2017.05.05 続:那須疎水を訪ねる

                       〜第二分水を行く〜(その2)




■ 第二分水へ




さて取水口付近の説明が長すぎた感があるので(^^;)、ここからはあまり重くなりすぎないように注意しながら書いていこう。

静橋から700mほどで、まもなく本管から第一分水が分岐していく。これは旧毛利農場(現:黒磯駅方面)方面を潤していくものだ。




さらに1.8kmほど進み、青木(旧青木農場跡)に入ったあたりで、いよいよお目当ての第二分水が分岐する。




分岐部分の水門はこんな状況で、段落ちしている写真右側の流れが第二分水である。




あたりを見渡すとだいぶ景色が開けてきた。

那須疎水本幹より山側(=標高が高い)は水が行きわたらないので水田はほとんどなく、畑作か牧草地になっている。小結開拓から青木にかけては那須山塊をバックにした広々とした牧草地が広がり、風景写真を撮りたい方にはちょっとお薦めの撮影スポットだ。




第二分水は分岐した途端にさらに細分化されて幾筋もの小水路に分かれていく。

2007年のレポートではここで背割りの話を書いたのだが、せっかくなので復習も兼ねてもう少し詳しく触れてみたい。




背割りとは、水路にブレード(刃)状の仕切りを設けて一定量の水を分割していく方法で、那須疎水に特有の仕組みである。水路幅に対してどのくらいの割合でブレードの開き幅を設定するかは水利権に応じて決められた。

この水利権というのは、水を引く権利であるとともにそれに応じた費用負担の義務も伴う。これがまた厄介で、既に古くから別の用水路が通っていたり自前の湧水が使える農家では  「ウチは既存の水路で間に合っているから」 などとゴネる人がいてなかなか話がまとまらない。歴史の古い農地であるほど、水路が網の目のように交錯してどこからどこまでが新規の受益エリアなのかがわかりにくくなる。だから一般に、農村では水の問題はモメごとのタネになる。




その点、那須疎水はほとんど水のなかった地域にまったく新規に出現した用水だったため、従来水系と競合することなく、単純明快に受益面積をもとに "背割りの幅" で分配量を決めることができた。これは灌漑用水の運用としては画期的なことで、農業研究機関などの論文で水管理のモデルケースとしてしばしば取り上げられている。




分水された水は、その先でやはり背割りで分割されていく。水利権に見合った分配比が、背割り幅で誰の目にも明らかにわかる。

ブレードはコンクリートと鋼板でガッツリと固定されていて動かせない。この幅を変更するには水利組合加盟者の3/4の同意が必要なのだそうで、なんと日本国憲法改正の発議条件(2/3)よりも厳しい。・・・まさに鉄の掟(おきて)と言っていい。




 

■ 青木一区、三区




さてここからはいよいよ第二分水に沿って下って行こう。分岐点からしばらくは、青木農場の跡地の一部である青木一区〜三区を第二分水は抜けていく。




旧青木農場は1576町歩という広大な面積を誇る大農場であった。ほぼ中央を南北に那須疎水本幹が流れ、域内で第二分水が分岐する。疎水の恩恵にあずかれたのは標高の低い南東側の約半分で、農場内で使用する水は本幹ではなく第二分水から分岐して支線を引きまわしていた。

※この領域が最終的に定まるまでに何度か周辺農場との土地の交換や合併が行われている



農場主の青木周蔵(外務大臣)は、砂礫地であるこの付近に日本古来の水田農業は適さないと考えたようで、欧州型の林業と酪農の複合モデルを展開した。大正末期(大正14年)の土地利用状況は総面積1576町歩のうち山林が1052町歩、牧場が444町歩、そして水田はわずか9町歩である。現在もその流れを汲んで酪農がこの付近の主力産業となっている。

※写真はWikipediaのフリー素材を引用





分水の様子をみていると、自然降雨で維持できる牧草地では水は分割されずにストレートに流れているようだ。もっとどんどん分割されているのかと思いきや、そうでもない。

ざっとみると南側の青木三区のあたりに水田(戦後の開田らしい)がみられ、牧草地よりそちらのほうに水が回されているようだ。




ところで青木というと広々とした牧草地のイメージを筆者はもっていて大正時代の山林面積を聞くと 「そんなに樹木が多かったっけ」 という気分なのだが、明治20年前後に植林された杉や檜が昭和の初め頃に伐採可能な樹齢となり、さかんに伐られて跡地が牧草地になったらしい。

「伐った後に再度植林しなかったの?」 という指摘もありそうだが、昭和20年に敗戦でGHQが進駐してくると、青木農場は農地解放でバラバラにされてしまったので土地利用計画はご破算になり、残った山林も手っ取り早く伐られて換金されてしまったという。こういう話を聞くと、農地解放というのはいかにもムチャクチャな命令だったのだな・・・と思わないでもない( ̄▽ ̄;)




やがて青木小学校を過ぎるあたりで第二分水は二手に分かれる。下流に行くとやがてまた統合されるのだが、どうやらこれは東北自動車道の南側=埼玉地区を効率よく灌漑するための分岐のようだ。

一応筆者は両方追ってみたのだが、今回はこのうち東側のルートを行くことにする。こちらは埼玉開拓の中心地を抜けていく。




■ 埼玉 (旧:那須東原開墾社)




やがて東北自動車道を越えて南下すると、埼玉に至る。ここはかつて那須東原開墾社が開拓に入ったところで、出資した埼玉県の7人の有力者にちなんで埼玉開拓と呼ばれている。那須疎水第二分水はこの那須東原開墾社の領域に入るとさかんに分岐して農地を潤していく。




見ればかなり大きな分配比で分岐し、下流側でまた合流する形になっている。なかなか豪快な掘割だな。




那須東原開墾社のエリアは、ほぼそのまま現在の埼玉地区と重なる。昭和になって南側に飛行場が建設されたので水路の引き回しが一部変更されているけれども、第二分水の実質的な最大の受益者はこの埼玉地区であった。

現在の上埼玉〜下埼玉の一直線の開拓道路の両脇には、防風林を供えた農家の建物が整然と並び、中央には鎮守の神社(温泉神社)がある。明治期の典型的な開拓村の姿がよく保存されている。




ここでちょっと脇道に迷い込んでみた。さきほどの分水路の先の状況である。ここでもやはり段落ち構造で分水され、水がどんどん散っていく様子がみえる。

この段落ち構造は水の勢いを緩めるブレーキの役割も兼ねているという。那須野ヶ原の平均勾配は6%ほどありストレートに水を流すと勢いがつきすぎてしまう。すると中央と側面で流速にムラができて背割り分水がうまくできないのである。

だからいったん堤構造で水を止め、そこを溢れて段落ちするタイミングで背割り分水する。これだと中心と側面付近で流速のムラが少なくなるので公平な分配ができるわけだ。



そうやって分配された水の行く先に、小さな神が祀られていた。生駒大神と書いてあるところを見ると馬の神様らしい。江戸時代なら馬頭観音が鎮座すべきところだけれど、神道形式というところに時代性が現われている。廃仏毀釈を経た明治の開拓村ならではの風景といえよう。

・・・おっといけない、脇道ばかりではなかなか話が進まないぞw  ということでメインストリームに舞い戻ろう。



 

■ ところで水利権とはなんぞや?




そんなわけで埼玉集落の真ん中付近に戻ってきた。

ところで今回の隠れたテーマである水利権について具体的なな説明をしていなかった。水利権とは文字通り水を利用する権利のことである。そして水利権を持つ者は、用水路の維持費を負担し、メンテナンス作業に労力を提供するという義務も併せ持った。

那須疎水の取水量は250個と定められていて、明治期から現代まで変わっていない。 ここでいう 「個」 とは1秒間に1立方尺(30cmX30cmX30cm)の水が流れる水量で、メートル法と尺貫法の組み合わせといういかにも明治期らしい雰囲気の単位である。

この250個の水量のうち、50個が途中で地下に浸透して失われると仮定して、残りの200個を水利権者で分け合った(※)。200個を現代風にMKS単位系(※)で表現しなおすと1秒間に5.56立法メートルが流れる水量となる。

※那須疎水は1991年に水道用として5.1個を分割している。そのため現在では 194. 9個を権利者間で分割している…というのが正確な姿となる。
※MKS単位系:M(メートル)、K(キログラム)、S(秒) を基本単位として構成される単位系




那須野ヶ原開拓は有力政治家による華族農場と那須開墾社のような大規模結社が主体を担ったので、権利を調整する関係者が少ない利点があった。そのためこの開拓農場単位でまず大まかに水利権を分割して、それぞれの農場内でさらにそれを小割にしていく方法がとられた。




明治19年(那須疎水開通直後)の分水表をみると、那須疎水第二分水の権利者は4人しかいない。東肇耕社(三島農場)14.3個、片岡政次(品川農場)4.99個、那須東原開墾社 20.49個、青木周蔵(青木農場) 12.11個 である。この権利関係をみると、やはり埼玉地区=那須東原開墾社が第二分水の主役であることが見て取れる。

※表の出典:農業用水の個別的水利用と量水制水利費負担方式の展開 -栃木県那須疏水を例として- /愛知学院大学/白井義彦  ただしこの後片岡政次を除く3者で土地境界の変更があったのでその後の比率は変わっている可能性がある




現在ではこれら旧華族農場や開墾社はほとんどが解散して土地は入植者に分配/譲渡されている。 水利の管理は地元農家で構成される那須疏水土地改良区(水利組合)が受け継いでおり、農家は各自に割り当てられた権利(口数)の範囲で水を引き込んでいる。




割られた水は、さらに細分化してちょろちょろとした流れになって分岐していく。それでも開拓以前にはこの程度の水すらなかったのだから、これはこれで偉大なことなのである。




やがて住宅が増えてきて、那須疎水は暗渠(あんきょ)になったり解放水路になったりしながら下っていく。




埼玉小学校(旧飛行場跡)付近に至ると、代掻きが行われていた。上埼玉ではまだ水も入っていないけれども、標高が低いところは農耕歴も早めに進むらしい。あたりはぼちぼち田植えが進行している。




水路はさらに、さらに、どんどん分割されていく。分水の原理は取水口付近とまったく同じである。分岐した水路が高さを保持して頑張っている間に、傾斜した地表面のほうが下がっていって、やがて高さが逆転したところで耕地に乗っていく。




こういう風景を見ていると、治水/利水の技術というのは凄いものだと思う。

あたりまえだが水は低きにしか流れない。見渡す限りの水田が用水路を通じて緻密な高低差管理の上に並んでいるさまは、まさに巨大な立体パズルだ。水田なんてテキトーに耕して水を入れりゃいいんだろ・・・くらいに思っている方がいたら、トンでもないことである。


<つづく>