2016.04.09 桜物語

     〜今は昔、ブリヂストン黒磯工場此処にありけり〜




桜と工場のお話です(´・ω・`)ノ



桜の季節になったので、花見の話などを書いてみたい。…が、毎度毎度同じような周遊レポートではつまらないし、前回の房総半島はちょっと長すぎた(笑)感もあるので、今回は一か所に絞って短稿としてまとめてみようかと思う。場所はJR那須塩原駅から南に約1kmの東那須野公園である。

この公園にはかつて隣接してブリヂストン黒磯工場があり、その沿線には見事な桜並木があった。しかしリーマンショック(2009)、超円高(2009-2012)、東日本大震災(2011)と立て続けにやってきた経済難の中、2013年に工場の閉鎖が発表され、今では桜並木はすべて伐採されて更地になっている。

筆者は同社の経営問題に口を挟む立場にはないのだけれど、この桜並木は子供のころから慣れ親しんでいたものなので、かつての情景を思い出しつつ、現在の公園を眺めてみるという趣向で書いてみようと思う。

※那須塩原市内にはこの黒磯工場の他に栃木工場、那須工場があり、黒磯工場は閉鎖されてしまったが他の2工場は現在も稼働している。また笹沼にはテストコースも稼働しており、あくまでも事業再編の中で1つの工場を閉めたものであることを予め述べておきたい(^^;)



 

■ 出発は那須塩原駅から




さてそんな訳でいつもの如く那須塩原駅から出発してみる。いきなり余談みたいな話で恐縮だけれども、この駅前には実は桜の木が一本もない。鉄道駅なら普通は一本くらいソメイヨシノがあって然るべきだと思うのだが、残念ながら駅舎のデザイナー氏には日本の心が少々不足していたようで、駅舎の正面玄関、ロータリー、そして駅前通りの街路樹を5kmほども遡っても一本もないのである。Goddam!これは何かが間違っているヽ(`◇´)ノ

※いや駅前の隠しアイテム=交番のエンブレムで我慢しろとか言うのは却下で(笑)




しかし駅裏(東口)に回るとささやかながら桜があった。この東口は那須塩原駅の前身=旧・東那須野駅(明治31年開業)の正面玄関にあたっていた。古い時代の意匠では、やはり公共交通機関の庭先には桜は欠くべからざるものであったことが伺える。

今は駐車場になっているあたり(桜並木がある)はかつては材木置き場で、昭和40年代くらいまでは製材所が隣接して林業の輸送基地の役割を果たしていた。巨大な新幹線駅になってしまった今では想像できないかもしれないけれど、その新幹線の開業(昭和57年)のほんの十年くらい前まで、材木を積み込んだ貨物列車がガッタンゴットンと出入りしていたのである。




いまでは材木商は店を畳んで久しく、かつての駅前商店街もすっかり衰退してしまっているけれども、古き良き時代の残照としての桜は、まだ幾分かの余命を保っている。日本の春の風景には、やはりこんな桜がよく似合う。




■ 東那須野公園




駅を出てからは、r53(通称:大田原街道)に乗ってものの5分ほどで東那須野公園に到着する。今回は遠出ではないのであっと言う間だ。




おお今年も花祭りの横断幕が上がっている。この東那須野公園は元は稲荷山公園という名で昭和57年(1982)に設置された。昭和57年といえば東北新幹線開業の年で、駅の近くに公園のひとつもないとまずかろうということで申し訳程度の散策路などが作られたらしい。ここにはそれまでは市職員の研修所が置かれていた(これは今でもある)。




しかしあまりにもぱっとしなさすぎであったので、のちに平成5年(1993)に東那須野公園としてリニューアルされ、さらに幾たびかの拡張を経て現在に至っている。

ただしそれでも当初はかな〜り地味な存在で、筆者もここに公園があるのを認識したのは2000年代に入ってからであった。花見の季節にカメラをもって走り回っているのに "気が付かない" というのは、よほどショボかったのではないだろうか…(笑)




現在では、この公園はかなり見栄えがするようになってきている。この日はちょうど水仙が満開になっていた。公式スペックによれば園内に12万本ほどの株が植えられており、桜は400本、さらにアジサイが2万本あるという。これらは周辺地区のボランティアによって植えられており、特に水仙は最近7〜8年ほどで急速に株数を増やしてほぼ倍増しているそうだ。




桜の開花状況は7〜8分咲きといったところだった。満開までにはもうあと1〜2日くらいほしい気もするが、写真映え的にはまあ問題はない。




桜と水仙の混植エリアではいい感じのコラボが見られた。水仙は花期が長いので梅〜桜の背景としていいアクセントになる。こういう風景は一般に桜+菜の花で構成されることが多いようだが、水仙でもいい感じにまとまってくれる。

よくみると以前はゴロゴロと残っていた立木の切り株が地味に除去されていて、ちゃんとメンテナンスされている。こういう日々の努力が公園を成長させていくのだなぁ…(´・ω・`)




桜の向こうに見えるのは那須連山である。いつもなら残雪が美しいはずなのだが、茶臼岳〜朝日岳には雪がほとんどみられない。聞けば茶臼岳のファミリースキー場などは3/6に早々とシーズンオフになったといい、やはり今冬は相当な暖冬であったようだ。




さて見晴らしの良い頂上に昇ってみよう。




公園最上部から南側を見下ろすと、広大な更地が見えた。ここがかつてブリヂストン黒磯工場のあったところである。東西600m、南北1kmの広大な敷地に、自動車タイヤのスチールコードを生産する工場建屋群が並んでいた。それがあっけなく閉鎖となってしまったのは2013年のことだった。…ここで、その話をすこし書いてみたい。



 

■ かつての工場と桜並木




さて昔の写真を引っ張りだしてみようと思ったのだが、意外に工場の写真は残っていない。いつも桜や水仙を撮ろうとして余計な背景をフレームアウトさせていたので、その弊害が出たらしい(^^;) そんな数少ない偶然ショットの中からなんとか1枚を拾い出したのがこれ(↑)だ。

黒磯工場で生産していたスチールコードは、タイヤのゴムに埋め込む鉄筋みたいなもので、鋼材を細く絞って伸ばしてつくる。設備も製品も重量物であるから工場は2階建てにはできず、平屋で横に長かった。この点は軽薄短小の代表選手みたいな半導体工場が "縦長のビル型" になりやすいのと対照的である。




工場が稼働していた頃、幹線道路であるr53沿いに桜並木があった。ブリヂストン黒磯工場は昭和46年(1971)に稼働開始し、ソメイヨシノが並木として植えられていた。ソメイヨシノの若木は成長が早く、10年もすると立派な桜並木となって沿道を華やかに飾った。




これは2006年の状況である。那須塩原駅から大田原方面に走るとこの風景がみえた。右奥に見える白い花はコブシ(モクレンの仲間)で、桜より5日ほど前倒しで咲きはじめ、桜とともに春を告げる風物詩となっていた。

工場側の並木は二重になっており、内側が樅(モミ)の木とポプラの混植、道路沿いが桜であった。常緑樹の樅の木は工場内部が道路から見えないようにする目隠し用と防風林を兼ねていた。ちなみに工場の建った昭和40年代は公害問題のピークの頃で、なるべく工場建屋を外から見えないよう並木をバリケード状に植えるのが流行(※)であったらしい。

※最近は "隠す" のではなく、ハイテク感を演出して正面玄関前に近代的な建屋をドンと建てて工場の "顔" にするのが流行なのだとか…うーむ(^^;)




この沿道の並木があまりに見事であったため、隣接する東那須野公園は当初はさっぱりインパクトがなく、話題にも上らなかった。那須塩原駅周辺の住民は r53 を通って大田原に出かける途中でここを通り 「おお桜の季節になったか」 と感心して、東那須野公園はスルーし、乃木神社、城山、美原公園、烏ヶ森公園、黒磯公園、千本松牧場などを訪れる…というのが定番だったのである(^^;)

東那須野公園の桜がぼちぼち綺麗だと言われだしたのは2000年代に入ってからであったように思う。すくなくとも筆者の周辺ではそんな感じであった。




 ■ 解体されていく工場




さて工場の閉鎖が発表されたのは2013年の10/17のことだった。従業員への発表と那須塩原市役所への伝達、報道資料の公開は同時であった。

こういう情報は株価に影響を与えるので一般に発表のタイミングは厳密に管理される。事前の予告は無く、市役所に工場長が報告に訪れたとき当時の阿久津市長は会議中で面会できず、伝言にて事実関係を知った。急遽開かれた記者会見で市長の第一声が 「税収が…」 だったことについては、気持ちは分からなくもないけれども 「まずは市民の雇用を心配してくれ」 と素朴なツッコミを入れておきたい(^^;)




閉鎖の理由は民主党政権時代の超円高の放置+リーマンショック+東日本大震災のトリプル攻撃で採算性が極度に悪化したことで、国内で2拠点あったスチールコード工場を、規模の大きな佐賀に集約するというものであった。

2013年というと既に民主党政権は倒れて安倍政権になり、株価は爆揚げしていた頃にあたるが、同社の経営陣は再編を推し進める方向で決断をしたらしい。当時の黒磯工場には355名ほどが在籍していた。家族まで含めると1000名前後が人生の岐路に立たされたのではないだろうか。

※このあたりについては筆者は部外者なので論評をする立場にはない。ただリーマンショックで似たような境遇を経験しているので、大変だろうな…とは思う。




さて市側としては閉鎖の通告を受けてすんなりと 「ハイわかりました」 とは行かなかったようで、いろいろと善後策の協議が行われたようである。しかしブリヂストン側はスチールコード事業を佐賀工場に集約する方針を既に決めており、従業員の転換は粛々と進んだらしい。

やがて電撃的な新聞報道から半年がたち、2014年の春がやってきて、桜はまた何事もなかったかのように咲いた。これ(↑)は4/12の様子である。見事な満開であった。




しかし桜吹雪が散ると、ゴールデンウィークの始まる前に一斉に伐採が始まり、一本残らずすべての並木が切り倒されてしまった。筆者は建物は撤去しても並木は残るのではないかと思っていたので、これには驚いた。

…それと同時に、「これほど明確な意思表示もないだろう」 とも思ってみた。工場閉鎖は、新聞発表によると9月を予定している…と書いてあった。時間軸上ではまだ5ヶ月あるはずだが、しかし時計の針は加速しているようであった。




余談になるけれども、仏教用語に "引導を渡す" というのがある。時代劇で悪役が 「殺すぞ」 という意味で使うこともあるけれども、本来の意味は 「死者に "自分が死んだ" ことを理解させ、成仏するよう導く」 という僧侶の働きをいう。




筆者は会社組織のエライ人が得度僧と同等とはさすがに思わないけれども(^^;)、従業員と周辺の関係者に対する意思表示と言う点では、非常に明確なものが示されたな…と受け取った。先行きの見えない混沌に陥ったとき、人はなんとかして希望を見出そうとし、現状に執着する。それを断ち切るには、わかりやすい方法で "ここで終わりだ" というのを示さなければならない。

…それが、ここでは真っ先に桜並木を切って見せることであったように筆者には思えたのである。




切られた桜は、根株まで掘り起こされて完全に取り除かれるようであった。もちろんモミの木やポプラ並木も、比喩ではなく本当に "根こそぎ" 撤去されていた。 なおこの時点では建物はまだ残っており、いくらか人の出入りもあるようであった。




やがて6月になると建物の解体が進み始めた。並木が無くなったことで、誰の目にもはっきりと何が行われているのかがわかる。まるで小町九相図を3Dで見ているようなもので、閉鎖といっても単に操業を停止しますというレベルではなかった訳だ。




梅雨に入り工場敷地内は雑草で埋もれはじめていた。




そして9月。建物がひとつ消失するたびに、すぐさま雑草に埋もれ、まるで草原のようになっていく工場敷地。




11月になると建物はすべて撤去され、残ったアスファルトやコンクリートを剥がす工事がゆるゆると進むのみとなった。水道管や排水設備なども撤去されたようだ。




年が明けて、2015年4月。アスファルトも完全に撤去されて、見事なまでの更地になってしまった。




この時点で、もうここにかつて巨大な工場と桜並木があったということを示すものはない。




 

■ それからどうなった?




それからどうなったかというと、表面上の動きはあまりなく、ときどき不動産屋のような人が来てクルマを乗り入れているのを見かけるくらいだった。これ(↑)は2015年7月の様子である。この頃、土と砂利がいくらか盛られて均しが入った。




ちなみに解体前の同じ場所の写真がこれである。変われば変わったり。諸行は無常だな。




そしてさらに時は流れ、2016年4月。時系列は今に戻る。この間、何が変わったかと言えば…




看板が立った。…ようやく、更地の使い道が決まったらしい。

…それにしてもNTTで太陽光ねぇ。あんまり新規雇用を生みそうな感じはしないけれど、しかし怪しげな業者が入り込んで産廃処分場になったり、 いつのまにか北朝鮮やら人民解放軍のスパイ拠点(!!)になっていたりするよりはマシな未来図のような気がする(^^;)




■並木の無い風景のエピローグ




さてそんな次第で今回のレポートはこのあたりで締めくくりたいと思う。

斯くして40年以上稼働した大型工場は綺麗に消失し、中の人はみな去って行った。工場に遅れること12年あまりで整備され始めた隣の公園は、最初は地味だったけれどもいつのまにか桜の木が大きくなり、工場の並木がなくなった穴を埋めて今年も咲いている。




工場が更地になったお蔭で、東那須野公園の様子は今では r53(大田原街道)側から良く見通せる。かつてはブリヂストン社員しか見ることのできなかった風景だが、並木のバリケードがなくなってフルオープンになった。




これがその風景である。…この距離感でみると結構面白いな。

ただ手前の敷地は間もなくソーラー発電所になる予定であり、やがて太陽電池パネルが大量に並んで、エネルギー施設であるからには厳重にフェンスで囲まれてしまうような気がする。こんなオープンでフリーダムな状態は、そう長くは続かないだろう。




だから筆者は、この日この写真を撮った。諸行無常というのであれば、この風景もまた変わりゆく途上の一瞬。それを残しておきたいと思ったのである。

今は昔、ブリヂストン黒磯工場此処にありけり。

…昔話ならこんな語り口になるのにちがいない春の風景は、あかるい陽光のもとで、静かに、穏やかに広がっていた。花見の客はぼちぼち駐車場を満杯にしつつある。皆それぞれに、何を想ってこの風景をみるのだろう…と、筆者は思ってみた。


<完>




■ あとがき


えー、1ページしかないのにあとがきというのも妙な話ですが、ブリヂストン黒磯工場は筆者が若かりし頃に就活で面接を受けに行ったこともあるので(工場内もちょこっと見学しています ^^;)、あまり他人事じゃない気がして書いてみました。

さてレポート内では "引導" にからめて色々書いてみましたが、まあ会社の都合で転勤というのはサラリーマンにはよくあることで、中の人は案外サバサバと落ち着くところに落ち着いているのではないかと思っています。この工場は何度か合弁会社の形態をとっていて、かつてはブリジストンベカルトとかメタルファという名称だったこともあります。組織変更は今までも何度か経験しているので、きっと中の人もたくましくよろしくやっていけることでしょう。…まあ、とにかく頑張れ(^^;)




それにしても工場がひとつ無くなるというのは結構なインパクトがあります。ここは旅と写真のサイトなので主に桜風景という切り口で今回の件を捉えていますが、筆者にとっては子供のころから慣れ親しんでいた桜並木がいきなり全部伐採されたのは実のところ少々ショッキングでした。公園側の桜が残ってくれたことで桜スポットの完全消滅にならなかったことがせめてもの救いだったような気がしますが、「敷地を更地にする」 というのは斯くも凄まじいものなのかと驚くばかりです。

ただ伐採のタイミングが4月後半であり、最後の開花の期間中は猶予されていたことを思うと、工事計画を立てた人にもいくらか風流の心はあったのだろうと思われます。最後の桜並木の一華は2014年4月12日頃に満開を迎え、それから一週間ほど桜吹雪が舞い、4/20頃には伐採が始まって、GWが始まる前にはあらかた切り倒されてしまいました。まさに "花と散る" 最後であったといえましょう。




さて斯くしてブリヂストン黒磯工場は消滅したわけですが、東那須野公園のなかには今でもささやかなる "存在の痕跡" が残っています。同社の有志が公園の一角に水仙を植える活動をしており、工場の名称が刻まれていました。

歴史上の英雄豪傑であれば死して顕彰碑のひとつも建つのでしょう、しかし一私企業にそれはありません。残るのはこういった奉仕活動で地域と関わった痕跡になります。世間一般の人から見える企業の顔というのは、本業ではなく圧倒的にこういう部分です。

そういえば、比較するのもちょっとアレですが万葉歌人の大伴家持なども似たようなところがありますね。彼の本業は軍事貴族で、武装して戦争に出ていくのが任務だったのですが、後世に残っているのは片手間に詠んだ和歌ばかりです(^^;)。少々禅問答的な物言いになりますけれども、人々の記憶に残るのは、人々の記憶に残ることのみです。いずれにしても世を去った本人にはどうすることもできません。生前の行いが、死後になって世間の井戸端フィルターにかけられ、ある意味では閻魔大王の裁きみたいなプロセスを経て普遍化していきます。

…さて。そういう意味ではブリヂストン黒磯工場は、何を残したのでしょう。

とりあえず筆者は、桜並木の写真を撮りましたけれども(^^;) 


<おしまい>