2007.04.21 消え行く史跡 〜埼玉飛行場跡地〜(その2)




■2007.04.21




さてそれで現況の話にもどる。昨年末に確認できた格納庫跡の土台やコンクリート片は、実に几帳面に片付けられてしまって痕跡をさがすことはほぼ不可能になっていた。




駐車スペースになっていた部分はかろうじて残るかも・・・と淡い期待も抱いていたが、はやりきれいさっぱり。




こちらは団地側からみた造成地。やはり外部から土を入れて全体的に土盛したらしい。




飛行場中央道路との境界部。下水工事が行われてこちらも綺麗さっぱりである。




これで坪単価7万円・・・バブル絶頂の頃の1/3の水準だな。造成の効果があったのか、さっそく商談がすすんでいるらしい。まあ不動産取引に対して第三者としてなにかをいう立場でもないので、このへんはよろしくやってくださいとしか言いようがない(^^;)




もうひとつ、第二格納庫跡付近にプレハブが建った。どうやら東北自動車道の黒磯インター造成工事の事務所らしい。黒磯PA付近に新ICを作り、その目の前に巨大ショッピングセンターを作る計画があるのは知っていたけれど、具体的に動き出したということか。。。あんまり下品な開発はして欲しくないんだけどなぁ。




造成された跡地には、埼玉小学校から飛んできたと思われる桜吹雪が一面に散っていた。ひとまず、英霊の御霊の安らかならんことを。

【完】




■追記(資料紹介)




那須の太平洋戦争(下野新聞社)は当時の記録を直接当事者に取材してまとめられた良書である。いきなり最初に村山富一首相(発刊当時)の電波談話が乗っていたりして面食らうが、思想的な作文はほとんどなく、淡々と資料と証言が連続するデータブックのような構成になっている。編集員の多くは教育関係者だが、左翼っぽい面子の割には旧日本軍に対する変な感情もなく割と公平に記述してある。




興味深いのは米軍資料なども豊富な点で、交戦記録なども詳細に載っている。戦後進駐してきた米軍が軍用機をクレーンでひっくりかえして爆破したなど、証言も具体的で生々しい。これだけ詳細なローカル資料が2039円で入手可能というのはちょっと凄いことかもしれない。




ところで、この書籍に一人の見習い士官の写真があった。その名を月江冨治郎。のちの黒磯市長である(黒磯市は後に西那須野町、塩原町と合併して現:那須塩原市となっている)。市議を経て市長となった後、同氏は昭和53年11月にあの碑文を書くのである。



日支事変から第二次世界大戦に突入した日本陸軍は飛行操縦将兵の早期養成に迫られこの地に昭和十三年から三年の歳月をかけて面積約二百八十ヘクタールの飛行場を完成した。爾来、熊谷および宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として下士官、特別操縦見習仕官、少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を繰り返し、卒業後はつぎつぎと第一線へ配属されていった。

戦況熾烈となった昭和二十年四月茨城県より鉾田教育飛行師団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機の訓練基地として神鷲隊十二隊が編成され、うち二隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。七月、八月には敵艦載機の来襲を受け将兵並びに付近住民多数の戦死傷者を出し、また飛行場開設以来猛訓練に依り幾多有為の士が殉職せられた。

その門防衛整備にあたった軍人軍属、近隣から動員された老少婦女子を含む各種奉仕隊も共に祖国の勝利を念じつつ辛酸を分かち合ったのである。時代の流れは刻々にかつての面影を消し去ってゆく。幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者は世界の平和と日本民族永遠の繁栄とを祈りこの地に記念碑を建立する。願わくばここを巣立ちここに戦死せられた人々の霊の安からんことを。




「幸い今日まで生を得たわれ等当時の関係者」 ・・・というのは、こういうことだったのだなぁ。そして、まさに今回 「時代の流れはかつての面影を消し去って」 しまった訳だけれど・・・。

とはいえ、まだ黒磯南高校側の施設跡は健在だ。もうすこし、気長にこの基地の跡を追いかけてみよう。


<完>