2006.11.26 韓国:水原(その2)
■ 華城へ
さてそんな拉致監禁の日々ではあったが、1日だけ休日があった。気がつけばもう12月。せっかくなので華城を見ておくことにしよう。
華城(ファ・ソン)は18世紀末、最初は墳丘墓、のちに李氏朝鮮の王族の離宮として建設された巨大な城郭である。当初計画ではここへの遷都も意図されたようだが、外壁が完成したところで王が死去したため計画は頓挫、漢陽(ソウル)から首都が動くことはなかった。
この城郭は長さが5.7kmもあり、旧市街をすっぽりと囲んでいる。 似たような構造の城郭は日本では小田原などに存在したが、こちらは徳川幕府によって撤去され現在ではほとんど残っていない。
この日、水原は昼間でも氷点下の気温であった。大陸の冬は寒い。市内を流れる川は凍って子供たちの良い遊び場になっていた。
当初、歩いて行けるか…と思ったものの、どうも土地勘がなく迷う、迷う(^^;)。仕方がないのでランドマークとして水原駅を目指し、多少軟弱ではあるがそこからタクシーに乗ることにした。見えてきたのは城郭のなかで水原駅に最も近い八達門である。
城郭は長いので観光用の連結バスで周遊するコースがある。その最初の停留所は山の上にあるらしく、駐車場でタクシーを降りてから300mほど歩く。・・・しかしどうでもいいけど、世界遺産の玄関口なんだからもう少し作りのしっかりした案内板を作ってくれないかな。
■華城列車で見る城壁の様子
さてこれがその連結バスである。トロッコみたいな外観で、現地では華城列車と呼んでいる。見ればわかるとおり防寒のことは一切考えない漢の仕様である。日本では道路交通法の全長規制+連結台数規制があるのでこういう客車を何両も連結して一般道を走ることはできないが、そのへんは韓国なのでケンチャナヨ(=気にしない、なんでもOK、大丈夫)であるらしい。
えらく無愛想なモギリのあんちゃんに半券を渡していざ出発ヽ(´ー`)ノ 走り出してみると、車両の長さがある割に結構小器用に走っていく。…そんな訳で、古城の景色を眺めてみよう。
城郭のデザインは自然石を積み上げた石垣の上に煉瓦で防護壁を築いた構造になっている。説明書によれば中国の都市城郭と日本の戦国時代に発達した山城/平城の構造を参考にしているとのことである。特徴的なのは煉瓦部の射撃用の窓で、秀吉による朝鮮出兵(銃/大砲による本格的な火力戦)を経験したことによる創意工夫が垣間見える。この部分は日本の城では板塀や漆喰壁だったりするので、射撃手にとってはこちらのほうが頼もしい遮蔽物といえそうだ。
城壁にはほぼ一定間隔で楼が設けられ、防衛/監視の拠点となっている。このデザインは場所毎にまちまちでバリエーションに富んでいる。ここは西北角楼で、この周辺は創建当時の壁面がほぼそっくり残っているエリアらしい。
壁の高さは5mほどあるが、堀を持たないので人海戦術でワーっと寄ってきてハシゴを架けられたら、あっさり超えられそうな気もする。そういう意味ではもう数回ほど実戦経験を積んで防御について研究したほうが良かったんじゃないの、という見方もできそうだ。
その他、特徴的な点は城壁の角の部分だろうか。ここには日本の石垣で言う "隅石" がなく、Rをつけて平石をそのまま並べている。石垣を高くできなかったのはおそらくこの角部 (崩れやすいので石積みにそれなりの技術が必要になる) の強度を確保できなかったためではないだろうか。
※他の部分では隅石構造が見られる場所もある。
日本の戦国時代はおよそ140年間の間に無数の合戦があり、まさに実戦を積み上げて城郭構造を試行錯誤してきた。堀+石垣で、寄せ手側が登らねばならない実質的な壁の高さを増大する手法は普通に用いられているし、堀そのものも大型城郭では二重、三重に作るのは当たり前だ。それを考えると、華城の構造はどうやら本気で戦闘用の城を作ったというよりは、離宮の権威を高めるための装飾的な意味合いのほうが大きいのかもしれない。
ちなみに日本の攻城兵器としては、華城の170年前の段階で↑こんなグレネードランチャーみたいなものが実用化されている。多弾頭弾(上の展示では50発に分離する焼夷弾タイプのものが紹介されている)を10発も打ち込めば、華城の木造楼などはひとたまりも無いのではないだろうか。そうやって火力で混乱させておいて、その間にワーっと寄せてハシゴをかけ、一斉に足軽が切り込めばこの程度の壁を乗り越えるのはそう難しい話ではなさそうに思える。…まあ世界遺産にケチをつけるつもりはないのだけれど(汗 ^^;)、やはり実戦経験の差というのは如実に出るものなのである。
※↑棒火矢の展示は長野県:松本城のものです
さて話を戻して、これは華西門。案内書によると東西南北の門は半円形の煉瓦壁で作られているとのこと。この黒煉瓦は、ちかづいて見てみると材質そのものは赤い煉瓦だが、二度焼きして表面を黒く染めている。ぱっと見ただけでははわかりにくいが、結構手間暇をかけて造っているようだ。
この角ばっているのは敵台(監視所)である。ここは若干積み方が甘いものの、日本で言う隅石に近い構造が用いられ、鋭角で高い城壁となっている。
壁面に縦に溝があるのは鉄砲窓らしい。ただこれだと、礼儀正しく正面からやってくる敵は撃てるけれど、斜め方向から近づいてくる少し賢い(?)敵に対しては対処が難しそうな気がする。やはりもう一工夫の余地というのはありそうかな。
さて城郭内に入ってここは華虹門である。華城を南北に貫く川の上に建てられている。写真撮影ポイントであるらしく、カメラを向けている人が多かった。
この川を城内に引き込んでしまうというのは防衛上は不思議な構造で、日本の戦国武将なら水を外周に回して堀にしたことだろう。内側に引き込むという発想はどちらかというと庭園の造り方に近く、ここからも本気で戦闘用の城を作ったのではないことが見て取れる。いくら城壁が堅牢でも、この水門から外敵が侵入できてしまうからだ。
…などというと、なんだかケチばかりつけているような書き方だけれども(^^;)、王族の離宮としての性格が主と考えれば、まあ有り得なくはない。文化的な価値と戦闘での実用性は、切り離して考えるべきだろう。
■城壁を歩く
やがて蒼竜門付近の停留所でバスのコースは終了した。
降りて壁面に近づいてみると、朝鮮式の正方形にちかい花崗岩ブロックを漆喰で固めた様式であった。ソウルの景福宮(王の居城)と同じ様式で、どうやらこれが朝鮮式石壁のベーシックデザインであるらしい。
さてここからは、しばらく徒歩で散策してみよう。これは城内に入る主要な入り口のひとつ、蒼竜門の全景である。構造的にはソウルの南大門と類似している。
石積みの色がばらばらなのは、朝鮮戦争当時にここが南進してきた北朝鮮軍の陣地に使用され、その争奪にともなう攻防戦で破壊されたためである。朝鮮戦争による城郭の破壊は広範囲におよんでおり、1970年代にはいって修復工事が行なわれ、現在のような状況にまで回復している。
ちなみに観光パンフレットには、日本によって歴史抹殺が〜ということは書いてあるが、朝鮮戦争のことは一行も書いていない。
こういうダブルスタンダードは彼らの頭の中では矛盾しないらしいけれど、日本人としてはちょっと許容しがたいところがある。彼らは都合の悪いことはすべて "日本人が悪い" というロジックで片づける。その際、事実関係などはまったく関係がない。まあ百万歩譲って、心の中で思っているぶんにはかまわないが、それを日本人向けパンフレットに日本語で書くなと言いたい。地元にカネを落としていくお客様に気をつかう神経がないのか、おめーらはっ!!ヽ(`д´)ノ
さてそれはともかく、修復された楼の部分に入ってみる。大陸らしい鮮やかな色彩である。全体的に複雑な彫刻がある訳ではなく、彩色による装飾が主となっている。こういう様式は中国/台湾でも共通で、別に手抜きというわけではない。田舎の神社の小さな社殿にまで真面目に彫り師が彫刻するのは日本くらいなのである(白木の文化だからそうなってしまうらしい ^^;)。
色彩的には、赤が多い中国式に対して、緑の多さが目に付く。文様は唐草と花が中心で、飛天や神仙、貴人といった人物はおろか、鶴/亀/象や獏や鳳凰といった動物系の装飾も見当たらない。全体的に抽象模様のみで装飾されているという印象だ。イスラム建築っぽくて面白い傾向だけれど、なにか理由があるのだろうか。
楼から城郭をみるとこんな感じになっている。壁が低そうにみえるのは盛り土がしてあるからで、壁の外側は5mほどのほぼ垂直の壁である。有事にはこの土手を兵士が走り回り、小窓から火砲を撃つことになる。
その盛り土の上に、矛に結んだ旗がはためいていた。ここは東側なので旗の色は青である。色は風水(五行)における方角をつかさどる四神に応じて決まっている。日本では陰陽道に通じる思想の産物だ。
それにしても、こうしてみると本当にミニ万里の長城といった風情だなぁ・・・。
朝鮮王朝が何を作りたかったのか、これを見るとなんとなく分かるような気がする。基本的に中国の一部になりたい、という欲求があって、そこに日本の築城技術を拝借してアレンジを加えているといったところなんだろうな。
<つづく>
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