2017.01.01 初詣:木幡神社

〜坂上田村麻呂伝説の背景に関する一考察〜(その1)




初詣に行って参りました(´・ω・`)ノ



さて今年は矢板市にある木幡神社に初詣に出かけてみたのでレポートしてみたい。 ここは県内最古級の神社のひとつで1200年あまりの歴史をもち、塩谷郡の惣社となっている。 創建は坂上田村麻呂によると伝えられ、朝廷による蝦夷支配の総仕上げの時期に建立された記念碑的な意味合いをもつ神社である。

ちなみに惣社とは律令の神様ランキングで郡内を代表している神社のことをいう。 時代を遡れば律令の黎明期、朝廷から派遣された役人は赴任地の主要な神社を一社ずつ訪れて参拝するのが習わしであった。 それが時代を経るとだんだんテキトーな扱いになり 「とりあえず代表的な一社に参拝すればOK」 という程度にまで簡略化された。 そうやって成立したのが惣社である。

源平争乱を経て武家の時代になってからは朝廷の役人が都から下向してくることもなくなり、惣社は単に地域で最も有力な神社、くらいの意味になった。木幡神社は律令制が崩壊したのちは鎌倉御家人の塩谷氏、次いで宇都宮氏の版図となり、やがて日光山の傘下に入って近世を迎えている。

その間にはお伊勢信仰が入り混じって太太神楽が奉納されるようになり、筆者は2013年にはその切り口でレポートを書いているのだが、今回はそれとはすこし趣向を変えて神社創建の頃にスポットを当て、坂上田村麻呂の周辺に思いを馳せつつ書いてみたい。




■ そんなわけで出発




さてそれでは出発してみよう。

TVのお天気キャスター氏によれば今冬の気象は暖冬気味に推移しているそうで、おかげで "そこそこ氷点下ではあるのだが雪は積もらない" という程度の大晦日になっている。風はなく、曇り基調で月明かりもなく、田園地帯には静かな闇が広がっている。

そんな中を、少し余裕をみてPM10:30過ぎ頃にゆるゆると自宅を出て、矢板の丘陵地帯を目指してみた。




途中立ち寄ったコンビニで缶コーヒーを購入しつつ、バイトのあんちゃんに 「年越し出勤だと特別手当が出たりするの?」 などと聞いてみると

「いつもと変わらんですヨ、手当なんて何も出ないデス〜」

だそうで、実に世知辛い。ファミレスですら\1000くらいの年越し手当が出るというのに、末端のバイトは厳しいなぁ・・・(´・ω・`)




■ 木幡神社へ




さてそれはともかく、ゆるゆると暗い夜道を進んで神社に到着したのは23時過ぎであった。

木幡神社は喜連川丘陵に囲まれた矢板盆地のほぼ中央にある長さ200m、幅70mほどの分離丘陵の上に鎮座する古社である。

分離丘陵とは地質スケールの長い時間をかけて大地が風雨で浸食されていったとき、硬くて削られなかった部分が丘として残ったものをいう。日本の古い自然信仰ではこういう高台には神様が宿ると考えられており、しばしば鎮守の社が祀られた。ここもそのひとつである。




気温は氷点下2℃。ひんやりとした空気が漂う中、鳥居が照明に浮かび上がっていた。周辺が住宅地ということもあり、ぼちぼち気の早い人が集まってきている。




今回はあまり長く引っ張るつもりはないのでさっそく境内に上がってみよう。重要文化財の楼門をくぐると、拝殿兼神楽殿が見えてくる。




拝殿前には茅の輪が作られていた。参拝前にここをぐるぐると回れ・・・ということらしいが、まだ人の列はない。




ではちょこまかと出入りしていた人は何かというと、どうやら神社の関係者らしく、一杯やりつつワイワイと歓談中のようであった。この神社の氏子衆は伝統芸能である太々神楽を通じてしっかりと組織されていて、楽しそうな飲みっぷりをみるかぎり人間関係も良好そうにみえる。このQDNな時代に、たいへん結構なことだと思う。




筆者は火にあたりつつ、ゆるりと新年が明けるまで待つことにする。




・・・ということで、この間に神社の縁起と坂上田村麻呂についていくらか書いてみることにしたい。ただ最近は毎度毎度レポートが長くなりすぎなので(笑)、多少は反省してなるべく簡潔にまとめてみよう。



 

■ 縁起は坂上田村麻呂の東北遠征に遡る




さてこの木幡神社はおよそ1200年前に坂上田村麻呂が蝦夷成敗に赴いた際に、京都の宇治にあった許波多(こはた)神社(※)を勧請して建立されたと伝えられる。許波多神社は皇室の荘園であった木幡荘に藤原(中臣)鎌足が建立した古社で、壬申の乱のときに大海人皇子(後の天武天皇)が戦勝祈願して勝利を得たため戦神としての信仰を集めていた。

坂上田村麻呂もまたこの故事に倣って宇治の許波多神社に戦勝祈願してから蝦夷地に向かって出立しており、宿営地にほどちかい塩谷のこの小丘陵に、そのお裾分けとして分社を建立した。伝承によれば延暦十四年(795)、畿内で新時代の始まり=平安京遷都のあった翌年のこととされる。

※当時は万葉仮名の時代で呉音/漢音をベースに発音の似た漢字を当てはめており、同音異字の表記が幾通りもあった。よって "許波多" と "木幡" の字の違いにあまり深い意味はない。なお現在では木幡は "きばた" と読まれている。




当時の主要な街道であった東山道と塩谷郡、木幡神社、そして白河関の位置関係はこんな感じ(↑)になる。遠征軍の宿営地には地理的に那須官衙が充てられたと見るのが自然だろう。ただし木幡神社にほどちかい矢板市片岡に塩谷郡衙跡ではないかとみられる遺跡があり、こちらに分隊もしくは偵察隊が立ち寄っている可能性は無きにしもあらず・・・といったところだろうか。

木幡神社のある矢板盆地はのちに川崎塩谷氏が城を置いたところで、古くから人の居住があった。現在では峰村(木幡地区の旧名)という集落名だけが伝わっているけれども、水田の開きやすい地勢のところであり、ローカルにそこそこ有力な豪族が根を張っていたらしい。




ところで坂上田村麻呂は征夷大将軍などという大層な肩書をもっていたけれども、大剣を振り回してバッタバッタと敵をなぎ倒すような猛将ではなかったらしい。基本的には陸奥守として蝦夷地を治める国司の立場にあり、そのうえで陸奥按察使、鎮守府将軍、そして征夷大将軍を兼ねていた。僻地の勤務なので現地判断で戦闘や交渉ごとを進める権限は持っていたが、基本的に戦士というより行政官吏である。

ちなみに律令に定める陸奥守の職務には "饗給" や "慰撫" というのがあり、友好的な蝦夷を宴に招いたり物品を与えて恭順させることも仕事の内であった。その延長線上で、大きな軍事行動の前後には戦勝祈願を名目に補給線周辺の豪族宅に挨拶回りを行い、治安状況や友好関係の再確認くらいはしたであろう。やたらあちこちに戦勝祈願の痕跡があるのは、おそらくそういうことなのだろうと筆者は推測している。

※写真は志波城古代公園展示館の坂上田村麻呂像(複製)




そういう活動の痕跡を示すかのように、栃木県内には田村麻呂の往復したと思われる東山道の周辺に同じような開基伝承をもつ神社仏閣が点々と続いている。いずれも東山道から20km圏内くらいの距離感で、北に行くほど密になり、もちろん白河以北にも続いている。




さらに北上すると陸奥国、出羽国の北辺領域まで同様の神社群が分布している。特に多いのは奥六郡を中心とした北上〜秋田の付近で、蝦夷と朝廷軍が最後に対峙した北上盆地が一番濃密な分布を示す。

これらの寺社群は蝦夷征服戦争が一応の終結を見た延暦年間後半からそれに続く大同〜弘仁年間の頃に集中して一斉に出現した。時間幅でいうとわずか20年ほどである。戦勝祈願が成就したので神様を篤くお祀りしましたというのが共通の縁起で、祀られたのは土着のローカル神ではなく、みな記紀神話の神々であった(※)。塩谷という地域から少し目線を離して俯瞰すると、木幡神社はこのビッグウェーブで量産された神社群のひとつなのである。

※仏寺については晩年の桓武天皇が保護した密教系の諸仏、大日如来もしくは観音菩薩が本尊となった。 いずれも神道的な解釈では天照大神となる。なお神社に比べると仏寺は少ない。



 

■ 蝦夷の恭順は如何にして成ったか




ここで簡単に坂上田村麻呂の陸奥経営について触れておきたい。

彼の前任者であった征東大将軍:紀古佐美は蝦夷の指導者:阿弖流為(アテルイ)と戦って大敗している。蝦夷は基本的に狩猟民であったから山野を駆け巡るのが得意で遊撃戦に強かった。土地勘のあるホームグラウンドで野生動物を狩るような感覚で攻撃されたら、農民の集合体である朝廷軍は苦戦を強いられただろう。

田村麻呂はその轍は踏まず、穏健路線を基本として蝦夷を懐柔した。




それは稲作を推奨しながら弥生の文化圏に招き入れるという、一見すると迂遠な方策であった。

東北地方では紀元前にさかのぼる水田耕作跡がわずかながら発見されており、稲作の伝播は従来言われていたよりも早いという。 しかし弥生時代末期から古墳時代にかけて気候が寒冷化すると、稲作は定着せず生活スタイルは縄文様式に戻ってしまう(古墳寒冷期→西暦240〜730年頃)。大化の改新の頃に朝廷軍が戦っていた蝦夷は、この縄文スタイルに戻って狩猟を生業としていた野性児の集団で、メチャクチャに強かった。




それが奈良時代の中盤以降になると、再び温暖化が進行して稲作の適地が北方に広がっていく。 多賀城が造られた神亀元年(724)はまだ寒冷で稲作はかなり微妙であったけれども、坂上田村麻呂の活躍期(780〜800年代)には急激な温暖化で東北地方でも稲が造りやすくなり、農耕化が進んだ時期であった。これが田村麻呂にとって有利な時代背景を生んだ。

余談ながら、狩猟採取と稲作では同じ土地面積で養える人口が1000倍以上も異なり、豊かさの次元がまるで違う。先にこのシステムに加わった多賀城以南の蝦夷(俘囚)は狩猟民から農民に転じ、生活水準は向上し人口も増え、有力な者は郡司となってそこそこの地位で威厳も保っていた。

この実績があったため、強圧的な武力征討を行わなくても 「ほらこっちの陣営に入ったほうが幸せでしょ」 と言える余裕が坂上田村麻呂にはあった。・・・これは、北方で頑張っていた蝦夷の人々には相当に効いたらしい。

※稲作の推奨は田村麻呂の登場以前から行われており彼の専売特許というわけではない。ただ100年以上も武力制圧路線でやってきた朝廷の東北経営では、やはり人心は掴み難かったと思われる。



これに最後まで抵抗したのが北上盆地の奥六郡を拠点とする蝦夷の一派であった。しかし周辺の豪族がことごとく弥生の文化圏に転じてしまうと、急速に団結力を失ってしまう。

こうしてすっかり外堀が埋められたところに、やがて延暦21年(802)に胆沢城、次いで翌22年(803)に志波城が築かれ、将棋でいうところの王手飛車取りとなった。いずれも奥六郡の主要な平地にあって北上川のほとりに近い要衝で、これがさしたる武力衝突を伴わずに建設できたということは蝦夷の懐柔が相当に進んでいたことを示している。




筆者は予備取材で胆沢城跡、志波城跡を訪ねてみたのだが、その巨大さは圧倒的だった。武家の台頭した中世の城と違って、古代の城=柵は大陸的な "面制圧型" である。

上記写真は歴史公園として整備されている志波城跡である。一辺が900mあまりもある方形で、城というよりも街みたいなスケールをもっている。東京駅と丸の内のオフィス街がすっぽり収まっておつりがくるくらいの広さがあり、政務を取り仕切る政庁、役人や駐屯兵団の宿舎、およびいくらかの耕作地を含んでいた。南隣の胆沢城の記録をみると常備兵力700名、さらにこれを支える農民4000名(彼らの耕作地は土塁の外側と思われる)が関東から移住しているので、ここも似たような陣容だったのではないだろうか。




それまで狩猟採取で暮らしていたところに水田稲作が浸透し、圧倒的な人口扶養力をともなってこんな拠点が出現したら、嫌が上にも文明のパワーというものを感じざるを得ない。これを攻め落とすには本格的な攻城戦のノウハウと駐屯兵団の数倍の兵力が必要で、そのいずれも蝦夷はもっていなかった。

・・・結局、田村麻呂のもとで "最後の決戦" にあたる大規模な戦いは起こらなかった。延暦21年、まだ工事中であった志波城に500名ほどの蝦夷の集団が投降したのちは、彼らは静かに朝廷の施政下に組み込まれていった。




この後、志波城完成の翌年=延暦23年に、志賀理和氣神社が造られる。これは延喜式に見える古社(式内社)のなかで最北端の神社で、志波城跡にほどちかい北上川河畔に建った。朝廷の把握する宗教空間の北限がこのあたりになる。

ここに祀られているのは鹿島神宮の武甕槌神 (たけみかづちのかみ)香取神宮の経津主神 (ふつぬしのかみ)である。これら2つの神宮は蝦夷征討を企図して香取海(現在の霞ヶ浦)沿岸に祀られたもので、その祭神がここに鎮まっているということは、とりもなおさずその建立意図が成就したということに他ならない。

・・・ということでえらく長い話になってしまったけれども、坂上田村麻呂の東北遠征に縁起をもつ神社群は、みなこの親類縁者ということになる訳だ。

※写真はWikipediaのフリー素材から引用


<つづく>