2016.02.15 常陸〜房総周遊記:九十九里浜〜鴨川編(その1)




前回のつづき〜(´・ω・`)ノ



さて2日目である。前回(1日目)は歴史探訪的な書き方だったけれども、今回は気分を変えて軽めのドライブ紀行として書いて行きたい。ルートはひたすら海岸沿いで、銚子から始まって九十九里浜を南下、房総丘陵に入って以降も磯伝いに南下して鴨川で菜の花を見られればラッキーというコースである。野島崎までルートが引っ張ってあるのは宿を野島崎に取ったからで、実質は鴨川までのレポートとなる。

今回はとにかく走る距離が長い。総計160kmほどもあるので、あまり一か所に長く留らずにどんどん流して行こう。そのぶん掘り下げ方は浅くなってしまうけれども、まあそこはそれ。エクストレイルT32で走る外房紀行という切り口で、ロードムービー的に行ってみたい。



 

■ 銚子港




そんなわけで、銚子で迎えた朝は…どんよりとした曇り空だった。
まあ雨が降っていないだけマシというものだろうか。

銚子に来た理由というのは、九十九里浜に向かう前に宿をとるのにちょうどよい距離感だから…というのが最大の理由で、付け加えるなら関東地方の東端=犬吠埼を見るのに近いから…というくらいの位置づけになる。

そういえば、もうひとつ銚子には "醤油の聖地" という側面もあった。しかし残念ながら筆者は醤油マニアではないので、その萌えどころというのがわからない。そしてわからない以上は、本日のタイトな日程の中で割く時間もないのである(^^;)




しかし、駅前通りの銚子漁港の地形図をみて筆者は少々認識を変えてみた。もちろん醤油についてではなく、港のありかたについてである。ここは古い時代の河口港の面影を残している。筆者はその様子を朝のうちに一目見ておきたいと思った。




河口港とは、防波堤をつくる技術のなかった古い時代に、海から河口に入って船を泊めた原始的な港の形式をいう。千年単位の時間軸でみると銚子は河口というより湾の出口(昔は香取海の出口にあたっていた)に発達した町なのだが、外洋の荒波を避けて港を設けたという点では成り立ちは一緒とみていい。

※土木工学の発達した近代になってからは、河口の外側に巨大な防波堤が設けられて港は大きく拡張されている。




その港を見るために、朝の散歩がてらに利根川河口を歩いてみた。

ここは銚子駅から利根川に向かう駅前道路の末端付近である。正面にみえるちょっとした広場のようなところが河岸公園で、ここからV字型に伸びた埠頭の内側が港になっている。駅と港が近接しているのは貨物輸送の利便のためで、鉄道(総武本線)が敷設された明治30年代は銚子港は河口内で完結していたのでこの位置に駅があった。(のちに800mほど延長されてもう少し東側に新生駅というのが作られた)




港には小型漁船がぎっしり泊まっており、なかなかに壮観である。銚子漁港は外洋側のほうが大型船、水深の浅い河口港のほうが小型船、と船のサイズで役割を分担している。お蔭で河口港のほうをみると、「板子一枚」 的な古い時代の雰囲気がほのかに残っている。




河口内には波はほとんどなく、池のような静かさだ。利根川は河口から100km遡っても標高差が10mに満たない平坦な川である。ゆえに水の流れもゆるやかで、川としての流下速度は人が徒歩で進む速度の1/10〜1/20しかない。ほとんど止水のようなものだから、船の停泊は非常にラクなのである。

※海に出る瞬間は水の流れが複雑になって操船のテクが必要になる…という人もいる




筆者的には、ここで漁船と愛車のツーショットを望みたかった。しかし岸壁沿いは一般車の乗り入れは禁止のようで、仕方がないのでこんな距離感で我慢(^^;) 

とりあえず、この港の風景を心に留めて、これから行く犬吠埼(→外洋側)との対比してみよう。





■ 銚子市街〜君ヶ浜




港を見たのちは、犬吠埼灯台を目指して市街地を抜けていく。正面に見えるのは観光名所とされる飯沼観音である。弘仁年間(810-824)の開基といい、昨日見た大洗磯前神社とほぼ同時期につくられている。筆者的にははやり建立意図にニヤニヤしたくなってくるスポットだ。

海面が高かった平安時代はここは香取海に面した小さな岬の突端であった。この飯沼観音から川口神社のあたりが、古い時代の港にあたっている。




それにしても…町割りが古いせいか、道路の交差具合がなかなかにカオスだ。こういうところを突っ切っていくには、やはり文明の利器=ナビの存在はありがたい(笑)



 

■ 犬吠埼灯台




市街地を抜けると犬吠埼がみえてくる。関東地方の東の突端である。筆者は突端を見ると極めたくなる性分なので(笑)、もちろんここはチェック予定に入っている。

…というか、銚子に来た人はだいたい必ずここに来るのである。なにしろ突端は人を惹きつける。何かが果てるを所を見届けたいというのはたぶん人類普遍の欲求のようなもので、それを持たない人というのは、虚無的な悟りを開いているか、心が死んでいるに違いない(…そんなオーバーな:笑)。




それはともかく、いざやってくると観光物産店はシャッターを降ろしていて、まるでゾンビ映画のセットみたいな重苦しい雰囲気が漂っていた。あれ…? おかしいな。ここは年中無休で、もうそろそろ営業時間(08:30〜)の筈なのだが。




入館受付に行くと、さすがにゾンビではなく人がいた(ぉぃ)。聞けば天候が悪いので開館するか閉館するかギリギリの状態らしくい。「下はともかく上に昇ると風がスゴイのですよ」 などと言っている。

…ということは、売店の方は早々に休業を決めてしまったということか。




しかし筆者の見るところ危険というほどのことでもない。あとでアメダスのデータを確認したらこの時間帯の銚子付近は北東の風10m/s前後であった。筆者の地元で風速20m/sの登山道を行くのに比べたら屁のようなものである。

そんなわけで、「風の息遣いを感じていればきっと大丈夫」 とか適当なことを嘯(うそぶ)きながらとりあえず入館。筆者に続いてもうあと3人ほど来客があったが、やはり入館してきた。おお、勇者たちよ…!(笑)



それにしても…目の前にどどーんと建つ灯台は、背景が曇天だとまるでホラー映画に出てくる呪われた古城みたいな雰囲気だな(^^;)




頂上に出てみると、うお…さすがに風が強い。しかし人が飛ばされるような風圧ではなく、せいぜいアートネイチャーな人に注意を喚起すれば充分であろう。

視界は広い。謳い文句にあった地球が丸く見えるというのはあながちウソではないようだ。波は…やはり、荒いな。今朝見てきた河口内の様子とは対照的で、翻って銚子港(河口内)がいかに船にとって安全なところなのかが理解できる。こういうのは理屈よりも五感で感じた方がわかりやすい。

※この海風と砕ける波の音が犬の遠吠えのように聞こえるというので犬吠埼というらしい。




灯台の北側に伸びる君ヶ浜に打ち寄せる波も荒かった。実のところ、この付近は水面下に岩礁が多く、船にとっては古くからの難所なのである。浜沿いにほとんど家がなく防風林ばかりが並んでいるところを見ても、人の居住環境としてあまりイケてる海岸ではないことが伺える。



晴れた穏やかな日であれば、この景色もまた違った印象で見えたにちがいない。白波の砕ける砂浜に松原といえば夏の情緒の定番ともいえるし、青空に白亜の塔…というのは、絵としても美しい。

しかし眺めて美しいことと住環境として適するかは別の話だ。銚子の町と港、そしてそこからわずか4kmばかりのこの犬吠埼の風景は、その対比をとてもわかりやすく示している。それをヴィジュアルに確認できたことは、筆者的には大きな収穫であった。



なお資料館も見学してみたのだが、こちらは紹介しはじめるとキリがないので省略。フレネルレンズとは…なんて書きだすと止まらなくなりそうだ(笑) このへんは、また機会があればいずれ。




■ 飯岡みなと公園




さてほとんどワンイシューで犬吠埼を堪能したのちは、R126をベースに飯岡を目指す。時間があればマリーナから屏風ヶ浦を見てみたかったところだが、今回はスルーしていく。(というか屏風ヶ浦の上面を走っていく訳だが ^^;)




飯岡には漁港があり、そこに隣接して公園がある。特にこれといって観光名所というわけではなさそうだけれども、犬吠埼から続く断崖=屏風ヶ浦がここで尽き、飯岡から先がいわゆる九十九里浜となるので、筆者はここを次なるチェックポイントにしてみた。…さて、この境界部分では何がみえるだろう。




犬吠埼灯台からおよそ15kmほどで、標識に九十九里の名前が出てくる。この九十九里とは自治体としての九十九里町(飯岡から約30km)で、広域的な浜の名称である九十九里浜とは別なのでちょっと注意が必要だ。この標識にある r30 が、これから進んでいく主要道路となる。




八木の阿弥陀院を過ぎて坂を下りたところで、R126 から r30 に折れると約1kmで公園に至る。隣接する飯岡漁港は銚子に次いで千葉県内2位に相当する大きな港といわれていたが、現在は勝浦が2位を名乗っているらしい。




公園はこんな感じのところであった。正式名称は "飯岡みなと公園" という。何か特別な観光施設があるわけではなく単に芝生の広場と休憩所があるのみだが、漁港と一体化しているのでぐるりと見渡すと非常に広く感じられる。




公園南端側に回ると絵にかいたようなウォーターフロントになっていた。夏の晴天時に来ると開放的ないい景色になりそうなところだな。

ちなみに写真奥側に見えている断崖が屏風ヶ浦の末端で、九十九里浜の砂はあの崖が波で削られて供給されている。崖端は過去800年で6kmほども後退しているそうで、かつてこの上にあった佐貫城(源義経の郎党片岡常春の居城)は既に海中に没して跡形もない。

現在飯岡の市街地が展開しているのはそうして作り出された砂浜の上で、海面の高かった平安時代には海底だったところである。公園〜漁港の部分は砂を浚渫して船の侵入する航路を確保しているようだが、驚くのは海面と路面の段差の低さで、ざっくり1mくらいしかない。これだと高潮がきたら簡単に海水をかぶってしまいそうだ。




公園内には津波が来たら高台に逃げるようにとの表記がいたるところにある。聞けば東日本大震災のとき飯岡は高さ7mほどの津波に襲われたそうで、しかしながら被害の大きかった東北地方の報道の大きさにかき消されて救援が後回しにされてしまったという苦い経験を持っている。飯岡港のある旭市では震災で死者14名行方不明者2名、家屋の全半壊1100棟という被害を受けたという。

※飯岡では津波が屏風ヶ浦の地形で増幅され、銚子の3倍あまりの高さで市街地に流れ込んだ。九十九里浜界隈では突出して被害が大きかったといわれる。




公園の周辺が妙に殺風景なのは、そんな次第で津波に流されてしまった後遺症らしい。漁船は70隻以上が失われたといい、港はあるのに船が見えないのはそのためなのかもしれない。震災からもう5年が経過したのに、まだこんなところが残っているのだな・・・

※多少の補足をすると、撮影時には船がほとんどいなかったけれども、漁協は現在も存続してイワシ漁と釣り船の営業が行われており、決して全滅している訳ではない(^^;)




公園内には、真冬であってもゲートボールをしている老人が居た。火砕流に焼き尽くされた大地に最初に地衣類(→開拓者)が侵入してやがて草原になり森林が再生していくように、震災後の公園には最初にゲートボール老人(→開拓者)が現れる。彼らがそこに居ることで他の人々も訪れるようになっていく…という法則が、少なくとも東北の被災地では普遍的に見られたのだが、ここもその途上にあるのだろうか。




…などと思いきや、見ればニット帽のあんちゃんズもいる。老人天国という訳でもないのだな。

考えてみれば今日は週が明けて月曜日であった。筆者は贅沢に有給休暇を使っているけれど、公園に人がいないのは単純に平日だからという気がしてきたぞ(^^;)



 

■ 万里の長城




さて飯岡みなと公園を訪れた目的のひとつに、ここから展開する九十九里浜の景観を見るというのがあった。そんな訳で堤防に登って見渡してみたのだが…なんだか波消しブロックとコンクリート壁がひたすら続いているばかりなので驚いた(´・ω・`)

これは震災復興事業で護岸工事をガンガンに進めた結果らしい。見た目は福島県の沿岸でも造られていた "平成の万里の長城" に似ている。公園から3kmくらいが津波の被害が特に大きかったところだそうで、集中的に工事が行われてガッツリと固められてしまったようだ。




これだと筆者の期待した九十九里浜とはずいぶん違ってしまっているわけだが…、なんとも思い切ったことをしたものである。とはいえコトが安全にかかわる事項だけに、部外者の立場で 「景観を優先して防災レベルを落としてください」 などとと言う訳にもいかない。




そうなると、海とクルマの写真を撮りたい筆者としては少々キビシイな…うーん( ̄▽ ̄;)




しかし悩んだところで仕方がない。…そんなときは、先に進もう。

津波の被害は南にいくほど少ないと聞いた。走るべきコースは、まだ9割ほども残っている。


<つづく>