2017.01.01 初詣:木幡神社

〜坂上田村麻呂伝説の背景に関する一考察〜(その2)




■ 今も仄見える岩倉の痕跡、そして神社建築について




さて少々風呂敷を広げ過ぎた(^^;) ここで意識を現代に戻してみよう。

年明けまでにはあと10分ほど。ぼちぼち参拝客が集まりはじめている。ただしまだ混雑というほ
どではない。・・・ということで、もう少し神社のルーツの話を続けたい。




坂上田村麻呂系神社の建立縁起は先にも述べたように一定のパターンがあり、 「戦に勝ったら神社を建立します」 との願を建てて祈りをささげてから陸奥(みちのく)に向かい、「勝利したので約束を果たします」 というオチに至ることが多い。

しかしよくよく考えてみると、これは不思議な話なのである。願を建てるといっても最初に "そこ" に行って祈願したのは何故? 誰に祈願したの? まさ か何もない空間に向かって? ・・・と素朴なツッコミどころが湧いてくる。




筆者が思うに、そこには "先客" として小さな神がいたのではないか。

ここ木幡でいえば元は峯村と称した集落であり、人が住めばそこには山神なり氏神なり村の鎮守的な何かが祀られていたことだろう。この付近は毛人(蝦夷の古い呼称)のテリトリーであったから、それは素朴な蝦夷の神であったのかもしれない。

それが田村麻呂の頃に再整備されて、記紀神話の神々に置き換わったと考えると、きれいに辻褄が合う気がする。




いずれにしても、いまとなってはわからない。

蝦夷とよばれた人々の同化の歴史の中で、かつて彼らの信奉したであろう神の名前も姿も失わ
れた。一部の信仰では "アラハバキ" という名も残っているが、その輪郭はあやふやだ。そしていまこの 社に住まう神は、正哉吾勝々速日天押穂耳々命と名乗っている。

・・・あれ、結局長い話を書いてしまったな(^^;)




■ いざ年越し!




さてそんなこんなで人も増えてきて、そろそろ年越しである。茅輪の前で待機していると、ぞろぞろと人が並び始めた。




茅輪をくぐってさっさと拝殿前に行ってしまう人と、敢えて手前で待っている人に列が二分している
ので尋ねてみると 「本来は年を超えてからくぐっていくものなのヨ〜」 と年配のご婦人が教えてく
れた。聞けばこの茅輪を作った方だそうで、それならば由緒正しい方に従おう…と、筆者は待ち
列組の方に入ってスタンバイ(^^;)

やがてドーン、ドーン、と太鼓が打ち鳴らされ、平成二十九年(2017)が訪れた。一昔前なら 「あ
けおめ」 「ことよろ」 と表現されていた新年の挨拶が今年は 「おめ」「よろ」 と極限(?)まで短
縮されて交わされ、初詣の列が動き始める。



ここの初詣は少々面倒で、茅輪を8の字を描きながら回っていくので結構渋滞する。しかしこれも神事のうちなので長いものには巻かれよう。




神前では、五穀豊穣、家内安全、交通安全、国家鎮護、それといつものように反日国家の滅亡(笑)なども祈ってみた。ついでに 「今年は路頭に迷いませんように…!」 というのを念入りに祈願してみた。

・・・というのも、世間では景気はゆるやかに上向き中ということになっているようだが筆者の勤
務先は経営の先行きが怪しく、ただいま絶賛?人員整理の途上なのである。あるとき突然本サイトの更新が止まったりした場合は、まあ再就職先を探しているのだなぁ・・・と察していただければと思う。

・・・ああっ、宝くじで10億円くらい当たってくれないものかなぁ、こん畜生めっ・・・!ヽ(`◇´)ノ




それはともかく(^^;)、筆者の身の上と違って木幡神社の初詣は実に景気がいい。参拝者の列 が続いている間はずーーっと太鼓がドンドコ、ドンドコ・・・と打ち鳴らされていて、お祭りみたいな雰囲気が漂っている。

こういう年越しの様子は神社によってかなり個性が分かれる。荘厳なところ、たのしく賑やかなところ…とまあ、さまざまだ。木幡神社はかなり賑やかな部類のように思え、元気をもらいたい気分
のときにはここに来るとご利益があることだろう。




■ お札とか甘酒とか



さて神様へのご挨拶が済んだのちは、甘酒などを頂いてみた。巫女さんに一枚いいですか、と
尋ねると 「どーぞ、どーぞ」 と愛想がすこぶるよろしい。神主さんも氏子さんも、ここでは適度に
どんぶり勘定でよろしく楽しげにやっている。・・・うん、良いことだよ、きっと。




火にあたりながら頂く甘酒は、五臓六腑に染み渡る暖かさであった。

今年は筆者にとって多難の年になりそうな予感がするけれども、せめて希望の持てる一年であ
ってほしいものだな。




ということで、"日が昇るように勝つ" という縁起の良いお札をGETし…




おみくじを引いてみたら大吉であった。・・・よっしゃ!




裏面にはこんな戒めも。・・・うむ、心に刻んでおこう。




そんなわけで、長くならないうちにこのへんで切り上げておきたい。 え? 結構な薀蓄を書き流した割に竜頭蛇尾だって? いいんだよ、そこは適当にいこう!w

本年もよろしくお願いします〜 ヽ(´ー`)ノ


【完】




■ あとがき


えー、あとがきです。なにやら正月明けから私事でいろいろ忙しく、初詣の記事更新が三月という 「いったいどこの相対性理論ですか」 みたいなタイミングになってしまいました。・・・まあ、世間ではいろいろあるんだヨ・・・ということでご理解いただければ幸いです(大汗 ^^;)

さて今回取り上げた木幡神社の草創期は "坂上田村麻呂系神社" という切り口でみると非常に面白い要素をもっています。昨年訪れた鹿島神宮と併せて考えると、日本史の骨太なうねりのようなものが見えてくるのです。白村江(朝鮮)の戦いで唐・新羅連合群に敗れて朝鮮半島から駆逐され、国家としての規模が縮小したぶんを東北地方への伸長で "リバランス" しようとした大和朝廷の思惑のようなものが見え隠れして、なかなか興味深いのですね。




ところで本編では省略してしまいましたが、大同年間を中心に西暦800±10年ほどの期間に大量発生し た神社群は、量産型神社建築の第一世代であった可能性をもっています。

それは聖武天皇〜孝謙天皇の頃(奈良時代中盤)の仏教優先政策への反発として始まりました。このころの神社には 「神も仏も一緒である」 という本地垂迹説を根拠に "神宮寺" が併設されるようになり、西暦760年代には伊勢神宮までもがこれに侵食されてすっかり乗っ取られたような状態になります。当時の神社には恒久的な社殿というものはなく岩倉を垣根で囲って鳥居が建っている程度の簡素なものでしたから、極彩色でキンキラキンな仏教寺院がドンと隣に登場すると、その存在感に圧倒されて影がうすくなってしまったのです。
 
強烈な仏教推進派であった孝謙天皇の崩御ののち、皇統は脱・仏教派の光仁天皇〜桓武天皇に移り、10年あまりの混乱期を経てその後急に神社の増殖が始まります。政治に口をだすようになった仏教勢力から逃れるために都を奈良から京都に移したのもこの頃で、時を同じくして日本の神社建築は和風の独自様式を模索して仏教建築に負けない外観を纏いはじめます。

今回訪れた木幡神社はこの時期の創建ですから、最初期のスタイルの社殿を備えて当時なりのレトロ・モダニズムな姿をしていたのかもしれません。それは朝廷の獲得した新領土=蝦夷地に、東大寺などの南都(奈良)仏教の勢力を及ぼさないためのマーキングの意味合いもあったかもしれず、考察を始めるとなかなかに興味深いところです。(ちなみに東大寺の荘園は栃木県下都賀郡が分布の北限で、陸奥/出羽には存在しません)

なお平安遷都後の神社建立ブームののち、最澄(天台宗)、空海(真言宗)による平安密教の立ち上がりがあります。奈良仏教への対抗上朝廷はこちらも大いに肩入れしたので、特に当時まだ未踏であった山岳地に軒並み "空海伝説" が広まるという現象も起きました。こちらは旧来の古神道と交じり合ってのちに修験道となっていきます。

今回訪れたのは坂上田村麻呂伝説をもつ木幡神社一か所ではありますが、その縁起を通して見えてくるものはいろいろあります。注意して居なければ 「ふーん・・・」 で終わってしまう神社巡りですけれども、すこしでもその奥に仄見える "何か" を読み解けるようになりたいものです。

<おしまい>