失業した山伏(行者)が周辺の山々に散って活動拠点をつくった可能性があるという。それが東照宮の完成で修験ブームが起こったのに便乗してブレイクしたという説だ。…ただ今回は筆者はそこまでは調べていないので、あまり断定的なことは書かずに可能性を指摘するに留めたい(^^;)



 

■ 修験行者の温泉事情




さて 「那須温泉史」 によれば、湯本村では原則として修験者は月山寺に宿泊し、賄(まかない)=飲食物等の提供を村人が担当することになっていたという。提供といってもこれらはタダではなく有料で、行者は21日間の沐浴精進潔斎の行を行ってから山に登ったとされるから、本当に真面目に21泊もしたなら村にとっては間違いなく優良顧客であっただろう。(※文献よっては7泊だったとする説もある)

行者は年間を通じて来たようだが、山に入れるのは4月8日の山開きから8月8日の山仕舞いまでの4ヶ月に限られた。山開きの日には行者は数百人も集まり、白湯山側の記録では千人を越えることもあったという。これだけの人数を受け入れたとなると、おそらく寺には宿坊がいくつもあって、寺院でありながら半分は旅館業のような業態だったのではないだろうか。




余談になるけれども、長期滞在で湯を愉しむのに、那須湯本ではちょっとした仕掛けを用意していた。湯本温泉の源泉は非常に熱い(68℃)ため、鹿の湯(※)の浴槽は冷却(放熱)を考慮して少し経路を長めに引湯し、下流側につくられていた。これをさらに下流側に延長していくつもの共同浴場を数珠つなぎにし、湯温のバリエーションを設けていたのである。

源泉直下で最も熱いのが行人の湯、そこから順次下りながら鹿の湯、御所の湯、滝の湯、中の湯、富の湯、河原の湯、新湯…と湯船が設けられ、上流側の熱い湯船では草津温泉に良く似た湯揉みの作法があった。

現在の鹿の湯では最も熱い湯船が48℃となっているけれども、大正〜昭和初期の湯揉み唄では "五十三度で鍛えた身ドッコイショ〜♪" などという歌詞がある。50℃を超えるとちょっと健康的にどうよという気がしないでもないけれど、かつての行者様はこういった激熱の湯に浸かって 「ぐぬぬ…まだまだぁ!」 …などと、真っ赤に茹(ゆ)で上がりながら精進したのかもしれない。

※行人の湯は、湯ではなく水を張った 「水垢離」 の場であったとする説もある。ただ文久年間の絵図をみるとあきらかに源泉から湯樋が延びているので、筆者的には激熱温泉説を採りたい(^^;)



 

■ しかし月山寺は旧温泉街ごと突然壊滅したのだった




さてそんな月山寺と湯本温泉街であったが幕末の安政五年(1858)に突如としてカタストロフに見舞われる。梅雨の末期に十日間ほども降り続いた大雨によって、大規模な土石流が発生し、月山寺は湯本村の温泉街ごと押し流されてしまったのである。旧暦六月十四日のことであった。

これについては、最近の文献ではあまりみかけなくなったけれども、筆者が子供の頃は 「大規模な地すべりが起きた」 という言い方をよく聞いた。湯川の川筋は温泉街からせいぜい1kmくらいしか遡れないので、鉄砲水のようなものが出たとしても水量がどこまで増えたのかちょっと想像がつかない。雨で緩んだ地盤が両岸から崩れて谷底の村を埋めてしまった…と考えるのが、筆者的には違和感のない災害状況のように思える。・・・が、残念ながら当時の詳細はよくわからない。(被害にあった村人にすれば、いずれにしても大変な災難であったことに違いは無いのだが)




このときの復興には黒羽藩主:大関増徳の援助があり、人足50名あまりが投入されて村の再建が行われた。ただし再建は土石流で埋まってしまった河原では行われず、村人は藩に集落移転を願い出て、いくつかの候補地を検討した結果、旧村落の20mほど高台側で行われることが決まった。こうして出来たのが、現在の県道17号線沿いに広がる温泉街の原型である。




現在では河原の護岸工事が進展して谷底に旅館街が "逆進出" しているけれども、江戸時代末期から明治の始め頃は、眼下には荒涼とした土石流の跡地が広がっていたことだろう。




さてすっかり歴史談義になってしまって初詣感が無くなってしまいそうだけれども(^^;)、とりあえず一の鳥居のところに戻ってきた。実はここも、月山寺とはゆかりのある場所だったりする。




山津波から4年後=文久二年(1862)の絵図をみると、高台移転した温泉街と、源泉から湯樋で引湯して新たな湯屋が営まれている様子がみえる。そして流失した月山寺、見立神社もやはり高台に移転して再建されている。このうち月山寺の再建された場所が、この鳥居前付近なのである。




ただ現在の一之鳥居とその前の広場は平成に入ってから整備されたもので、昭和の末までは鳥居右側のこの通路が参道入口となっていた。社務所は愛宕神社参道下の付近にあって、当時は昔の谷底から登っていくルートの雰囲気が色濃く残るような参道構造になっていた。



そのような次第で、月山寺MarkUの建っていたところは、地形的には現在の一之鳥居の直前というよりも、少し下がって観光案内所前の駐車場の付近だったのではないかと筆者は推測している。




…それにしても、改めて古地図をみて驚くのは当地における宗教施設の驚異的な復興の早さだ。村が壊滅するほどの災害があったなら普通は住民の生活再建が最優先で寺社などは後回しになる筈なのに、ここではそうはなっていない。…これが、信仰心というものなのだろうか。


<つづく>