2015.01.01 初詣:乃木神社 〜那須野に残る軍神の記憶〜




初詣に行ってまいりました (´・ω・`)ノ



年が改まったので今年も初詣に出かけてみた。向かったのは明治を代表する軍人、乃木希典(のぎ・まれすけ)大将を祀っている乃木神社である。ここは那須野ヶ原中央部の人口密集地(西那須野〜大田原〜東那須野)に近く、松の内の初詣客がおよそ5万人というメジャースポットだ。

5万人というと東京圏の人にとっては 「東京ドームの収容人数がそんなものかな?」 という程度の感覚かもしれないけれど、神社から半径10km圏の人口がざっくり10万人くらいであるから、人口比でいえばその集客力は実はとんでもなく凄まじい。それほどまでに人がよく集まるのは、乃木将軍という人物の国民的な人気の余熱のようなものがいまだにあって、半ば惰性的になりながらも 「行くならまず、あそこだねぇ」 という意識が地元に根強く残っているためといわれる。

…と言っても、その人となりが人々の記憶にしっかりと残っていたのは昭和40年代くらいまでで、いまどきの若い人にとっての乃木神社は、明治の英雄の魂が鎮まる社というよりも単に 「屋台がたくさん並んで賑やかなメジャースポット」 くらいの認識になっているような気がする(^^;)

それはともかく、今回はそんな乃木将軍の周辺事情を偲びながら、明治という時代、また日露戦争というものを振り返りつつ、年越しをしてみようと思う。



 

■ 乃木神社への道




そんなわけで大晦日の夜も更けて10時半頃、ゆるゆると出掛けてみた。年末寒波が到来していくぶん寒い夜ではあるけれど、まあ雪が降るほどではない。那須野ヶ原界隈では雪の白さがちらほら見え始めるのは東北自動車道より西側の山沿い方面で、扇状地の中央から下流側にかけては基本的に乾いた枯野というのがスタンダードな風景だ。

ラジオをつけると紅白歌合戦の音声が流れてくる。そういえば今年のヒット曲っていったい何だったっけ…と思いつつ、3秒後には 「別にどうでもいいか…」 と思い直して、年に一度しか聞かないであろう雅楽のCDなんぞを流してみた。このCD、Amazonで惰性で買ってしまった品なのだが、今聞かねばきっと来年まで封印になってしまうだろうから無理にでも聞かねばならないのだ(^^;)




さて信号のほとんどないルートを通ったせいかあまりにも速やかに到着。込んでいるだろうと思って別邸側の駐車場に裏ルートから履いてみたのだが、 実はまだガラガラだった。




参道正面側に向かう途中、乃木神社敷地内に祀られた八雲神社をみる。東日本大震災で倒壊していた社殿が、いつのまにか再建されているのが心強い。



 

■ 参道〜境内へ




参道に出ると、もう屋台が万全の営業体制を敷いて初詣客を待っていた。近所の人もぼちぼち集まりつつある。




新年を迎えつつある神社の正面。屋台は全部で30〜40店舗くらいだろうか。栃木県北部の神社の中では、これはダントツの出店数になる。

屋台が多いのは人出が多いからで、その屋台の賑わいを求めてさらに人が集まるのでニワトリX卵のうまい相乗効果が回っている。それに加えてここは市街地に離接している割に駐車場が広いので、収容キャパも結構なものがあるのだ。





さて混雑することはわかっているので今回はあまりウロウロしないで素直に列に並ぼう。

…おお、見ればぼちぼち人が列を作りつつあるな。筆者も急がねば(^^;)




ここの祭神は最初に述べたとおり旧日本陸軍の乃木大将である。明けて平成27年(2015)は鎮座百周年にあたるそうで、記念イベントや社殿の増改築で賑やかな年になるらしい。

…でも有名な割に、乃木将軍がどういう人だったのかを知る人はすっかり減った感がある。だいたい最近の中学校の歴史教科書には乃木希典の名前がない。それどころか同時代の東郷平八郎も大山巌も児玉源太郎も載っておらず、秋山好古なんて 「誰それ?」 という状態なのである。

信長や秀吉の出てこない天下統一が有り得ないように、日本が明治維新以来三十余年にして遭遇した国家滅亡の危機と薄氷の勝利の物語を、我々はもっとちゃんとした形で知っておくべきだと思うのだが…どうしてキーパーソンの欠落した変な教科書が出来上がるのか、筆者は不思議で不思議で仕方がない(´・ω・`) …せめて乃木と東郷くらいは載せなきゃイカンだろ♪



 

■ 乃木希典陸軍大将について



さて教科書が書いてくれないのであれば、ここで書いてしまおう(^^;) ただあまり詳しく書きすぎるとそれこそ本が一冊出来上がってしまうので、有名なところのみをつまみ食い式に紹介してみたいと思う。

乃木希典は嘉永2年(1849)に長府藩士:乃木希次の三男として生誕した。長府藩とは長州藩の分家にあたる藩である(だから書籍によっては四捨五入して長州藩士扱いになっていたりする)。乃木は慶応元年(1865)に16歳にして長府藩報国隊を経て奇兵隊に加わり第二次長州征伐で幕府軍と戦ったのが初陣で、以降、西南戦争、日清戦争、日露戦争等に参戦して武功を重ねた。(他にも反乱鎮圧に何度か出陣しているがややこしいのでカット) 日露戦争後は学習院の院長として教育にも尽力している。明治天皇を崇敬し、実直な性格を気に入られて天皇に可愛がられたことでも有名であった。

※写真はWikipediaのフリー素材より引用




那須塩原市(当時は西那須野村石林)との縁は、明治25年に乃木がここに土地を求め居住したことに始まる。日清戦争〜台湾総統を経て、明治34年から同37年までも乃木は陸軍職を休職してここで農耕生活を送った。彼にはなんとなく西郷隆盛と類似したところがあって、軍の要職にありながらたびたび休職しては在野で農業に勤(いそし)むという緩急の大きな日々を送っている(※)。乃木の休職は那須野で過ごした明治30年代が最も長く2年9ヵ月余りに及び、日露戦争開戦によって再び現役の軍人に戻っている。

乃木希助の戦功は数多いけれども、その最も有名なものが日露戦争における旅順要塞攻略戦だと思う。旅順といってピンとこない人でも "二〇三高地" といえば名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。ここではそれについて少しばかり紙面を割いてみたい。

※休職を繰り返した理由は上司とソリが合わなかったり部下の不始末に連座したり…とさまざまだったりするのだが、公式にはいずれも健康上の理由ということになっている。
※写真は明るい時間帯に撮った乃木別邸。建物は2棟あり、現在では乃木神社の管理下で公園として整備されている。




 

■ 超圧縮版:日露戦争の解説




日露戦争は明治37年(1904)〜同38年(1905)、日本が大国ロシアの南下政策に抵抗して始まった。極東におけるロシアの露骨な勢力圏拡大(沿海州→満州→朝鮮→日本)に対抗したもので、日清戦争を役者を変えて拡大再生産したような戦いであったと思えばよい。その主な舞台は朝鮮半島と南満州で、主要な戦闘として10回ほどの大きな衝突があった。陸上ではロシア軍の最大の軍事拠点=奉天の争奪戦がハイライトであり、海上では日本海海戦が最大のクライマックスとなった。

この戦争で、乃木将軍は遼東半島先端部の旅順要塞を攻略する第三軍を指揮した。遼東半島は日清戦争で一旦は日本が獲得した新領土で、その後三国干渉(独+仏+露)によって清に返還せざるを得なくなったところだ。しかし返還させておきながら、その直後ロシアはちゃっかりとここを自分の租借地にしてしてしまい、巨大な要塞を造ってしまった。港湾都市をまるごと含んだ直径10km、600門の要塞砲を備えた分厚いコンクリート壁の長城で、ロシア軍は 「どのような大軍に攻められようとも3年は持ちこたえられる」 と豪語するに至った。

この戦争における日本軍の最終攻略目標は敵の最大の駐留基地=奉天で、第一軍、第二軍がその任に当たった(のちに第四軍が編成されて投入)。乃木将軍率いる第三軍の任務は別働隊として背後にある旅順を押さえて無力化することにあった。ここで世界史的にも有名な要塞攻略戦が行われ、乃木将軍の名声を決定づけることになる。

※戦争の原因は毎度のごとく 「あの半島」 で、解説するだけ不毛なので詳細は省略する。
※当時の満州は国際法上は清国の領土だが実質的にロシア軍の占領下にあった。ちなみに清国は既に統治機構が崩壊して国家の体裁を為しておらず、辛亥革命(1911)で滅亡するまで最後の6年を残すのみという状況にある。





要塞攻略に乃木将軍が抜擢されたのは、10年前に行われた日清戦争でやはり旅順を一度攻略した経験者であったことが大きい。このときはわずか1日の包囲戦で決着がついた。

しかし日露戦争当時には、ロシア軍は要塞の外周を単なる土塁ではなく分厚いコンクリート壁で固めた堅牢な城塞に改めていて、火力も増強され、その防御力は飛躍的に強化されていた。乃木将軍はこの強力な要塞をバルチック艦隊がやってくるまでに落として一路反転、奉天攻略戦に参加せよという無茶な指令を受けて、タイムリミットつきの攻略を進めていった。5月末に大連にあった戦線はじりじりと要塞に近づき、8月から12月にかけて猛烈な攻防戦が行われて、翌1月1日に要塞守備隊は降伏した。

この間、投入された日本軍の兵力は初期投入分が約5万、のちに増援があり延べ13万、うち半数近い6万名が死傷(戦死15400、負傷44000)した。この損耗率をもって乃木将軍を戦下手と評する向きがあり、小説家の司馬遼太郎などは 「無能」 などと言いながら罵倒している。要塞や203高地に対して何の工夫もない突撃を繰り返して要らぬ犠牲を出した、というのがその趣旨で、戦前は名将と呼ばれていた乃木の評価が急落するのは司馬遼太郎が小説 「坂の上の雲」 で無能説を書きたてた昭和40年代以降のことであった。

※多少の補足をすると、大本営は当初は要塞の陥落は不要(=出口を塞いでおけば十分)と考えていたらしい。しかし日本海軍が緒戦でロシア太平洋艦隊を撃ち漏らして要塞内の軍港に入られてしまったため、バルチック艦隊がやってきて合流されるまえに要塞ごとこの艦隊を殲滅しなければ著しく戦況が不利になる状況が生まれてしまった。当初は国内にあって近衛師団長であった乃木希助が第三軍司令に任じられたのはこのときで、既に開戦からは4ヶ月を過ぎていた。こうして兵員、弾薬、準備期間のいずれも不足する中、にわか仕立ての第三軍を指揮して乃木希助は出陣するのである。




しかし実際の戦闘は巷で言われているような単純突撃の繰り返しなどではなかった。当たり前のことだが、ある意図をもって演出された小説や映画と現実は、混同するべきではないのである。そして乃木将軍の働きぶりは、科された制約のなかでは十分に有能といえるものだった。

実際の旅順攻略戦は、初回こそ強襲突撃で多数の死傷者が出ているものの、それに学んで以降は塹壕(ざんごう)戦に切り替わっている。塹壕戦とは工兵によって人が身を隠すことのできる程度の溝(塹壕)を掘って敵陣近くまで迫り、最後の数十〜百メートルくらいを火砲の援護とともに一気に突撃して敵の陣地を奪うというものだ。敵が砲弾を撃ち込んでくる中で穴掘りをしていくので時間はかかるが、要塞のような動かない攻撃目標に迫るには有効な手段である。大本営からの矢の催促を撥ね付けて、乃木は敢えて強襲戦から戦い方を変え、"急がば回れ" に思考を切り替えたのであった。

記録をみると大規模な突撃攻勢は5回行われ、おおよそ1ヶ月に一度くらいのペースである。攻勢の間はひたすら穴を掘って塹壕と陣地の形成をしており、戦国武将でいえば秀吉型の土木戦に近い展開となった。攻勢末期の要塞外縁部の突破作戦では、地下トンネルを敵陣直下まで掘っていって大量の爆薬を仕掛ける(=坑道戦)など、戦法は初期の頃からさらに一変している。

攻城兵器も急速な改良が行われた。現在では世界中の軍隊で使用されている手榴弾や迫撃砲は、塹壕やトーチカに籠って機関銃を撃ってくるロシア兵に対抗するために乃木将軍指揮下の工兵が即席に作ったものが原型になっている。花火の打ち上げ筒(三河花火を参考にしたという)を斜めにして敵の塹壕の上から榴弾を落とすように撃つのが迫撃砲、砲を使わずに手で投げ込むのが手榴弾で、初期には竹筒や木筒、ブリキ缶などが使われた。(詳しく知りたい人は 今澤義雄 発明 あたりで検索しよう♪) とにかく戦法の創意工夫とか装備の改良は旅順の戦闘現場で革命的な変遷を遂げていて、運用も驚くほど柔軟に行われている。




また有名な203高地(爾霊山:上記写真)の争奪戦は、映画や小説でよく言われるような要塞砲撃の観測点奪取というよりは、要塞内部の兵力をおびきだして消耗させる意味合いのほうが大きかったらしい。

ロシア側の要塞守備隊は籠城を続けていれば時間が味方をしてくれることを知っていたけれども、要塞内部が丸見えになってしまう(=砲撃で狙い放題)203高地に日本軍が迫ると、それを死守するために陣地の外に兵を出さざるを得なくなった。これで消耗戦に引きずり込まれ、ついに戦線を維持できなくなって降伏に至ったのである。映画 "二百三高地" では日本兵の無駄死にのオンパレードのように描かれているこの戦いだが、筆者は日本側の作戦勝ちのような印象をもっている。

作戦勝ちとの印象に至ったのは筆者だけではなく、戦争を観察していた各国の武官も同様であった。ロシア軍の要塞守備隊は陸海軍+軍属を合わせて6万人以上。一般に要塞攻略には攻撃側は守備側の最低3倍以上の兵力が必要と言われるから、当時の軍事常識では日本軍は20万人規模の兵力を投入しなければ勝利は覚束なかった筈なのである。それを敵兵力より少ない5万の部隊で攻撃を開始し、後に増援があったにせよ延べ13万の兵力投入で落としてしまったのだから、戦況を観察していた各国の武官は一斉に驚いたのであった。

※ちなみに日露戦争以前の有名な要塞戦としてはクリミア戦争における ロシア(受け) vs オスマントルコ+英+仏 (責め) のセヴァストポリ要塞攻防戦というのがあった。この要塞は旅順要塞の1/6の規模でありながら、陥落までに1年を要し攻撃側に12万8000名の戦死者を出している。セヴァストポリの6倍の要塞を1/3の期間、1/10の損耗(死者数比)で落とした乃木大将は、愚将どころかとんでもない名将というのが当時の列強の評価のようである。




こうして欧米諸国に強烈な印象を残したのち、乃木将軍は第三軍を再編して反転し、ロシア陸軍最大の拠点奉天の包囲戦に参加していく。敵将クロパトキンは旅順攻略戦の状況から乃木の第三軍の兵力を実際の2〜3倍に見積もって恐れ、これがハッタリ効果をもたらして日本軍に有利に働いたといわれる。

奉天が陥落したのは旅順陥落の約2か月後、1905年3月10日のことであった。当初は旅順での消耗から予備兵力扱いとなりロクな補給も受けられなかった乃木の第三軍だったが、蓋を開けてみれば最も勇猛に戦ってロシア軍を翻弄し、勝利を決定づける働きをした。実質3万8千の兵で敵の背後に回り込んで補給路を断つ動きを見せ、10万を超えるロシア兵を引き付けて互角以上の戦いをしたのである。これが功を奏して、前後からの挟撃を恐れたロシア軍は撤退を開始し、奉天は陥落している。

※奉天陥落時点でもロシアは国内に兵力の余力があり、終戦の行方は見えていなかった。この2か月後、ようやく到着したバルチック艦隊を日本海軍が破り、日本の勝利が確定した。ここでようやく東郷平八郎が名声を得た訳だが、海での戦闘はこれで終了してしまったので乃木将軍のように "名前で敵を後退させる" ようなエピソードは生まれなかった(^^;)
※写真はWikipediaのフリー素材から引用(旅順陥落後の敵将ステッセルとの会見)



以上、ざっとかいつまんで日露戦争をまとめてみたけれども、乃木大将の働きには斯様(かよう)に凄まじいものがあった。

余談になるけれども軍隊というのは特に歩兵戦においては数の多い方が圧倒的に有利で、損耗率(戦闘不能の死傷者の割合)が上がった方が戦線崩壊を起こして敵の突破を許して(=負けて)しまう。崩壊点は一般に損耗率で3割前後といわれ、4割ほどにもなれば部隊としてまともに機能しなくなり、軍事的には全滅に等しい。しかし乃木希典が指揮する部隊は損耗率が5割ほどになっても崩壊せずにちゃんと戦力として機能し続け、兵士の士気も非常に高く維持されていた。ロシア軍の指揮官はこの理論を超越した "有り得ない軍隊" に恐怖した。

これを表現するのに単に "乃木の統率力が高かった" と言うのでは言葉が足りないような気がする。なにか根本的なところで、兵士の絶対的な信頼とか信望、あるいは忠誠を得ていなければ説明できないように思う。 残念ながら、リアルでご本人に会ったことがない筆者には、それがどんなものであったかを知る由はないのだけれども…(^^;)




 

■ 老将が神となったとき




さてぼちぼち人が増えてきた。戦争の話はこのあたりまでにして、そろそろ乃木大将が神となった経緯について少々書いてみたい。

日露戦争の後、凱旋した乃木はその功績の大きさから熱狂的な歓迎を受けることとなった。しかし乃木は自らの戦功については多くを語らず、凱旋後の祝賀会はすべてキャンセルして、かわりに戦死者の慰霊や負傷兵の慰問に多くの時間を費やした。この乃木の巡礼は、のちに日本各地で様々なエピソードを生んで語り継がれていくことになる。

実を言えばひとつの戦いで死者が1万人単位で出る近代戦というのを、このとき日本は初めて経験したのであった。日清戦争の戦死者は全部合わせても1100人程度であったのに対し、日露戦争では戦死者は55000人に達し、そのレートは50倍にも膨れ上がった。乃木将軍はこれにたいへんな自責の念をもっており、戦後の復命報告の際にも責任をとって自刃して果てたい旨の発言をし、明治帝より注意を受けている。曰はく 「今はその時に非ず、どうしてもと言うなら朕が世を去ってからにせよ」 との内容であったとされる。




実は乃木将軍には息子が二人いたのだが、そのいずれもが日露戦争に従軍して戦死している。乃木は 「これで自分が死なせた将兵やその遺族に面目が立つ」 という趣旨の発言を残したのみで、多くを語らなかった。

明治帝はこのような乃木を姿をみて、死に急ぐなかれと注意をしたのである。そして彼を参謀総長に据えたいとする山形有朋の推挙を退け、かわりに学習院の院長のポストを与えた。折しも明治帝の孫、裕仁親王(昭和天皇)の入学のときで、明治帝は乃木に 「我が子と思って養育するように」 との言葉を贈ったという。この学習院での教育者としての日々が、乃木将軍の最後の仕事となった。…が、あんまり書きすぎると長くなるのでここは大幅カット(ぉぃ)




日露戦争終結から7年後、明治帝は御年61歳にして崩御した。明治45年7月30日のことで、即日改元があり、この日が大正元年の初日となった。大喪礼(葬儀)は殯(もがり)の期間を経て同年9月13日に執り行われた。

しかしこのとき乃木希助は式典に出席していない。正装(軍服)で身を固め、午前中に記念写真を撮った後は、自室に籠(こも)ったまま出てこなかった。

その夜、明治帝の出棺を告げる空砲が響いた後(午後8時頃といわれる)、乃木希典は夫人とともに赤坂の自邸で自刃している姿で発見された。いわゆる殉死である。江戸幕府の初期(寛文五年=1665)に武家諸法度により禁じられて以降、二百数十年ぶりに主君を追って世を去る者が出たのであった。 乃木の遺体の前には、明治帝の御真影と、日露戦争で亡くした二人の息子の写真があり、遺書とともに辞世の句が残されていた。

うつし世を神さりましゝ大君の
みあとしたひて我はゆくなり




…斯くして、乃木希典は世を去った。既に息子は戦死しており、養子は取らず、夫人も世を去って、乃木家を継ぐ者はいなくなった。 乃木家は、こうしてここに断絶したのである。

生前の言からすると家系の断絶は故人の望んだ結末であったようで、21世紀を生きる我々からみれば余りにも壮絶な選択といえる。 しかしこれが乃木大将なりの、熟慮の末の戦没者への責任の取り方だったのだろう。

乃木将軍の葬儀は死去から5日後の9月18日に行われた。新聞の購読率もまだ低かった時代に瞬く間に情報は広がり、 ネットもTVもない時代性を考えれば驚くしかないが、葬列の沿道にはなんと20万人もの人々が詰めかけたという。



その後、乃木将軍ゆかりの各地で神社建立の決議が相次いだ。"神として祀る" というのは当時は故人に送る最高の栄誉にあたり、このときは全国9か所で次々と浄財が集まって神社建立が行われるという 珍しい事態となった。いずれも乃木大将を主祭神とし、乃木神社と称した。現在はそのうち七社が健在で、護国神社やその他の地方社に摂社/末社として勧請されたものを含めると総数がどれほどになるかわからない。

※第二次大戦後に日本が領有権を放棄した朝鮮半島の京城(現:ソウル)、および租借権を消失した旅順にもそれぞれ一社ずつの乃木神社があったが、いずれも取り壊されて現存しない。
※ちなみに東郷平八郎を祀った東郷神社が全国で二社(東京/福岡)である。比較するような性格の話ではないけれども、没後に九社もの単立神社が並び立ったというところに、当時の乃木大将の人気の程度が伺えよう。




筆者がいま初詣に訪れている那須の乃木神社は、それらのうち最も早期に成立(大正五年四月)したものである。乃木大将の訃報に接した石林周辺の人々は、葬儀の当日は乃木別邸(現在の乃木公園)で大田原神社宮司の主催で亡き将軍の遥拝式を行い、その場で神社創立を決議したという。

ただ当時の神社行政は内務省の管轄で、神社建立の審査にはしばらくかかり、許可が下りたのは大正4年になってからであった。その後は駿足で工事が進み、社殿竣工は翌大正5年3月6日、鎮座祭は同年4月13日に行われ、この日が神社の公式な創立日となっている。参道は旧国道400号線から分岐するかたちで伸ばされ、桜の献木がずらりと800mあまりも並ぶ立派なものとなった。




こうして、ここに乃木将軍を祀る最初の神社が成立した。建立の翌々年には那須駅(現:JR西那須野駅)から分岐する形で東野鉄道が通り、乃木神社前駅も併設されて、人が集まりやすい環境が整った。こうして、ここは那須野ヶ原で随一の賑わいのある神社となっていったのである。

なお遷座の年の11月、神となった乃木希典命に、皇室からの特旨をもって正二位の神階が与えられた。お稲荷様が正一位だから、それに継ぐくらいの神様の格付けを得たということである。神階制度は実は明治時代に廃止されていて大正時代には既に効力を失っているのだが、それを曲げて位階を "特旨により授与" されたというところに、乃木希典の存在の大きさが現れているような気がする。



 

■ 新年の到来




さてそんな薀蓄(うんちく)を垂れているうちに午前0時が迫ってきた。振り返ると、もう参拝者の長蛇の列ができている。…相変わらず、凄い人出だな(´・ω・`)

そこにノリの良さそうな神職さんが現れ、「あと30秒でございます〜、…20秒、…10、9、8…」 とカウントをはじめ、参拝客も声を合わせて 「3、2、1…おめーーーーっ♪」 と合唱しつつ、年が明けた。同時に太鼓もドーン、ドーン…と打ち鳴らされた。平成27年、西暦2015年の到来である。

うーむ…、それにしても遷座から100年も経つといろいろと雰囲気も変わるものだな…(^^;)




そしてさっそく修羅のような(?)新年のお参りが始まる。混雑を避けるため警備員が人の流れを制限しており、賽銭箱の前に立てるのは一度に20人くらいまでである。最前列はゆとり世代っぽいにーちゃん、ねーちゃんだったけれども、ちゃんと伝統に則って二礼二拍手一礼をしていた。…おお、ちゃんと正しいお作法を知ってるじゃん、若いのにたいしたものだな。




筆者はとりあえず、冷え込んだ懐具合のV字回復と家内安全、武運長久、招福万来などを慎ましく祈願。ついでに日本に仇為す反日国家の滅亡と世界平和の到来もささやかに祈ってみた(^^;)





・・・で、本来ならここで火にあたりながらゆるゆると過ごすのだけれど、乃木神社にはお焚き上げの炎は燃えていないのであまり長居はしないことにした。

どうして火が燃えていないかというと、ここは以前火災に遭っていて、本殿裏にある乃木亭が二度全焼しているのである(旧邸:1971、別邸:1990)。ゆえに火気厳禁が徹底されて年越しの古いお札の焚き上げは行われず、初詣の人出が一巡した後に別途行われるようになっている。

※カメラマンの目線では炎の絵の撮れない二年参りというのはどうにも風情がイマイチで、このサイトの初詣記事でなかなか乃木神社が登場しなかったのにはそんな事情もあったりする(^^;)




まあそれはともかく、暖はとれなくてもおみくじくらいは引いていこう。




・・・うむ、中吉とな。まずまず良さそうなカンジではないか♪

ちなみにこのおみくじには縁起物がオマケで付いており、見れば 「熊手」 であった。福を掻き込む…という意味の縁起物ということになるらしいのだが、しかし昨年 「熊手」 で有名になった某国会議員のセンセイが選挙で落選していたりするので、なんとなく微妙な気がしないでもない(^^;) …しかしまあ、油断をしてはならぬとの自戒のアイテム(なんだそりゃ)と認識しておくこととしよう。




さて年が改まって、初詣客がどんどん増えはじめ、境内は人、人、人…となった。




そのまま参道方面に向かってみたのだが、初詣の列は何百メートルも続いていて壮観なことこのうえない。これだけの人数がいればお賽銭も凄いだろうし屋台も儲かることだろう。そうやって日本の景気もどんどん回って、筆者の懐にもその恩恵がはやく届くとよいのだけれど…(^^;)




…と、そんなことを思いながら、筆者はそそくさと大判焼きと唐揚げとおでんを買い込んで離脱。なにしろこの参拝客の列は、神様に無理難題(?)をお願いしたのちは、旅順から反転した第三軍のような勢いで屋台に殺到して買い物を始めるのである。その混雑に巻き込まれると離脱が困難になってしまうのだ(笑)



…ということで、あまりきれいに纏まっていないけれども、ここで新年第一稿の締めくくりとしたい。

今年もいい景色をたくさん眺めて、心の豊かになるような旅をしたい。昨年末には無けなしの資金を拠出して主力カメラも更新したことだし、今年はバシバシ使い倒して行こう。

そんな訳で、ゆるゆると宜しくお願いいたします〜 ヽ(´ー`)ノ


【完】




■ あとがき


さて今回は、初詣ネタとしては少々重いかもしれない日露戦争に絡んだ話を書いてみました。乃木将軍は最後が殉死という形で生涯を終えたので謹賀新年のテイストと合うかどうか少々悩ましいところだったのですが、避けて通る訳にもいきませんので敢えて正面から書いてみた次第です。

那須野には特に明治以降の開拓地に人神が多くみられます。幕末から大正時代くらいまでの約半世紀は人と神の距離が非常に近かった時代で、村の鎮守の摂社として無数の小さな神様が祀られた時代でもあります。統計的にカウントした訳ではありませんが、もしかするとこの頃は記紀神話成立以来の神様の量産ラッシュの時代だったのかもしれません。

乃木将軍(乃木希典命)はその中でもダントツの人気を誇っていました。戦前の国定教科書には必ず乃木将軍の話が載っていましたし、文部省唱歌として乃木将軍のテーマソング 「乃木大将」 (作詞 芳賀矢一/作曲 田村虎蔵)というのがよく歌われました。

明治大帝 下し給ひし 軍人勅諭に
萬(よろ)づの徳は 誠一つと のたまはし
それをさながら 実行せし人
嗚呼乃木大将 其の人ならずや

実はこれ以外にも唱歌は5曲ほどあって、なんと静子夫人のテーマも作られています(^^;) その多くは大正元年(自刃の直後)につくられていて、楽譜と歌詞を納めた6〜8ページほどの小冊子として流通しました。これがもう、売れに売れたそうです。

なお帝国陸軍大将という肩書のせいか、"教科書と乃木将軍" というと日露戦争に絡んでイケイケドンドンの軍国教育が為されたのではないか…と思う人がいるかもしれませんが、実態はまったく違います。取り上げられたのは主に修身(現代の道徳に相当)の教科書や副読本で、礼儀を尽くすとか、他人を思いやるとか、そういうエピソードが多いのですね。戦前世代の、いわゆる高等教育を受けていないお年寄りは、そういう物語を通して過去の偉人を知ったわけです。


■ 忘れ去られる乃木大将


しかしこれほどの人気を誇った乃木将軍も、第二次大戦後に連合軍が進駐してくると、いわゆる黒塗り教科書政策を経て教科書からは抹殺されていきます。昭和40年代くらいまではまだリアルな記憶を持った世代が現役で、社会常識としてその物語が共有されていたようですが、その後は戦前を知らない世代が増え、いまどきの子供はもはや名前すら知りません。

現在の乃木神社は、乃木大将の物語をよく知っていて敬意をもって参拝している人も勿論いるとは思うのですが、参拝者の多くは単に 「賑わいのある神社だから」 くらいの意識でやってきているような印象を受けます。人が集まるのはかつての乃木人気の遺産(?)のようなもので、だからこそ年始には屋台が多く出て、またそれを目当てに人が集まる…という好循環が回っているのでしょう。




ところで筆者の子供に 「乃木大将を知ってるか?」 と聞いたところ 「誰それ?」 という反応だったので、学校の授業で使っている歴史の教科書を借りて読んでみました。結果は…あまりにもツッコミどころが満載過ぎて、編集人と検定人を根性焼き十万回に加えて、頭頂ワックス脱毛百万回の刑に処したい気分になりました(笑)

とにかく幕末から近代の重要人物名がばっさりと消失しているのです。吉田松陰、高杉晋作のいない明治維新(なんだそりゃ)もひどいですが、日露戦争の周辺ですと、反戦派の民間人である内村鑑三、与謝野晶子、幸徳秋水ら脇役ばかりが前面に出てきて(しかも写真つきですヨ)、肝心の政府側の要人はというと、ことごとく 名無しの透明人間 にされているんですね。「誰が」 「いつ」 「どこで」 「なにを」 「どうした」 というのは作文の基本中の基本ですけれども、このうち 「誰が」 という主語の部分が歴史の教科書ではどうも軽んじられているようです。筆者的には、居ても居なくても時代の趨勢には影響しなかったであろう "評論家" はどうでもいいから、「この人が居たからこそ歴史が変わった!」 という "メジャープレーヤー" こそ教科書に乗せるべきだろうと思います。乃木希典は、十二分にその資格があると思うのですけれどねぇ…(´・ω・`)

…とはいえ、最近はぼちぼち乃木希典の評価を見直す動きも出てきたようで、脱・司馬史観的な書籍もちらほら出版されるようになってきました。まあ過剰な神格化は戒めるとしても、事実に基づいた人間・乃木の姿がひろく知られるのは大変に結構なことといえます。若いころの放蕩三昧の生活から一変して、昭和天皇をして 「私の人格形成に最も影響を与えたのは乃木希典であった」 と言わしめるまでに至った経緯は、伝記としてみても戦記として見ても、波瀾万丈でいてなおかつ奥深いものがあります。

そしてそのような人物がひとつの神格を得てここに鎮まっていることの意味合いを、我々はもうあとほんの少しだけ、注意を払って考えてみるべきではないか。既に乃木大将のいない教科書で育った世代である筆者は、そんなことを思ってみたのでありました(^^;)

【おしまい】