2016.02.14 常陸〜房総周遊記:鹿島編(その2)




■ 南へ




さて予定外に時間を使い過ぎた大洗磯前神社から、次の目的地である鹿島神宮を目指して南下を開始した。鹿島神宮まではたっぷり40kmほどある。天気が良ければ最高の海浜ドライブになったのだろうが、相変わらず空はどんより。ラジオのニュースによると東京方面ではかなり風が強いらしい。




しかし鹿島灘海浜公園を過ぎたあたりからぼちぼち雲が晴れて日差しが出てきた。天気予報では今日一杯雨模様と言っていたのだが、早めに雲が抜けたようだ。




■ 鹿島神宮



やがて鹿島神宮に到着した頃には青空が広がっていた。広い境内を歩くのにこれはちょうど具合がいい。本日のメインディッシュはこの鹿島神宮なので、心して見学することにしよう。




鹿島神宮は本稿の冒頭でもちょこっと述べたように古代の大和朝廷の東国支配の出先機関の性格をもっていた古社である。

その立地は北浦と太平洋に挟まれた幅5km、長さ60kmの細長い半島の中央付近で、周囲を海に囲まれ、さらには半島の付け根にあたる涸沼(昔は湾だった)が天然の堀の役割をし、一郡まるごとが堅牢な要塞のような地形になっていた。神宮は高さ30〜40mの切り立った断崖の上に造られ、これまた堅固な立地となっている。かつては敷地の西側、北浦に面した崖の部分は本当に城塞で、鹿島城と呼ばれていた。




鹿島神宮の特異なところは、その神宮号の希少さにある。「神宮」 というのは神社の中でも非常に格式の高い号で、時代が下るごとにどんどん増殖してしまったのだが、古代の延喜式(927年頃成立)の神名帳に記載された "神宮" はたった3つしかない。

そのうちのひとつは伊勢神宮(=皇室の氏神)で、残る2つが鹿島神宮、香取神宮である。つまり当時最高のステータス(神宮号)をもっていた3社のうち2つがこの利根川河口部に揃っている。政治と祭祀が密接にリンクしていた古代において、これは非常に興味深い。



鹿島神宮の "鹿島" とは祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)に天照大神が遣わした使い=天迦久神(あめのかぐのかみ)=鹿の神霊からきている。

神話では天迦久神は武甕槌命ともうひとり経津主命(ふつぬしのみこと)に、"ある仕事" を依頼した。その仕事とは、出雲の国の大国主命(おおくにぬしのみこと)のところに行って、国土を譲るように交渉せよというものだった。

この交渉はすんなりとは行かず、途中はすったもんだがあって腕力勝負の戦いになった。しかしついには武甕槌(たけみかずち)と経津主(ふつぬし)の勝利となり、大国主は土地の支配権を譲って出雲大社に引き篭もり、倭国(やまとのくに)は天照大神の一派=天津神が支配することとなった…というのが、記紀神話における日本史の黎明期の記述である。

この功績から、武甕槌(たけみかずち)、経津主(ふつぬし)はともに "武神" として信仰されるようになった。そしてこの国譲り神話を経て、天津神の子孫とされる天皇(とその統治機構である朝廷)の支配の正当性が古事記や日本書紀で説かれていくのである。




東国につくられた2つの神宮のうち、鹿島神宮には武甕槌(たけみかずち)が、そして香取神宮には経津主(ふつぬし)が祀られている。神話の内容を知っていれば、この二柱の神が東国版:国譲りを意図して祀られたことが容易に想起されるだろう。

その東国版:国譲りで大国主の立場にあったのは、蝦夷の民であった。ただし彼らは大国主ほど物わかりが素直ではなく、支配に対しては出雲よりも頑強に抵抗し、数百年にわたって古代史のメインストリームのひとつ=蝦夷をめぐる攻防の物語が紡がれることとなった。神宮の存在は、そんな彼らにとってはいい迷惑であったに違いない。



 

■ 香取海(かとりのうみ)と神宮について




さて神宮の鳥居前にある案内板には、「かつての湊(みなと)」 とか 「古代の汀(なぎさ)線」 という記述がみえる。これは神宮の草創期と現在では海面の高さが異なっていることを示している。




地質学的には、縄文時代と奈良〜平安時代に大規模な海進(縄文海進/平安海進)があったことが知られている。この時代は昨今騒がれている現代の "温暖化" よりも気温が高かった時代で、極地の氷床が融けたことから海面が高かった。

ためしに案内板に示された海岸線に一致するまでカシミール3Dで海面を上昇させてみると、なんと+12mにもなってしまう。筆者は平安海進は高くてもせいぜい+5mくらいだろうと思っていたので、これにはちょっとオドロキである(´・ω・`)  …が、一応論評抜きでMAPは示しておこう。

※補足:国土地理院のレーザー測量データは建物の高さ分を補正していることになっているのだが、森林地帯や住宅密集地では誤差が乗っている可能性がある。




この+12mという水準を機械的に当てはめると、霞ケ浦も北浦も大きな湾になって巨大な海峡が出現する。しかしこれだと房総半島が島になってしまうし、旧武蔵湾の陥入もちょっと広すぎ、古河や久喜のあたりまで海になってしまう。久喜市には平安時代の遺跡があるので、これはちょっと過剰にすぎるような気がする。




更級日記等の記録と符合する程度にまで海水面を低くもっていくと、だいたい現状水面+3mくらいが実態に近いようだ。これだと房総半島は島にはならず、霞ケ浦は我孫子や印旛沼あたりまで至る大きな湾となる。

この海はかつて実在しており、香取海(かとりのうみ)と呼ばれた。鹿島神宮、香取神宮は実はこの北岸と南岸を固める位置に置かれている。ここは東国においては瀬戸内海や伊勢湾に準じる巨大な内海で、良港が多く確保でき、背後に広がる平野もひろびろとして豊かな生産力を誇っていた。

現在の学校教育では関東地方というと "日本最大面積の平野" というイメージで教えられることが多い。しかしチバラキ・・・もとい千葉、茨城両県の境界部に農地が増えたのは鎌倉時代の海退と江戸時代以降の干拓事業の結果で、それ以前の関東は武蔵海(東京湾)と香取海という2つの巨大な湾を中心とした内海世界と捉えたほうがわかりやすい。「全国遍(あまね)く」 という意味で 「津々浦々」 とう言葉があるけれども、ここはまさに 「津」 と 「浦」 の集合体みたいなところだったのだ。

※津(つ)とは港町、浦(うら)は穏やかな内海や湾を指す。波の荒い海は灘(なだ)である。




航海術の未熟だった古代(→日本の歴史区分では平安時代いっぱいまでを古代としている)にあっては、畿内から黒潮に乗って船で到達できる限界点がこの香取海であった。もちろん海岸ぎりぎりを人海戦術(手漕ぎ)でちまちま進んでも悪くはないのだが、少し沖に出て海流に乗れば遥かにラクに移動できた。ただしいつまでも黒潮に乗っているとやがて親潮とぶつかって太平洋の沖に流され遭難してしまう。ここは鹿島灘と呼ばれ海の難所と捉えられていた。

こういう地理的条件にあって、香取海はちょうど絶妙な位置にひらけており、港湾基地として利用しやすかった。 この船運でつながった伊勢〜鹿島(常陸)までが、五畿七道における "東海道" である。

※ちなみに畿内から船で到達できない鹿島(香取海北岸)以北に旅するには、陸路を行くことになる。常陸国(ひたちのくに)が 「常に陸を行く」 という字を当てたのはこのためで、さらに北側に広がる蝦夷地が陸奥(むつ/みちのく)と呼ばれたのも同じ文脈に依っている。




朝廷は早くからこの豊かな湾の周辺を "兵員調達の地" として活用していた。5世紀頃に前方後円墳が急増していることから記紀神話における日本武尊(やまとたける)の東征に相当する畿内勢力との結びつきがあったのではないかと推測されており、服属関係なのか協力関係なのかは不明だが影響圏には入っていた。

朝廷は蝦夷を攻略するために何度も軍を派遣しているが、都から遥々やってきたのは指揮官とその直属兵団くらいで、一般兵は人口の多いこの付近でかき集められた。驚くべきことに大宰府に送られた防人(さきもり)に最も多くの兵員を提供したのもこの香取海の周辺で、こうして育(はぐく)まれたガチンコ武闘派系の土地柄が、のちに坂東武士を生んでいく素地になっている。



 

■ 神宮の境内を行く




さてあまり前振りが長いとつまらないので、薀蓄(うんちく)はそれくらいにしていよいよ境内を歩いてみよう。かつての蝦夷平定も今は昔、現在の鹿島神宮は神威がどうこうというよりは深い森のある "癒しの空間" として森林浴の適地などと言われている。

その全体像は案内図(↑)にあるように大鳥居から楼門を経て本殿、奥宮が並ぶ構造になっている。神宮の歴史は長いので構造も重層的だ。現在の主要な建物(かなり豪勢)は江戸幕府の寄進によるもので、オリジナルの神宮は奥宮の付近の小振りな参道の周辺にその痕跡を残している。




まずは入口の大鳥居から見てみよう。

白木づくりで妙に新しそうだな…と思ったら、以前の鳥居が東日本大震災で倒壊してしまったそうで、境内の杉を伐って建て替えたものであった。直径1m以上はありそうな真っ直ぐな丸太が4本、推定樹齢は500年以上(^^;) …うーむ、こんなのが境内で自己調達できてしまうとは、凄いな。




大鳥居をくぐるとすぐに楼門がある。建立は江戸時代初期で、徳川幕府の寄進による。

これは上古からの由緒ある "武神" の宮であるから武家つながりで礼を尽くした…と言えなくもないのだが、当時の幕府は急拡大する江戸の町の食糧供給を安定させるため香取海の耕地化(干拓事業)を進めており、それに絡んだ 「神様よろしくお願いしますヨ」 の意図も相当程度あったらしい。

※日本史の教科書には何の予備説明もなくいきなり 「印旛沼の干拓」 とか 「利根川東遷」 などが出てくるけれども、これは香取海が失われていく最後の過程でもある。




ちなみに楼門は本来神社には必須の施設ではなく、仏教寺院の仁王門の影響をうけてつくられるようになったものだ。仁王像の代わりに名無しの神像が左右一対で鎮座して神域を守っている。




さらに奥に進むと拝殿+本殿がある。これも徳川幕府の寄進によるものである。

ここには仏教の影響はあまりみられず伝統的な神社建築だ。丹塗りではないので楼門とデザインセンスがちぐはぐな感じがするが、まあそこはそれ(^^;)




この拝殿は本殿ともども参道に対して90度横向きになっている。これは当初南北方向に参道があったものが、神宮の拡張に併せて東西方向がメインストリームになってしまった影響によっている。社殿の向きだけが古代のまま北向きになっているわけだ。

一見すると少々不思議な感じがするけれども、これには敵を正面に見据えて "蝦夷を制する" という意味が込められている。こういうところを見ると、当初の神宮建立のニーズが那辺にあったのかがわかりやすい。




ここで時計の針を古代に巻戻して、もう少し東北平定の話をしてみたい。

朝廷による東北の平定は、正史(六国史)の上では坂上田村麻呂の遠征(9世紀初め)で名目上の決着がついたことになっている。しかし実際にはそれから400年あまりも半独立の状態が続いて、中央の統制はなかなか届かなかった。時代が下って鎌倉時代の草創期、源頼朝の武力侵攻でようやく実態が名目に追いついている。



その背景についてはいろいろと掘り下げる切り口があるのだが、ひとつ押さえておきたいのは桓武天皇の政策である。坂上田村麻呂を蝦夷に派遣した桓武天皇は、長岡京在住時の延暦11年(792)、なんと正規軍をすっぱり廃止するという現代の非武装中立論者もビックリするような政策を実施した(※)。奈良時代にあまりにもインフラ投資(首都移転+仏教土木政策)をやりすぎて、国庫が破綻状態になってしまったのをかなり大胆に逆張りして解決しようとしたのである。

※正規軍廃止と言っても最低限の地方兵力(健児制)は残した。…といっても兵の数は一国あたりせいぜい100人で、郡役所毎に十人も配置したらおしまいであった。おかげで平安時代の地方の治安は極度に悪化して、これが自衛する農民=初期の武士の誕生の背景となっている。
※写真はWikipediaのフリー素材を引用





では東北遠征で軍団を送り込んだアレはいったい何なんだといえば、正規軍ではなく臨時に徴発したアルバイト軍団で、その指揮官がやはり臨時職の "征夷大将軍" なのである。

こんな正社員を廃止してパートとアルバイトばかり集めたような軍団でよく勝てたものだが、実際の戦績はやはり芳しくなく、初回は大敗北で、2回目も途中撤退、3回目で人数にモノをいわせてようやく蝦夷の大将(阿弖流為)を説得して投降させており、実は華々しく戦って "勝った" という訳ではない。蝦夷のほうも "負けた" という意識は希薄だったのではないか。




実のところ、坂上田村麻呂の遠征は平城京 → 長岡京 → 平安京と遷都続きで財政が破綻した朝廷の、東北遠征最後の手仕舞いとして行われた作戦であった。征服地に相次いで建設された城塞(柵)も彼の築いた志波城、徳丹城の以降は造られなくなり、最後の詰めを欠いたまま "なあなあ" の状態で幕引きとなっている。




…そういう意味では鹿島神宮あるいは香取神宮の神威もやや微妙な成績に終わったといえる。しかしさすがに歴史書に 「微妙でした」 との記載はなく(笑)、神様の成績査定である神階は上昇して終わった。ちなみに神階とは神様の偉さの度合いを数値化した肩書きのようなものと思えばよい。

神様のグレードを人間が決めるというのも妙な話だが、朝廷は人(貴族)に位階を設けるのと同じ要領で神様にも位階(神階)を授けており、それは神社のステータスに直結していた。鹿島神宮のタケミカヅチ神は、奈良時代末期に正三位勲五等だったものが、東北平定が一段落したのち、承和年間のほんの3年ほどの間に従二位勲一等、正二位勲一等、従一位勲一等とトントン拍子に上がり、嘉祥3年(850年)には正一位勲一等=最高位まで上がった。

ちなみに正(従)○位というのが文官としての位で、勲○等というのが武功に対して与えられる位である。武功についていえば坂上田村麻呂の遠征の前後でタケミカヅチ神は勲五等から勲一等に一気に上昇し 「どんなチート技を使ったんだよ!」 とツッコミをうけるくらいの出世を遂げた。

これは "蝦夷の平定" が朝廷にとってどれほど重要なテーマであったかを示している。武勲というのはゆっくりじわじわ上昇するのではなく、あるとき一気にどどーんと積みあがる。ボーナスステージでコインを稼ぎまくるマリオのように、このときタケミカヅチは一気にスコアを上げたのであった。



 

■ 神宮の杜




さて拝殿を見た後は、奥宮を目指して杜の参道を行ってみよう。

ここは千年以上にわたってほぼ手つかずの森林が維持され、もうこれ以上は樹相が変化しない極相林の状態に至っている。ほぼ原生林にちかい杜(もり)で、樹齢がどのくらいになるのか不明な巨木が林立している。これは見事だ。




樹相は杉を除けば照葉樹林が大勢を占める。冬でも葉を落とさないため厳冬期でも青々としているのが特徴である。気候区分としては年間平均気温が15℃以上あると照葉樹林帯が多くなり、本州の太平洋側の平地では大雑把にいって北関東道路より南側がそれに該当している。

神社では一般に冬でも葉を落とさない樹種が好まれる傾向にあるが、鹿島神宮では何もしなくても自然のままで常緑樹が繁茂し、なおかつ長い年月をかけて保護されてきたので巨木が多い。




こういう景観が維持されたのは、あたりまえの話だが神宮が長く存続したからに他ならない。

実利一辺倒なら森林は開拓して田畑にしてしまったほうがよほど実入りが多く、実際に常陸国では神領以外の平野部は中世から近世にかけてほとんど開発され尽くしてしまった。この開発の誘惑に打ち勝つには、それなりの神威をもって "ここは手をつけるな" という意志が示されなければならない。

その点、鹿島神宮は祭神がタケミカヅチ=武神ということもあって、王朝時代が過ぎ去って武家の世(鎌倉時代以降)になってからも、源氏政権、北条政権、足利政権、豊臣政権、徳川政権等からそれなりの崇敬と保護を得た。千年を超える巨木の森の存在は、その間ずっと神域を維持できる程度の経済力と神領(封田含む)の不可侵が維持されたことを示している。(※戦国期には結構侵犯されているのだが秀吉、家康によってある程度の回復が図られ、江戸時代には大きめの旗本領並みの2000石ほどの封田があった)




俗っぽい言い方をすれば、王朝時代は平安貴族の代表である藤原氏(→元々は中臣氏)とのつながりが強くて保護されていたものが、貴族政治が衰退してからは武神という属性を活用して、その時々の有力武家政権を相手にしてスポンサーの乗り換えに成功してきたともいえる。

武士のステータスが上がってくるのは平安時代も中盤を過ぎた前九年の役(1051-1062)の頃以降であるから、乗り換えの萌芽はその頃からもにょもにょと伸び始めていたのかもしれない。



 

■ 武神=体育会系?




さてもともと神宮を管理していたのは、中臣氏の家系(のちに鹿島氏を名乗った)であった。そこに鎌倉幕府成立のとき(正確には源平合戦の最中)に源頼朝の命で大掾(だいじょう)氏(こちらも鹿島氏を名乗ったのでややこしいが出自は坂東平氏である)が神職の列に加わった。その肩書は鹿島社惣追捕使といい、神領内の警察権と裁判権を与えられて、事実上の乗っ取りに近い形であった。

※以外に思われるかもしれないが源平合戦といっても源氏側についた平家の一族は結構多い。ただしほとんどの家系は平氏の名を表に出さず、所領の土地名を名乗った。そんなわけで大掾氏の家系も鹿島氏を名乗った者が多い。

彼らは神宮西側を城塞として整備して鹿島城とし、鹿島神宮は要塞のような立地となった。現在の参道はこのときに城から伸びた通い道で、城内の接続路が現在の門前商店街になっている。

なお説明するのも野暮だが中臣氏は朝廷で権勢を誇っていた藤原氏の家系である。そこに頼朝がわざわざ大掾氏(鹿島氏)を突っ込んだのは、要害の地である鹿島神宮をとにかく都の貴族の勢力圏から切り離して "武家政権の影響下に置きたい" という意図があったのだろう。

…筆者が思うに、このとき神宮の性格はかなり体育会系的になったのではないかと推測している。




余談になるが日本の剣術には関東七流京八流という始祖的な流派があった。古いのは関東七流の方で、鹿島神宮の七人の神官が広めたとする伝説がある。口伝通りであれば律令以前の五世紀半ば(450年頃?)、まだ日本刀の誕生していない頃の剣術ということになるのだが、当時の直刀で日本刀的な剣さばきをするのは少々難しいところがあるので、少なくとも日本刀の原型が出来た平安中期以降…実態としては前九年の役の頃以降とみるのが妥当な気がする。

まあ創始時期の信憑性はともかく、日本の剣術はここから始まったことになっており、これがのちに鹿島古流(これは実在する流派)を生んだとされている。これは覚えておきたい事項だ。



余談の余談になってしまうが(笑)、戦国時代の有名な剣豪に塚原卜伝(つかはらぼくでん)がおり、彼の学んだ剣術がこの鹿島古流であった。…が、筆者的には剣術の系統よりも塚原卜伝が鹿島神宮の神官だったということのほうが興味深い。

彼は鹿島神宮で千日修行を行い悟りを開いて鹿島新當流なる流派を開いている(これは現在も続いている)。生涯で真剣試合19回、野戦(戦国時代だから)37回を経験して一度も刀傷を受けなかったというから実力は相当にあったのだろう。

※塚原卜伝は香取神宮に伝わる香取神道流も学んだとされている。




ともかく、奈良時代初期には鹿島神宮はまだ東方の一地方社という感じだったものが、蝦夷征服戦争を経て社格が上がり、中世になると名実ともに本物の戦うプリースト軍団になっていたのは凄い。

塚原卜伝は別格としても、この頃は神宮そのものが剣術道場のようになっていて、まるで中国武術で言う少林寺のような存在になっていた。その技の体系は、上古の時代にタケミカヅチ神から授かったとされる古武術 "鹿島の太刀" を原型に塚原卜伝の完成させた新當流に至ったとされ、戦国末期には今川義元、柳生十兵衛などにも一目置かれていたことが文献に残っている。

宮本武蔵はちょっとヒネた見方をしていて五輪書の中で 「鹿島の剣は芸を売り物のようにしている」 などと批判しているのだが、門下生が多くて人気があったことは認めている。…まあ、これは下積み修行の長かった武蔵のヤッカミみたいなものだろうか(^^;)




それにしても、こうして鹿島という土地柄をあらためて見直してみると、坂東=荒くれ者(坂東武士)の土地という認識が形成されていった背景というのが、なんとなく見えてくる。

坂東武士といえば鎌倉幕府という教科書的な認識は、間違ってはいないけれども結果論に過ぎない。蝦夷の征服戦争の頃の兵站基地=香取海周辺の成り立ちと鹿島神宮を眺めていくほうが、流れとしてはよほど素直にかつての関東地方の空気というのを感じられる気がする。


<つづく>