2017.05.05 続:那須疎水を訪ねる

                       〜第二分水を行く〜(その1)




ふたたび那須疎水を巡ってみました(´・ω・`)ノ



新緑がいい頃合いになってきたので、久しぶりに那須疎水を追いかけてみることにした。本サイトには2007年にまとめた取水口から第四分水までを扱った記事があって、筆者の子供の言によれば学校で授業のネタとしてたまに参照されているらしく、まことに光栄なことと思う(^^;)

…で、せっかく参照されることがあるのだとすれば、単なるドライブ紀行であった2007年版を補完してもう少し違う視点も加えてリライトしてみようかと思ったのである。2007年版と併せて目を通していただけると、那須疎水の基本的な構造や水路の仕組みについてより理解を深めていただけるのではないかと思う。




今回取り上げるのは2007年版とは違うルートで、取水口から第二分水を追いかけるものだ。ここは那須疎水の4つの分水ルートの中では最長の水路となっている。末端は大田原市(旧:湯津上村)の品川開墾(笠松農場)である。派手さはないものの那須野ヶ原のほぼ中央を走り抜ける景色の変遷が面白いコースだ。

那須疎水の基本的な情報については2007年版の記事を参照していただくとして、ここではまず主要な水路と工事の行われた当時の官有地(国有地)の分布(↑)を確認しておこう。ぱっと見て気が付くのは水路が官有地を中心に張り巡らされていることで、この官有地を払い下げて農地化するために、必要なところに必要なだけ水を供給したわけだ。

ところでこのうち第二分水は他の水系とは少々性格を異にしていて、全長約25kmのうち実に7割が "官有地外" を流れていた。品川農場に水を送り届けるためにかなり無理をして途中のルートを通したことが伺(うかが)えるわけだが、このあたりについては水利権と那須疎水の開削経緯の話とともにのちほど触れてみたい。




そんなわけで前置きが長くならないうちに現場に飛んでみよう。ここ(↑)は取水口のある西岩崎近傍である。ここから、那須疎水を追っていくこととしよう。



 

■ 取水口の風景




さてまずは那須疎水の取水口から見てみよう。ここは現在では疎水公園として整備されていて、ちょっとした散策や釣りを楽しむのに良いところである。GWの頃はちょうどヤマメがよく釣れるのでアングラールックなオジさん達が竿を振っていたりする。




取水口の全体像はこんな感じである。写真右奥に見える穴のような構造物が第一次(第三次)取水口跡で、カメラを構えて立っている筆者の足元付近に第二次取水口跡がある。現在は左奥に見える取水関(第四取水口)から水が引きこまれている。




このうち書籍などでよく紹介される第一次(第三次)取水口跡をアップで撮ってみよう。

自然の河川から水を取り込んでいるので、川の状態によって水を取り入れやすい位置はたびたび変わった。最初に造られた第一次取水口は単に岩穴が開いているだけで、土砂の流入でたびたび使えなくなったという。




のちにオープン水路型の第二次取水口が造られ、これがまた川筋の変動で使えなくなると、第一次取水口をシャッター式水門に改修して第三次取水口とした。第三次取水口は昭和51年(1976)まで使われ、その後は現在の頭首工方式の第四次取水口に変わっている。




こうしてみると、自然の河川から人工水路に水を取りこむというのは結構大変なことだったことがわかる。現在の頭首工方式はそれを反省して工夫したもので、小さなダム状の堰を設けてそこから取水口に導水するようになった。

川の水はまずこの堰で溜まって、堰上面を越えて下流へと流れ下っていく。こうすると水面が堰の高さで固定されるので、堰の横に取水口を開けておけばいつでも安定した水位で水を引き込むことができるのである。

この方式は川幅いっぱいにまず堰を作らねばならないので規模の大きな河川では大工事になってしまい、また大水が出たときはゲートを開けて放水するなど管理をこまめに行う必要がある。しかし平時の安定性が評価されて、最近の取水関はほとんどがこの頭首工方式になっている。まあ水のインフラにも、時代によって流行があるわけだ。



 

■ ところでどうして取水口は西岩崎に造られたのか?




ところでなぜ那須疎水はここから水を取ったのだろう。




那須疎水の本幹(一番太い水路)は那須野ヶ原の北端から7kmほど南側を通っていて、それより山側の農地には水が届かない。もっと高いところから水を引けばよさそうなものなのに・・・と、素朴な疑問をもつ方もいるのではないかと思う。




しかし結論からいうと、水を引ける場所は地形的にここしかなかったのである。

実は那須疎水以前にも那須野ヶ原に水を引く試みは何度か行われていて、江戸時代中期には穴沢用水が木の俣川から取水して穴沢村の周辺を潤していた。しかし穴沢用水の水量はすくなく、周辺の村々が 「水を分けてくれ」 と頼んで分水路を引っ張ってはみたものの、途中で水は土に染み込んでしまってほとんど届かないままに終わった。

そこで那須疎水は、那珂川、木の俣川、沢名川、小沢名川、柳沢、高雄股川などが合流して十分な水量の確保できる位置で水を引き込むよう構想された。さらにもう少し補足すると、この付近は江戸時代に長島掘という水路が着工されて失敗した経緯があり、昔から 「水を引くならこの辺だろう」 という目途はなんとなくついていたのである。




ここより上流側に取水口がつくられなかった理由にはもうひとつ、地形上の問題があった。

那珂川渓谷の西岩崎より上流側は、断崖が切り立っていて水路を引けるような地形には恵まれていない。たとえば西岩崎のすぐ上流にあたる宇田島付近の状況は上図(↑)の如しで、阿久戸〜木ノ俣方面までさかのぼっても状況はほぼ変わらない。崖の段差は50メートルほどもあって、とても水路を作れるような環境ではないのである。




しかし西岩崎から下流側2kmほどの区間は、ちょうどいい具合に河岸段丘が連続して、なんとか水路が引ける程度の平坦面が確保できた。最初の数百メートルはトンネルで抜ける必要があるけれども、それ以降は段丘面をうまくつないでいけば水路面の高さを維持することができる。




それでどんなご利益(りやく)があるかというと、那須野ヶ原は傾斜地なので頑張って水路面高さを保っている間に崖上の地表面の方がだんだん下がってくるのである。これが小結(こゆい)のあたりで取水口の高さを下回るので、そこから水路を那須野ヶ原に乗せることができた。

※上図は2007年版とは標高の数値が少し違っている。これは航空測量の精度が上って細かいメッシュ幅で地形を評価できるようになったためである(^^;)




…と言われて 「いまいちピンと来ない」 人のために、少々くどいかもしれないけれども高さを5倍に強調したマップも示しておこう。こんなうまい具合に段丘面の連続した河岸は那須野ヶ原近傍ではここ以外にない。

こうして電動モーター(ポンプ)もエンジンも使わずに、明治の土木エンジニアたちは自然の力=重力だけで水を崖上に引き上げた。原理は用水路から水田に水を引くのと一緒で特に目新しさはないけれども、しかしそれを高さ50mもの断崖絶壁にスケールアップして応用したという点で見るべきところがある。




さて地図ばかり見ていてもあまり面白くないので、実際の風景に戻ってみよう。

ここは取水口から100mほど過ぎた付近である。写真ではわかりにくいかもしれないが取水されたばかりの水は流速もはやく、サイン波のような "うねり" をともなってごんごんと流れていく。




取水口から300mほど進み、眼鏡橋(疎水橋)を過ぎると八重桜がまだ咲いていた。このさらに100mほど先で、那須疎水は長い隧道区間に入る。




■ 亀山隧道




さて那須疎水の最初の見どころは亀山隧道である。隧道(ずいどう)とはトンネルのことで、河岸段丘の底にある亀山集落の脇に抜けるのでこの名がついた。那須疎水でおそらくもっとも難工事になったであろう区間である。

トンネルの長さは900mほどもある。真っ直ぐ抜けずにクネクネと曲がっているのは、別にいきあたりばったりで作業をしたためではなく、手掘り時代の工法の痕跡だ。当時はGPSやレーザー測量技術はなかったので、崖面にちかいルートで掘り進め、ときどき空気穴を開けて位置がズレていないか確認しながら掘っていったのである。

※那珂川の河岸段丘は凝灰岩質で、比較的柔らかいため手掘りで水路を通すことが出来た。




その隧道の入り口はこんなふうになっている。地上の水路幅にくらべてトンネルの直径は狭い。地上水路が何度か改修されて幅広になった一方で、トンネルは古いまま使われているのだ。 そこに向かって水路がぐぐぐっと絞られて水が吸い込まれていく。




その先は・・・さすがに地下を進んでいく訳にはいかないので(笑)、クルマで隧道出口に回ってみよう。出口は亀山集落に降りる細い脇道からさらに分岐した未舗装路の先にある。




河岸段丘を降りて雑草だらけの狭い道を進んでいくと、やがて隧道の出口にたどりつく。 ときどきメンテナンス工事の車両が入るためか、ちょっとした広さの空きスペースがある。雑草は定期的に刈られているようだった。




さてこれが隧道の出口である。やはり穴の径は小さく1.2mくらいしかない。ここを猛烈な勢いで水が抜けてくる。




水路幅はすぐに2.5mほどの幅広規格になった。那須疎水の本幹水路は基本的にこの幅で作られている。

最初期の水路は取水口からしばらくは石積みで、途中から素掘であった。どのあたりまで真面目に整備されていたのかはわからないが、ただ1000mもの隧道は崩れた土砂で埋まってしまうと復旧が大変だろうから、ここを抜けるあたりまではしっかり石積みで整備されたのではないだろうか。



 

■ 小結




やがて小結の付近で那須疎水は急カーブを描いて那須野ヶ原扇状地に乗っていく。




扇状地に乗って最初に道路と交差するのがこの静橋である。地味な橋なので注意していないと通り過ぎてしまいそうなところだ。




橋から疎水の上流側をみると、ぐぐっとカーブを描いてくる様子を確認することができる。




ただし疎水と並行して走る管理道路は閉鎖(※)されているので、ここから上流側を見に行くことは難しい。隧道出口を見たい人はここから遡るのではなく、亀山集落への連絡路を経由していくのがよいだろう。

※産業廃棄物などを投棄されないようにしているらしい




…さて、ここからは一般道路に沿って那須疎水を追っていくことにしよう。第二分水の分岐まではあと2.5kmほどだ。


<つづく>