■ 2012.02.09 越後湯沢 〜川端康成の「雪国」〜 (その3)
■湯沢
さて土樽を制覇した後は、湯沢に確保した宿に向かうことにした。雪壁で道路が狭くなっているので大型車が対向して走ってくると 「ぬおお」 となるのだが(^^;)、まあゆるゆると市街地を進んでいく。
予算の都合もあるので基本的に安いビジネスホテルを使うのが恒の筆者だが、ここでは 「宿で小説を書く風情」 というのを味わってみたいので、一応ちゃんとした温泉宿に泊まることにした。
…とはいえ、実は昨年同様、事前の宿の予約などはしていない。
出発の1時間ほど前に旅館案内所に問合わせて 「いい所を紹介してくださいよ〜♪」 とネゴして探してもらったのである。今回紹介されたのは湯沢ニューオータニホテルであった。
チェックインしてみると、12畳+αの広々とした和室を一人で独占するというゆったりとした環境が待っていた。ビジネスホテルなら同じ床面積で3部屋くらいは詰め込まれるところだろうが、ここではそんな無粋なことはしていない。このくらい余裕のある空間なら "部屋で寛(くつろ)ぐ" という言葉が文字通りの意味で通用しそうだ。
ところでそこらじゅうの旅館が満室の超・ハイシーズンに部屋が取れたのには、多少の理由がある。
旅館には一見満室のように見えて、実は空き部屋がいくつもあるのである。有力な(=販売力のある)旅行会社や予約サイトがあらかじめ一定数の部屋を 「枠」 として押さえていたうちの余り物件で、前々日までに予約が確定しなかったり直近にキャンセルされた部屋がそれにあたる。こういう物件は 「枠」 の有効期間中には外部からはなかなか見えにくいのだが、前日になると縛りを解かれて、旅館組合の案内所などでローカルに売りに出される。一人旅ならこういう部屋を狙うのが得策なのだ。
…などと書くと 「なんでキャンセル待ちみたいな真似をする必要が?」 とツッコミが来るかもしれないのだが(^^;)、実は一部屋の面積が広い高級旅館では利益率を考慮して宿泊人数が二人以上でないとそもそも予約を受付けないところが多いのである。
それが前日や当日になると、空気を泊めておくよりはマシ(?)ということになって一人客にも開放される訳だ。一部の旅行好きには納得のいかないシステムかも知れないけれども、需要と供給と資本主義の理屈によってイマドキの旅館事情というのはそういうことになっている。
では時代を遡って、戦前の宿の予約事情がどうであったか…については、実はどうもよくわからない。戦前の旅行会社というのは明治45年の日本交通公社=ジャパン ツーリスト ビューロー(JTB)の設立から本格的に立ち上がったといわれるのだが、その設立意図は鉄道会社とタッグを組んでの外国人観光客の誘致と便宜を図るものであり、日本人の扱いはどうもオマケのような印象がある(ただし設立意図はともかく顧客の圧倒的多数は日本人である)。
昭和10年頃だと国内旅行手配はこのJTBのほぼ独占状態にあった。JTBの設立には鉄道院が深く関与しており国鉄の全面的なバックアップがあったのでこれは当然ともいえる。湯沢の発展とはすなわち国鉄の上越線効果の果実なので、観光客の誘致や有力旅館の宿泊手配には当然JTBが絡んだことだろう。その流れからいくと、湯沢入りした川端康成もJTBの客だった…ということになるのかもしれない。
しかし小説 「雪国」 では、主人公は湯沢で最終列車を降りてからは旅館の "客引き番頭" に引っ掛けられて宿に入っており、JTBを経由して予約したのかどうかはついに最後まで明らかにされない。
まあ最近流行のメディアミックス作品なら 「国境の長いトンネルを "国鉄の列車で" 抜けると雪国であった。宿の予約なら "JTB" …」 などと書かれるのだろうけれど(^^;)、さすがにそういうコマーシャルな文章を川端康成が小説中に練りこむことはなかった。「湯沢」 の地名すら最後まで直接は言及しないのだから、そのあたりは何らかの矜持があったのだろう。
それはともかく、話が延々と蛇行して申し訳ないけれど、小説中の描写をみるかぎりどうやら主人公の島村は繁忙期を微妙に避けて当日の空き部屋をGETしていたようである。現代ではさすがに "客引き番頭" なる存在はもう少し合理化されて旅館の公式HPとか旅館組合の案内所に置き換わっているのだが、仕事の本質は変わらない。(※無理が利くのは案内所の方である)
…ということで、今回筆者は実にノスタルジックな作法(?)に則って一夜の宿を確保したことになるらしいだが…そういう理解で良いのだろうか(^^;) …なんだか自信がないけれども。
さて荷物を置いたらひろびろとした売店コーナーでお土産などを漁ってみた。今回は細君を那須に置き去りにしてきているのでご機嫌伺いの貢物が必要なのだ。
…それにしてもホテルの売店の一番いい場所を占有しているお土産が 「米」 である。なんというか、新潟県の強烈なアイデンティティを感じざるを得ない(笑)
米以外ではカニ風味の商品が多い。とにかく、カニ、カニ、カニ…である。とりあえずカニチップスは定番らしいので即GETしてみた。
こちらはいつぞやの旅行で買いそびれたエースコックの職人魂…♪ こちらも忘れないうちに買い込んでおこう。ちなみに3個1セットでちょっとだけお買い得になるようだが、大人ならダンボール買いをするのが日本経済に貢献する正しい道といえる。
…というか、いきなり売店でそんな大人買いをしてどうするというのだw
その後部屋に入って一服していると、やがてお食事タイムの到来である。本来なら2日以上前に要予約のはずの御造りを美人で可愛い仲居さんに 「お願いにゃん♪」 とその場で追加してもらったりして、たらふく新潟の味を堪能してみた。
食事が済んだあたりで体内バッテリーが切れかけてきたので、とりあえずいったんバタンキュー。温泉は翌朝ゆったりと味わうことにしよう。
■雪と温泉
さてそんな訳で翌朝である。まだ暗い5:30頃にふらふらと館内の温泉に向かってみた。内湯は広くて湯量も豊富、施設もなかなかイイカンジだが…ちょっと整備されすぎて昔の鄙びた宿の雰囲気ではなかった。まあ良くも悪くも近代的なホテルで、いまどきのレジャー客向けのつくりである。
先行客は4、5人ほど。「いや〜、こんな時間に風呂ですかい」 と判で押したような挨拶をしながらさらに5人ほどが入ってきた。…見れば朝風呂をキメ込んでいるのはみなスキー客のようで、会話を聞き流してみたところ、これから滑り倒す前のウォーミングアップを兼ねているようだった。 何というか、気合が入っているなぁ・・・w
さて筆者はというと、この時期の醍醐味といえば露天風呂と相場が決まっているので、雪の底に埋もれるような湯船で大の字になって浮かんでみた。
いや〜極楽だねぇヽ(´∀`)ノ
…というか、気分は露天というよりすっかり洞窟風呂なんだけどな(笑)
雪の壁が風を防いでくれるので、こういう状態の風呂は実は見た目の印象ほどには寒くない。ゆったりと浸かりながらリラックスするには丁度よさそうだ。
…そんな訳で少しばかり長湯をしてみた。そもそも湯沢での2日目の予定は、川端康成の泊まったという高半旅館の外観を眺めて、資料館(雪国館)を巡るくらいなのである。気分もスケジュールも、もっとゆったり、まったりでいい。
外では綿雪が深々と降っている。スローシャッターなので画面にはほとんど写っていないが、雪壁の底にも静かに雪が降りてきて、湯船に着水した瞬間にふわりと融けて消えていく。見ていて飽きが来ない、いい小景である。
こういうところでリフレッシュしながら小説を書くというのは、どんな気分だろう?
静かな部屋で黙々と原稿を書き、煮詰まったら温泉に入り、付近を散策などして気分をリセットする。そしてまた原稿を書く。…日々、それが繰り返していく。
現代なら気分転換にはTVをぽちっと点けたり、ネットでニュースを見たり、携帯ゲーム機wで気分を転換したり…といろいろな選択肢があるだろう。しかし戦前にはもちろんそんなものはなく、田舎の温泉宿に逗留すれば、恐ろしいほどに静かで抑揚の無い時間が過ぎていき、することといったら原稿を書くくらいしかない。
昔の小説家は、不思議なくらいに温泉宿をよく好んだ。何週間も泊まりっぱなしで作品を一本書き上げる…などということも珍しいことではなかった。
そんなに自宅や仕事場(書斎)では仕事がしにくかったのか…といえば、ぶっちゃけたところその通りであったらしい。理由の大半は、メンタルなものである。温泉宿の役割とは、要するに日常とは異なる環境で
物書き業界ではこういう宿を "カンヅメ旅館" などと呼び、著名な作家は大抵どこかでカンヅメ生活を経験している。もっともこういう場所に隔離されるのはある程度成功した作家のステータスみたいなものでもあり、作家にとってもそう悪い待遇ではなかった。
締め切りを守っている限りにおいては逗留先で観光やら芸者遊びに興じていても誰も文句は言わなかったし、要領のいい作家は "取材" と称して遊興費の請求書を出版社に回してしまう猛者もいた。出版社としてはそれで良作が生まれて本が売れてくれれば御の字なので、なんでもホイホイ受け入れた訳ではないだろうけれどもかなり大目にみていたような感はある。
※逗留費用は作家の "大先生具合" によって出版社が持ったり本人が払ったりした。また逗留場所は郵便事情の良いところでなければならず、原稿が締め切りまでに編集者に届くことが絶対条件だった。
戦前の日本の温泉旅館は、このような小説家の滞在には非常に都合がよかったらしい。そもそも "湯治" という何ヶ月単位で滞在する客層を安価に受け入れるシステムが出来上がっていて、その気になればコンドミニアム式の自炊を前提にして宿泊費をかなり安く済ませることも可能だった。(ただしその場合は長屋のような安宿になるのだが ^^;)
「雪国」 を書いた頃の川端康成はというと、湯沢に来た当時は既に新聞連載なども持っていてそれなりの地位を得ており、滞在した部屋は条件の良いところを選んでいた。眺めのよい高台の温泉旅館の3階で、三方が窓、一方が廊下となっている出島のような8畳の和室である。隣接する客室が無いので隣から話し声が聞こえてくることもなく、ここではかなり静かに原稿を書くことが出来たようだ。
…もっとも、川端はストイックに原稿ばかりに向かっていた訳ではなく、当時出来たばかりのスキー場でスキーを愉しんだり、芸者遊びに興じたりもしていた。それをネタに小説を書いていたのだから、まあ趣味と実益がうまく両立していたというか、まあよろしくやっていた部類なのだろう。
さて風呂から上がってクルマの状態をみると…あらら、一晩で結構、積もったなぁw
ついうっかりしてワイパーを立てておかなかったのでバリバリに凍ってしまい、クルマの発掘(?)と暖気運転にたっぷり20分以上かかった。雪国のクルマ事情というのは露天駐車だと結構厳しいものがあり、これで1m以上もドカっと積もったらボンネットがベッコリ凹んでしまうのではないかと心配になってくる(^^;)
■高半旅館
さてそんな訳で、チェックアウト後は 「雪国」 が執筆されたという高半旅館に向かってみよう。
高半旅館は、湯沢の市街地から少し外れた山間の丘の上に位置する温泉宿である。ここは湯沢村の発祥の地といってもよく、平安時代の終わり頃に高橋半六なる人物が温泉を発見したことに始まる。源泉は斜面にある小さな鍾乳洞から沸いて湯之沢に注いでいる。当初は源泉の近くに湯壷を設けていたようだが、たびたび崖崩れや雪崩の被害に遭ったことから江戸時代の中頃に現在の位置に移ったらしい。
上越線の開通以前は、冬季には三国峠が雪に埋もれるため人の往来もなく温泉は休業していた。通年営業が始まったのは上越線の工事計画が具体化した明治末期〜大正期以降のことらしく、周辺のスキー場開発も同じ頃に本格化していることからそちら方面の客を相手にしていたようだ。
これが現在の高半旅館である。近代においては2度大規模な建て替えをしている。1度目は上越線の開通の頃で、木造の瀟洒な楼構造の建物が建った。川端康成が宿泊したのはまだ新築の薫りの残っていた頃である。
現在ではさらに鉄筋コンクリートの近代的な建物に変わっていて、川端康成の滞在した頃の面影はなくなっている。ただし建物内部には当時の部屋(かすみの間)を再現した一角があり、宿泊客はそこを見ることができる。
筆者もできれば内部を見学したかったところだが…残念ながらその希望は叶わなかった。狭い高台にある旅館には駐車場に余裕が無く、この日は既に宿泊客のクルマが満車で入り込む余地がなかったのである。こればかりはハイシーズンであるだけに仕方がない。
…まあ残念だが今回はとりあえず写真を数枚撮っただけで撤退することにしよう。
※念のために申し添えておくと、ここは 「かすみの間」 を見学するだけの客も一応受け付けてくれる。しかしその場合はマイカーではなく公共交通機関か、がんばって徒歩で到達するしかなさそうだ(レンタルサイクルは冬季には無理)。
ちなみに現在の高半旅館は 「雪国」 効果と創業800年の超老舗プレミアムで、宿泊料金は湯沢の新温泉街の倍くらいのレートになっている。それでも宿泊客が押し寄せてくるのだから大したものなのだが、筆者のような貧乏旅行派には少々高嶺の花といったところだろうか(^^;)
…そんな訳で、次に訪れる機会があるとしても筆者のことだからきっと 「とくとくチケット¥500」 とかになってしまうことが予想されるのだが(笑)、そういう貧乏くさいところに "美" を見出すのも文学の使命みたいなものだろうから、まあなんだ…細かいことは気にしない、というオチでいいのかな? …え? 負け惜しみだって?(爆)
<つづく>
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