2017.02.10 鳥屋野潟

〜新潟平野に残る "潟" の痕跡〜




新潟に行ってきました(´・ω・`)ノ



所要があって新潟に出張する機会を得たので、おまけでちょこっとプチ花鳥風月をしてみた。行先は鳥屋野潟(とやのがた)という干潟の痕跡みたいな沼地である。時間の余裕もなく写真も少ないので今回は短稿で簡潔にまとめてみたい。

さて改めて "新潟" という地名をみれば、特に難しい由緒を紐解くまでもなく "新しい潟" という意が読み取れる。"潟" とは浅瀬の連続する広大な湿地帯のことをいい、潮の満ち引きで水面に出るような状態であれば干潟(ひがた)と呼ばれるが、海とは分離された沼みたいなところは単に潟(かた)と呼ばれた。…といっても分類上の明確な定義があるわけではなく、なんとなく水浸しの土地はとりあえず潟であり、強いて言うなら "海に近い場所の" という暗黙のニュアンスが付属するくらいだろう。

新潟平野は鎌倉時代以前はほとんどがこの潟の状態で、現在のような豊かな米どころになったのはほぼ戦国時代以降の干拓の結果による。それ以前はほとんど人の住めるような場所ではなく、歴史をみてもたとえば越後国の国府は新潟平野より面積の狭い直江津に置かれていた。




時代が下って徳川の世になってからは大規模な干拓がさかんに行われて泥田のようなふにゃふにゃな状態ながら耕地化が進み、第二次大戦後は排水路の整備やポンプ揚水の普及があって新潟の大部分が乾田化された。しかしそれでもいくらか "潟" の痕跡は残っていて、今回訪ねる鳥屋野潟もそのひとつなのである。



 

■ 雪国から "潟" の世界へ




さてそんな訳でレポートの開始点は越後湯沢からになる。

一仕事を終えて温泉宿で冬の風情を満喫してみた訳だが、しかし今回のテーマは温泉ではないのでここはバッサリとカット(^^;)




それでもわざわざ触れてみたのは、冬の新潟というと 「雪国」 のイメージが強烈なので "そればかりじゃないんだよ" ということを言いたかったからだ。




ともかく、ここから関越自動車道に乗って新潟平野に向かってみれば、それがよくわかる。




一般に新潟県は雪国と思われている。

しかしステレオタイプなイメージが当てはまるのは魚沼丘陵から小千谷のあたりまでで、長岡を過ぎるとだんだん怪しくなりはじめ三条に到達した頃にはすっかり崩壊してしまう。写真は三条ICの付近だがこのあたりはもう積雪が5cmくらいしかない。実のところ新潟平野は山沿いを除けばそんなにドカ雪の積もる場所ではないのである。




新潟中央ICを降りて市の中心部付近に入るともうこの通り。雪国の 「ゆ」 の字もなく関東平野とたいして変わらない街並みになった。




この付近は広大なゼロメートル地帯のど真ん中にあたる。信濃川と阿賀野川の河口部に市街地が集積し、その周辺はひたすらどこまでも続く水田地帯である。国内有数のブランド力をもつ新潟米はここで作られている。



 

■ しかし千年前、ここは海だった




しかし米どころとしての越後は最近500年くらいで徐々に形成されたもので、それ以前は広大な湾であったらしい。

実は筆者はこの日、新潟県立自然科学館に瞬間的に立ち寄り、自分で資料を探すのが面倒だったので(ぉぃ ^^;)可愛くて美しい案内係のお姉さんに 「古地図のいいのない?」 と尋ねてみた。すると上図のような寛治三年(1089)の越後絵図を頂き、少々・・・どころではなく驚いた。この図に新潟平野は存在しないのである。

この時代はちょうど平安海進のピークの頃で、気候は温暖化しており現在より海面が高かった。地図をみると村上のあたりから長岡付近までもが水の底となっており、これが本当なら平安海進の海面上昇オフセットは15〜20mほどもあることになってしまう。

※出典:水と土の農シリーズその1 "新潟"であるために 十章(全国土地改良事業団体連合会/1998)




話のネタとしては+20mくらいでファンタジーを語るもの面白そうな気もするけれど(^^;)、筆者はもう少し控えめに+3mと見積もって(↑)海岸線を引いてみた(※)。越後平野はほぼゼロメートル地帯なのでこれでも琵琶湖に匹敵するくらいの巨大な湾が出現する。

ちなみに海岸沿いに長く伸びる地形は対馬海流によってできた超巨大な砂州(砂丘)で、この内側を信濃川水系+阿賀野川水系の運ぶ砂礫が埋めて遠浅の汽水湖のような水域を形成していたらしい。地形図だけを見れば理想的な港湾都市が形成されそうな雰囲気で、しかし朝廷がこの潟を無視して直江津に国府を置いたところをみると、果てしなく芦原が続くばかりで船も人も馬も往来しにくい、よほど素性の悪い湿地帯であったのかもしれない。

※平安海進については研究者によって海面上昇の数値がまちまちで、いまだ決定打と呼べる海面水準は確定していない。Wikipediaの平安海進の項には現在の海面+50cmという記述が見えるけれども、以前に鹿島神宮周辺の香取海の痕跡を調べた際の経験からみて1m未満ということはありえないだろうと筆者は考えている。




時代が下って鎌倉〜室町期に入ると寒冷化によって海面が下がり、沖積平野が拡大した。これに呼応して干拓が徐々に進み、江戸時代に入った頃には農地も増えていった。

写真(↑)は正保四年(1684)の越後平野の絵図で、巨大な湾は消失して部分的にいくつもの潟が点々と残っている様子がみえる。本日の目的地、鳥屋野潟はこれらのうちのひとつの成れの果て・・・というわけだ。



 

■ いざ、鳥屋野潟!




・・・ということで、短稿なのでいきなり到着してしまおう(笑)。新潟中央ICを降りて1kmほど北上すると住宅街のなかに突如として芦原がみえはじめる。ここが鳥屋野潟である。いつもこんな感じで到着するとスピーディで話が早いのだけどねぇw




現在の鳥屋野潟の全景はこんな感じで、信濃川に連結する全長3kmほどの湿地帯である。標高は国土地理院の数値MAP上では0mだが、実際には海面より低い。水門と堤防でかろうじて陸上の沼地の体裁を保ってはいるけれども、大雨で堤防が決壊すればたちまち即席の入り江になってしまいそうな地勢なのである。




視界の利く北端部に回り込んで湿地帯にリーチ。おお、これが鳥屋野潟!ヽ(´ー`)ノ

予備知識がなければ只の草ぼうぼうの沼地にしかみえないけれど、これこそがが新潟の原風景なのだなぁ。




本来ならもう少し水面の見える位置までアプローチしたかったのだが、足元はもうこんな感じの湿地帯でちょっと歩いていくのは難しい。標高ゼロメートル地帯の本来の姿はこういう状態で、確かに水田には向いているかもしれないけれども建物を建てるには厳しそうだ。




驚くべきことに、こんな湿地帯と周辺の住宅街の地表高さにはほとんど段差がない。これ(↑)は潟に隣接した公園の芝地だが、湿地帯の芦原との段差は50cmもないくらいで驚く。聞けば水門+堤防で水の逆流を防ぎ、さらに巨大な排水ポンプ施設(親松排水機場、鳥屋野排水機場)で日常的に水を信濃川に流してこの状態を保っているという。

新潟平野全体ではこの排水ポンプ場は数十施設が稼働していて、これによってゼロメートル地帯での農地や都市が成立している。ここ鳥屋野潟でいうと潟の水位は信濃川より3.5mほども低く、ポンプが停止すれば付近の住宅街はたちまち水没して江戸時代の古地図の世界に戻ってしまうのである。

つまり、電力こそ命。これが現代の新潟平野の一側面であるわけだ。

※余談になるけれども2011年の東日本大震災のとき、大規模な停電+原発停止によって新潟市が水没の危機に陥っていたことはあまり知られていない。



 

■ 水郷の泥田の記憶




さて話は前後するけれども、さきほどちょこっと触れた新潟県立自然科学館はこの鳥屋野潟の北岸にある。そこでかつての米作のジオラマが展示してあったので紹介しておきたい。




これがもう、驚くような深い泥田なのである。

さきほど見た潟の芦原が稲に置き換わったようなもので、昔は気の利いた排水設備などはなかったから、胸まで浸かるような泥の海で船に乗りながら稲刈りをしていた。これは戦後間もないころまで続いていて、昭和30年代に電動ポンプによる排水設備が整備されてようやく乾田になったのである。

ついでにいうと泥田で採れるコメは品質が悪く、お世辞にも美味とはいえなかった。「新潟=コメの名産地」 というイメージは昭和31年のコシヒカリ誕生以降につくられたもので、それ以前は鳥ですら喰わずに跨(また)いで通る 「鳥跨ぎ」 などと揶揄されるシロモノだったらしい(※)。

※この話は新潟県の公式ウェブサイトに書いてあるもので、特段筆者が新潟県民になにか含むところがあるわけではないので念のため(^^;)




乾田化とコシヒカリの栽培技術の確立は昭和40年代に急速に進み、昭和50年代に入ってようやくブランドとして確立している。コシヒカリの "コシ" とは越後国の "越" であり、遡れば古代の越国(こしのくに)に由来する。ただこの品種は食味は良いものの栽培が難しく、昭和30年代の頃は収穫量の安定を志向する農家に見向きもされなかった。

それがコメ余りの時代になり、食管法の見直しと自主流通米のブームに乗って風向きが変わった。もともと米作の評価の低かった新潟県はこの変化を先読みし、いちはやく食味優先の品種を作付奨励して栽培技術を確立していった。これが高値で売れて大当たりし、新潟の米どころとしてのイメージは急速に好転して今に至る。




その間、わずか40年あまり。

平成の世を生きている我々は結果だけを見て 「新潟=米どころ」 のイメージを持ってしまっているけれども、それはごく最近のことにすぎない。有史以来9割以上の期間は水との戦いに費やされ、それを克服したのちにコメの産地間競争を底辺から駆け上がって勝ち抜くというフェーズがあったわけで、成功に至るまでの道のりは長かったのである。




そんな事情を含んだうえで改めてこの "潟" を眺めてみれば、単なる芦原もなかなか趣のある風景に思えてくる。




こういうところに居住するという感覚を、筆者は残念ながら持ち合わせていない。

筆者の住んでいるのは水不足に悩まされた歴史をもつ開拓地で、こことは真逆のメンタリティを持っている。共通点を探すとすれば水をキーワードとした "住みにくい土地" という点で、近世になって人間の努力によって生活圏が成立したというところであろうか。




しかしこれは郷土史をみるうえでは重要な観点のように思える。

かつて千年前には人は居住地を選ぶ余裕があり、条件の良いところをまず占拠して最初の都市や田園をつくった。しかしやがて人口は増え、あふれ出した新世代の人々はより条件の悪いところへと押し出されていく。

この条件の良し悪しとはそのまま水の過不足であった。中世から近世にかけての社会史とは結局のところこの水問題をどう解決したかという局所解の集合体なのであり、町や村はその許容範囲内でのみ成立し存続している。




こうして古い土地からあふれ出した人々のうち、山や高原に向かったグループの究極の到達点が山間水路の開削と棚田とすれば、低地に向かったグループのそれは干拓地であった。ともに大変な努力の果てに水をコントロールして生活圏を成立させたもので、近世以降では江戸時代前半、明治時代、そして戦後の復興期にローカルなピークがあり、いずれもその成果は人口の増加として現われている。新潟平野はそのうちの最大級の成功例といっていい。

そういう意味では、筆者の居住する那須の開拓地と新潟の干拓地は、ベクトルは真逆の方向を向いているけれども同じ軸線上に乗っているわけだ。

これに関してさきの博物館のお姉さんの説明が要領を得たものだったので、筆者はごく短時間の滞在ながら 「・・・へえ」 と感心してしまった。新潟県の文教予算の使われ方は、筆者がみるかぎり適切なように思えたことを付記しておきたい(^^;)




■ 海へ




さてそんな訳で、大きなスペクタクルもなく今回はそろそろ終わりなわけだが、最後に海を見てみたのでそれを書き留めておこう。

信濃川を渡って左岸側に至ると、そこは砂丘になっている。ローカルな "新潟" とはこの信濃川河口部の左岸をいい、川の流れがいい具合に川底の土砂をさらっていくので水深がそこそこあって港として使いやすかったという。それが県名に昇格したのは幕末に開港された5港のひとつがここで、重要港として幕府直轄地となり港湾設備が整備されていたことによる(※)。

※もっとも戊辰戦争で市街地は焼けてしまっていたのだが( ^^;)




付近はもう、砂、砂、砂。ステレオタイプに新潟=雪国&コメ処と捉えていると、このギャップには新鮮な驚きを覚える。

新潟県の海岸線は延々と砂丘が続く砂の世界だ。そのほんの数km内側に "潟の世界" が広がり、越後山脈まで至ると雪国の顔が見え始める。新潟県は "雪国" と "コシヒカリ" を観光の目玉にしていて砂丘についてはさっぱりPRしていないけれども、来たからにはやはりここを見ないと不公平というものだろう。



日が傾く中、そんな砂丘をほんの数分ではあったけれども歩いてみた。




先ほどまで止水のような湿地帯にいたのが信じられないくらいの動的な水の世界。時間が許せば日没までゆっくりしてみたかったけれど、浮世のサラリーマンの身ではそうもいかない。

まあ、久方ぶりの日本海を見たということで、気持ちを切り替えよう。

・・・ということで、にわか花鳥風月はここまでですヽ(´ー`)ノ


<おしまい>