2016.01.01 初詣:烏森神社 〜那須野ヶ原開拓前夜物語〜 (その1)




開拓のお社、烏森神社で初詣をして参りました (´・ω・`)ノ



さて2016年は筆者の地元で開拓のお社として親しまれている烏ヶ森神社の初詣で始めることとしたい。この神社は伝承によれば延喜二年(902)に建立されたといわれ、長らく稲荷社として祀られてきた。明治の開拓が始まる頃には那須西原一体の54ヶ村余の崇敬を集めていたと言われている。

明治になって那須野ヶ原開拓が本格化すると天照大神、豊受大神、倉稲魂命を主祭神としてリニューアルされ、周辺の公園化も進んで桜の季節には大変な賑わいのをみせる場となった。そしてのちに那須開墾社の初代社長印南丈作と二代目社長矢板武が合祀されて、文字通りの開拓の社となって現在に至っている。

その長い歴史を俯瞰するといくつもの切り口で眺められるのだが、今回は特に神となった開拓地の親分、印南丈作の生い立ちを追いかけながら、那須野ヶ原の開拓前夜の時代に思いを馳せつつ初詣に出かけてみようと思う。

※余計な前振りはいいから初詣の様子をレポートせい、という方はこちらへ…(笑)




なお知らない方のために簡単に説明しておくと、印南丈作とはこんな面構えのおっさんである。地元の小学生は 「那須野ヶ原開拓を始めたエライ人」 という文脈で習うことになっている。知らないなんてヤツは正しい那須塩原市民とは言えないのでケツバット100万回の刑だ(違 ^^;)

…で、この人の何が凄いかというと、地元の名士とはいっても全国区でみれば無名に近い一市民でありながら、中央政界に果敢に働きかけて開拓事業を牽引したリーダーたりえたことにある。時代は帝国議会すら開設されていない明治十年代、地元議員を通じて陳情書を出すなどというルールもまだ確立していない頃に、新政府の高級官僚(のちに総理大臣となる伊藤博文や松方正義などの超大物)を説き伏せて予算を引出し、開拓を推進させている。

ちなみに隣接する三島神社の祭神三島通庸も同時代の人物で、やはり開拓事業を推進して神となった。ただ那須野ヶ原開拓の基本構想は三島の登場以前に鍋島県令と印南丈作が青写真を描いているので、筆者的には開拓の先駆者といえばやはり印南丈作だろうと思う。

そんな訳で、よく知られている那須疎開削以降のエピソードは今回は脇に置いて、幕末から明治維新の頃にかけての開拓前夜の時代を俯瞰してみたい。いつものごとく話はあっちこっちに飛ぶけれども、あまり教科書に出てこない部分でもあり、初詣の余談としても面白いので書いてみよう。



 

■ 烏森神社への道





そんなわけで大晦日も更けた11:00頃、ゆるゆると暗闇のなかを出かけてみた。この冬は暖冬ということもあってそれほど冷え込みは厳しくない。ちらほらと初詣(二年参り)に行くと思われる車を見かけながら、烏ヶ森を目指していく。




烏森神社は標高297mの烏ヶ森丘陵の頂上部にある。周辺の平地部が既に標高260m程度あるので隆起量としては37m程度だが、周囲が平坦なため視界はよく効く。日本の神様の文法(※)からいえば神社があって然るべき地形で、古くから小さな社が祀られていた。

※村の鎮守たる神様は普段は小高い山の上にいて、農作業の頃に降りてきて恵みをもたらす…という信仰(山神信仰)が日本には古くからある。




ここに最初に神様を祀ったのは烏ヶ森丘陵から4kmほど南の石上(磐上)の住民であったらしい。伝承では平安時代前期の延喜二年(902)頃に田守なる人物が建立したとされる。

これが明治期の開拓時代に、大幅拡張されて烏森神社となった。神社の発起人は印南丈作、矢板武、斉藤半次郎(以上3名が那須開墾社)、および田上貞質(三島農場)で、那須開墾社と三島農場双方の氏神として建立されている。烏森神社はその立地から那須西原の広い範囲で信仰の対象となったようである。




・・・などと薀蓄(うんちく)を書いている間に烏ヶ森公園に到着 ヽ(´ー`)ノ ただこのままスタスタと登ってしまうとあっという間に初詣が終わってしまうので(笑)、このあたりでいったん神社から離れて、本日のテーマである印南丈作の話をはじめてみたい。それは幕末から維新前後の下野史を概観することでもある。



 

■ 物語は日光東照宮から始まった




さて物語は日光東照宮から始まる。「なんで写真が駐車場入口なんだよ」 とツッコミを受けそうだが、これは初詣渋滞が激しくて入れなかったもので、…まあご容赦頂きたい(笑)

印南丈作はここ日光市中で生まれた。天保二年(1831)7月16日のことで、幼名は神山源太郎という。彼の生家:神山家は日光東照宮お抱えの絵方棟梁であった。東照宮はその巨大な建築群と彫刻、絵画などの維持補修や宗教行事のために大量の職人を抱えており、それだけで町がひとつ成立していた。神山家はその中にあって絵師を率いる棟梁の地位にあった。職人としては超一流の家系である。




当時の日光は神域と俗世を分ける境界=神橋を境にして、西側を入町、東側を出町と呼んだ。大雑把にいって出町は外部からの参詣者の宿泊施設の集合体、入町は日光山関係者の居住区である。神山家はこの入町の一番の目抜き通りに屋敷を構えていた。

※上図では便宜上東照宮の建築群の領域を赤色で示しているが、実際の日光山(東照宮)は現在の日光市とほぼ同等の広さがあった。




ここがその屋敷のあった付近である。維新後に何度か町割りの変更があって住民は入れ替わっているが、今でもぽつりぽつりと旧家の建物がみえる。

源太郎少年はここで幼少期を過ごしたが、残念ながら絵の才能には恵まれなかったようで、12歳になると家業には就かず日光山内の龍光院(仏寺)に奉公に出された。職人の世界は厳しく、才能が水準に達せずと見做されると身内であってもどんどん追い出されたのである。

実は彼の実父も才能無しと見做されて早々に家を去っている。代わりに技量に長けた長三という者が養子に入って神山家を継いだ。だからその後の神山家と源太郎(印南丈作)には血の繋がりはない。家とは即(すなわ)ち器。…なかなかに厳しいものである。




さて源太郎少年は寺では名を英太と改め、絵や彫刻とはまったく関係のない世界に入った。

彼の仕事は寺の雑務全般で、要するに "何でも屋" であった。ただ龍光院はそのへんの貧乏寺と違って将軍霊廟を守る高級寺院であったから、来客は大名や旗本クラスも多く、要求される仕事のレベルは高かった。英太は別当(住職)の身の回りの世話や補佐、事務一般のほか、寺領の百姓の管理や年貢の取立てなどもこなし、将軍の参詣(十二代:家慶)の儀礼対応にも関わった。もちろん最初は下働きの一兵卒から始める訳だが、15歳にもなると一人前の職員として扱われたという。




読み書き算盤(そろばん)などの教育は寺内で厳しく教えられた。日光奉行所によって開設された学問所(本来は幕府の官僚を養成するところ)にも通うことが出来たので、役人と話ができる程度の教養も身に付いた。こうして英太少年は、今の中学生〜高校生くらいの年齢で驚くほど多彩な経験を積んでいった。

特に領内の農民を管理する側にいて、統治や徴税(経理)の実務を学んだ経験は貴重といえた。この時代、平民出身の十代の少年がこのような立場にあることは、きわめて稀なことなのである。

※寺にはその経済を賄う収入源=封田とそれを耕作する封戸(専属の農家)があり、一定の格式をもった寺院は領主の性格をもっていた。龍光院の正確な石高は不明だが、日光山(東照宮)の総石高が中堅大名並みの2万5千石ほどだったことから類推すると、千石前後の旗本領程度を想像しておけばよさそうに思える。



 

■ 日光から佐久山宿へ

 


6年ほど龍光院で研鑽を積んだのち、英太は嘉永三年(1850)、19歳で佐久山宿の印南家に婿養子として入り、名を半之助と改めた。印南家は佐久山宿では大玉屋という旅籠を経営する有力な商家であった。ただどのような縁があって婿入りしたのかは定かでない。

印南家=大玉屋があったのは現在の佐久山駐在所のあたりである。向かいの佐久山郵便局のところにあったのが本陣であった井上家、その正面に脇本陣の村上家があり、その隣の駐在所のあたりが大玉屋であった。ここは宿場の中でも格の高い旅籠が集まっており、主に武家が利用していたらしい。




このとき彼が名乗った "半之助" というのはおそらく通称だろう。直訳すると "半人前の男" で、そのネーミングセンスはどうよとツッコミがありそうだが、実は戦前までは名家に外部から入った者はこういう通称を名乗ることがままあった。ある程度の年季をかけて実力を認められ、改めてお披露目されてようやく正式な一員となるのである。




半之助の場合、その年季は4年で明けた。彼は弱冠23歳にして半之助改め印南丈作となり、佐久山宿の町年寄に抜擢された。町年寄とは宿場全体を管理する役職で、事実上の民政のトップに相当する。地生えの町衆をぶっちぎってのことだからよほど仕事が出来たのだろう。日光での経験が役に立ったのは言うまでもあるまい。

ちなみに "丈作" とは印南家当主 "丈七" から一字を貰ったものである。商家で偏諱(へんき)授与とは珍しい(普通は武家の風習として行う)印象を受けるけれども、それだけ気に入られたのだろうと解釈したい(^^;)



 

■ そして那須野ヶ原を見る




さて佐久山は那須氏一族である福原(ふくわら)氏の治める東西4km、南北4km、石高3500石の旗本領であった。城下に広がる宿場が唯一の町で、その周辺に小規模な村(集落)が点在する。福原氏は一応 "殿様" と呼ばれる身分であったが家臣団は半農のなんちゃって武士が40名ほどのこぢんまりとした所帯で、交代寄合として参勤交代の負担もあったので財政はあまり豊かではなかった。ただし宿場はそこそこの賑わいがあったらしく、洒落の効いた道中歌が伝わっている。

明けの七つを宇都宮
夜はほのぼの白沢の
はや氏家に喜連川
花の佐久山あとに見て
可愛いお方に大田原

ちょいとお腰を鍋掛て
那珂川越して越堀と
二十三坂七曲り
皆さん芦野まめにして
あちらこちらと寄居村

白坂八丁手前なる 
境の明神願かけて
白河藏登町辺りに
所帯持つ気になりゃさんせ

印南丈作はここで町年寄として宿場の運営や年貢の徴収などを行いながら、幕末最後の14年あまりを過ごした。その間に町年寄に加えて周辺35ヶ村の取締役にも就いて、領内全般の世話役となっている。これは実質的に福原氏支配下のほぼ全領民の管理(の実務部分)を担っていたようなもので、では殿様の家臣団はいったいナニをしていたのかというと、そこは敢えてツッコまないでおきたい(^^;)




…そしてこの日々の中で、丈作は目前に広がる広大な那須野ヶ原を目にするのである。

当時の那須野ヶ原の大部分は大田原藩領と天領(幕府直轄地)が入り組んでいて福原氏3500石の支配下にはない。しかし佐久山宿から一里ほども歩けばもう不毛の原っぱという距離感であったから、状況はよく掴めていたことだろう。




福原氏領(佐久山)は端から端まで歩いて1時間でお釣りがくるような狭い領域である。しかし那須野ヶ原の未開拓地は1万町歩にも及ぶ広大なものだった。江戸時代の米作をざっくり1町分=10石とみなすと、ここが完全に水田化されれば10万石の領地が出現する。似たような面積の大田原藩領の表石高が1万1千石であるのをみれば、その潜在インパクトは巨大であった。

平地の少ない日光山中から出てきた丈作の目に、この広々としていながら殆ど使われていない草原はどう映ったことか。まさか10数年後に自分がここを開拓するとは思わなかったかもしれないけれども、佐久山で年貢を徴税しながらみるこの不毛の地は、非常にもったいない土地として認識されたのではないか…と、筆者は思っている。


<つづく>