2016.10.22 紅葉の田代山林道を行く(その4)




■ 林道の後半部を行く




さて林道の後半(というかもう終盤なのだが ^^;)は、稜線の湯西川側に移って田代峠へと抜けていく。このあたりは路面標高が1500mを超え、日光の戦場ヶ原(1400m)や日塩もみじライン(1200m)よりも高所になる。ちなみに田代峠の標高は1586mあり、那須の姥ヶ平とほぼ等しい。




この付近から眺める山々は、真っ赤に染まっている。

稜線部に高木がなく笹原になっているところをみると、やはり風当たりは相当に強いようだ。林道が稜線の最高点ではなくやや低めの部分に作られた理由が、ここからなんとなく伺える。以前走った草津白根山などでは山容がなだらかで稜線の上に道路が通されていたけれども、ここでは風あたりを避けて安全性が優先されたのだろう。




その稜線部を望遠300oでいっぱいに捉えてみた。笹と岳樺(ダケカンバ)で覆われた、亜高山帯の風景がみえる。植物学ではこういう山頂特有の厳しい環境の影響、つまり樹木が低木化したり、あるいは成長できずに頭頂ハゲのようになることを "山頂効果" などと言うらしい。




余談になるが本来こういうところには針葉樹林帯ができる・・・というのが世界的な傾向だという。

しかし日本では緯度の割に山岳部の積雪量が多く、雪に弱い針葉樹帯はなかなか形成されなかった。おかげでドウダン、カエデ、ダケカンバ等の落葉広葉樹が森林限界付近まで低木化しながら分布することになり、その結果として、起伏に富んだ山岳地形+極彩色の紅葉という景観がつくられたと言われる。面白い話だ。



やがて林道は県境の鞍部に差し掛かり、大きく右折していく。




その先にあるのが、田代峠である。




峠に至る直前に、山神の碑があった。建立年の記載はないが比較的新しく、おそらくは林道工事の安全を祈願したもののように思える。近代土木にあっても、こういう信仰は生きているのだな。




■ 田代峠




・・・ということで、ようやく峠に到着♪ヽ(´ー`)ノ 




実はこの先には峠を越えたところに田代山に登る登山口がある。この山のてっぺんには広大な湿原があって、田代山林道はここに栃木県側からアクセスするルートなのである。




観光ポスターでみる田代山湿原は、まるで神様が趣味で作ったんじゃないかと思われるような絶景ポイントになっている。開山は明治45年(1912)と遅く、近世までその存在をほとんど知られなかった。当初のアプローチは舘岩(福島県側)から行われ、栃木県側から林道がリーチしたのは戦後になってからと思われる(※)。

・・・などと書くと行きたくなるのが人情だが、今回はこの湿原までは登らない。ここは平面地図でみると登山口から湿原まで2kmくらいで楽勝コースのように見えるけれども、標高差が約550mあって登るにはたっぷり2時間ほどを要する。本日はもうすでに午後になってしまっているので、トライするには遅すぎるのだ。

※思われる・・・と曖昧にしか書けないのは筆者のにわか調査ではその開通の時期を特定できなかったため(^^;) 県道に昇格したのは2001年と新しいのだが、それ以前の状況がよくわからない。筆者の大学の大先輩が80年代に通ったことがあると言っていたので、そのころには何らかの道路が通じていたことはわかっている。




そんなわけで、ひとまず峠から湯西川側の山々を眺めて 「目標に到達したぞ宣言」 をすることにしよう。栃木県側はガスっていてそれほどクリアな視界ではなかったけれど、紅葉の色づき具合としてはまあベストに近いのではないかと思う。




さてせっかくなので周辺をぐるりと見渡してみよう。栃木〜福島の境界線となってる尾根部分は、いわゆる山頂効果で植生がやや異なり、笹とダケカンバが中心となっている。ここはもう落葉していて、脊梁山脈の峠の環境の厳しさのようなものが伺えた。




しかしそこから福島県側に目を転じると、色づき具合は良好である。県境付近の尾根は標高1600〜1700mのピークの連続体で環境が厳しいけれども、周辺の山々は一段低いのでまだ紅葉バンドの中にある。"見降ろす" タイプの紅葉としては、このくらいの頃合いで眺めるのが丁度よいみたいだ。




■ 余談としての栗山村山林史




さて目的地には到達したことだしこれで終わりにしても良いのだけれど、湯西川温泉でいくらか昔の話を聞いたので、それを短く書き残してからレポートを締めくくりたい。

話とは、どうして田代山林道の周辺がほとんど手つかずの原生林のまま保存されているのかという理由についてだ。




さきほどもちょこっと触れた内容でもあり、長く引っ張っても良いことは何もないので、結論から書いてしまおう。

まず田代山林道の西側は、明治維新後に旧日光山領から国有林に編入され、私有地が存在しないために無垢のまま残ったものである。勝道上人による日光開山以来1200年以上に渡って、ここは個人の所有になったことが一度もない。

林道の東側もやはり日光山領であった。ただしこちらは神領を支えていた湯西川村が共有山林として管理しており、明治維新後は周辺9ヶ村が合併して栗山村が成立したのでその村有林となった。その後は平成の大合併で新・日光市が成立しているので、大規模な土地買収などがなければそのまま日光市有林になっているはずである(現在の地籍までは未調査 ^^;)。




観光化する以前の湯西川はいわゆる杣人(そまびと)の世界で、農業生産は無く、木工と狩猟が生業(なりわい)であった。広大な山林を背景とした生活は農業のような区画割の土地所有とは馴染まなかったようで、個人所有が認められたのは住宅地周辺に限られ、山は共同管理の時代が長く続いた。

このうち比較的集落に近いエリアは杉や檜などが植林されて里山化し、ツギハギのパッチワークのような状態になっている。しかし田代山林道の周辺は集落からは遠すぎ、山も険しかったので人の手はほとんど及ばなかった。おかげで無垢にちかい樹相が保たれたのである。林道の越境部分=田代山峠から見える栃木県側の景観は、この旧栗山村林の最奥部にあたっている。

※写真は 「平家の里」 の民俗資料




日本の山林は、特に安土桃山〜江戸時代初期の人口爆発の時代に過剰な伐採が進み、至る所が禿山だらけ・・・という時代を経て、寛文年間に徳川幕府が植林を奨励(※)した頃から回復した歴史をもつ。

そのときから特に人里にちかい里山は経済性の高い樹種が植えられてツギハギ林になっていき、無垢の原生林はよほどの山奥でないと見られなくなった。植林というと戦後の緑化事業を思い浮かべる人が多いかもしれないけれども、案外古い時代から行われており、紅葉の美しい "原初の森" はその過程で広範に失われてしまったのである。

※寛文六年(1666)に徳川幕府が発した "諸国山川掟" が全国規模の森林保護政策の奔りとなっている。植林された樹種はスギ、ヒノキが多い。




だからここで見られるような、人の手の入っていない紅葉の山々は実はとても貴重なのである。



秘境として有名な湯西川温泉の周辺でさえ、実は結構な面積が里山化しているのは前掲のMAPの通りで、古くから信仰の山(日光もそのうちの一つではあるが ^^;)であったところとか、よほどの深山で人手が及ばなかったところくらいでしか原初の森は残っていない。




それを思うと、林道はあってもあまり派手な観光プロモーションのされていないこの山々のありようは、今くらいの状態でちょうど良いのではないかと思えてくる。

ここは峠の向こう側=南会津の領域もひろく国有林となっていて、田代山から西側が尾瀬国立公園、その他の県境の山々も林野庁の定める緑の回廊あるいは森林生態保護地域として開発が抑制されている。おそらくそれは正しい判断で、筆者的にもこのまま静かに Let it be の方針で置いておくのがよいのだろうな・・・と思ってみた。




そのまま、ゆったりと木々を眺めて小一時間ほど過ごしてみた。

ほぼ無風の、鳥の声さえ聞こえない静かな時間。ときどき思い出したように風が峠を越えていくけれども、すぐにまた静寂が戻ってくる。田代峠は、そんなところだ。

もうあと一月もすれば、雪が舞って道路は閉鎖されてしまう。限られた期間、わずかな人数しか到達できない峠道・・・こんな時代に取り残されたような風景が、いまも存在していることを少しばかり嬉しく思ってみた。



 

■ 帰路




さて帰路は、あっさりと引き返してしまったので実は大した写真がない(ぉぃ ^^;) そこで先週南会津側に抜けて前沢を経由して戻った時の蕎麦屋の写真などを載せてみよう。なんでそんな写真があるんだよといえば、実は先週も筆者は来ていたのである。



先週(↑)は空気が澄んでいて最高の撮影コンディションだった。しかし紅葉が綺麗なのは林道の通っている尾根筋の標高部分のみで、遠景の中心となる300〜500mほど低い斜面ではまだ色づきが進んでいなかった。それで今回は一週間ほど紅葉を熟成(?)させてリトライしたのである。

そんな訳で本稿を書くにあたっては二度手間みたいになってしまった訳だが、筆者はそれはそれで有意義だったと思っている。峠の標高の色づきから一週間で、今回見たような見渡す限りの錦色が見られるという "相場観" が得られたからだ。

こうやって、予測の精度が上がっていくのは面白い。

来年はもう少し、要領よく・・・しかし良すぎない程度に(笑)、再訪してみたい ヽ(´ー`)ノ


<完>




 

■ あとがき


相変わらず話があっちこっちに飛びながらのレポートになってしまいましたが、途中は四捨五入するとして、湯西川の奥地ってナカナカに綺麗なところだな〜というのが今回の筆者の総合的なな感想です。いろは坂や那須街道で渋滞をかいくぐって無理をするくらいなら、こういうところでゆったりと秋を満喫した方がよほど精神的な健康に良いのではないでしょうか。(ただし峠には買い物スポットも休憩施設もありませんけどね ^^;)




ただしこれだけ素晴らしい風景がありながら、最近傍の観光地である湯西川温泉では現在、沢口集落より上流側には観光客を誘導していません。落石が多かったり、不定期に通行止めになったり、道が狭くて通りにくい…等々、いろいろ理由はあるのかもしれませんが、いまのところは自前の足があって "自己責任" という言葉を理解できる人のみが、こっそりと足を延ばしている…といったところでしょうか。公共交通機関主体で温泉街を訪れる観光客のみなさんには、残念ながらリーチする手段はありません。

クルマで行く場合は、いざという時に写真(↑)のような道幅のところを待避所(数百m毎にすれ違うことのできる場所がある)まで後退できる程度の運転スキルが必要です。バイクでトライする人が多いのには、こんな背景がある・・・ということは理解しておきたいところです。




ところで今回、筆者は何と自転車(!!)で標高1500mの尾根道を越えて行く方に遭遇しました。最近では那須〜塩原方面でも、こういうMTB系な人が増えた感があります。筆者も若いころは自転車で山にアタックしたことはありましたが 「文明の利器を使った方が楽!」 と悟りを開いて今に至ります。

・・・それにしても自転車で山に向かう人の脚力って、スゴイですね(^^;)




あとがきのさらに余談:ノーベル賞と紅葉の話




さてついでにもうひとつ。いいかげんにしろよとか言われそうですが(笑)
これは 「面白いな」 と思いながらも理屈っぽいので本編ではカットしてしまった余談です。

紅葉のプロセスの中で、葉緑素(クロロフィル)が分解する過程は、なんと今年ノーベル生理学賞を受賞した大隅教授(東工大)のテーマであるオートファジーで説明できるそうです。オートファジーとは細胞が内部で自分自身を構成するタンパク質を分解する仕組みのことを言い、日本語では 「自食」 という用語を当てます。

※写真は 光合成研究18(3) p89-94 葉緑体タンパク質の分解とオートファジー(東北大大学院 石田宏幸,和田慎也,2008) の一部。研究には大隅教授も協力している。

ここは科学サイトではないので詳細は思い切り省略しますけれども、論文によれば葉緑素も一種のタンパク質であり、寿命がくると細胞内で膜につつまれて酵素によってアミノ酸レベルにまで分解されます。これによって葉の緑色が消失し、もともと葉に含まれていた黄色の成分(カロテン)が見えてきて "黄葉" となるのですね。さらに葉内部に蓄積された糖分を材料にして、赤色色素(アントシアニン)が合成されると "紅葉" が促進されていきます。

葉緑素の分解も赤色色素の合成も、その主役は酵素です。その働きが始まるトリガーのひとつに温度があるわけですが、同じ温度環境にあっても樹種によってその活性具合は異なります。これが、様々な色味の混ざった紅葉の森が出来上がる基本原理・・・この日、筆者の見た風景そのものです。



調べてみて 「へぇ〜」 と驚いたことに、オートファジーの研究では酵母のほか小麦やイズナを使った実験がよく行われていて、その基礎的な研究テーマのひとつに葉の老化=葉緑素の分解があるのだそうです。オートファジーの舞台となる細胞内液胞の振る舞いを解明するのにちょうどよい観察対象なのだとか。

ノーベル賞のニュースが駆け巡ったとき、どの新聞もTV局も "医薬品開発のネタ" みたいな切り口の話ばかりしていて、紅葉とむすびつけた酔狂なメディアはありませんでした。 そんなプロセスが分かったところで何かが爆売れしてどこかの企業の株価が上がるわけではないから・・・かもしれませんが(^^;)、しかしそれではちょっと寂しい。

筆者は、綺麗な紅葉を見たい・・・というただそれだけの理由で、この葉緑素の分解を研究している研究者氏にエールを送りたいと思います(お金を出す余力はないので念力だけ:笑)。将来的に、「黄葉の綺麗に色づく条件とは」 みたいな形で知見がまとまるとありがたいな・・・などとゆる〜く期待したいと思います。

・・・ということで、またもや話が拡散していきそうなので、このあたりで〆ましょう♪ ヽ(´ー`)ノ


<おしまい>