2007.04.30 那須疏水を尋ねる(その6)
せっかく源流から追いかけてきたので、疏水の行く末を確認してみたくなった。そのような次第で野崎街道を大田原市街地方面に走る。
疏水の流れはライスラインを流れ下ってきた別の流れと合流して、今度はライスラインに沿って黒羽方面に向かっている。このライスラインを下ってきた別の流れとは、那須疏水の縦掘の ”成れの果て” と思われ、状況はやはり舗装面で覆われた完全な暗渠である。ところどころにある網状のフタが、かろうじて水が流れていることを示している。
そのまま大田原市に入り、実取。側溝のフタを覗き込んで水の流れを確認しながら追いかけているのだけれど、知らない人が見たら完全に 「挙動不審」 人物だな・・・(笑)
ニコンの倉庫脇からようやく暗渠を脱してふたたび日の目を浴びる那須疏水。
ここまでくると、もはや灌漑用水の体は成しておらず、水深も3cmくらいしかない。ちょっと日照りが続けばすぐに干上がってしまうだろう。まさに水が届くか、届かないかギリギリの条件なのがこのあたりの地勢なのである。
その最後のチョロチョロとした流れが、サイフォン状の穴の中にゆるゆると消えていく。
そして反対側の穴からは、水は出ていなかった。周辺の用水堀らしい溝を調べてみたけれど、どこからも流れ出してはいない。ここで地下の砂礫層に浸透してしまっているようだ。
つまり、ここが那須疏水の終点ということになるのだろう。広大な那須野を潤した疏水は、下流の別の河川に抜けたり池や湖に注ぐのではなく、大地に吸い尽くされて染み入るように消えていたのである。
そこは大田原市滝沢付近。もう箒川にほどちかい、水田と麦畑の混在する農地の中だった。
付近にはモーター小屋がいくつも稼動し、地下水をくみ上げて水路に流していた。
ここから南側は、疏水に頼らなくても生きていける。モーター小屋から流れ下る水路が、それを物語っているように思えた。
<完>
■あとがき
那須疏水を追いかけてみよう、という企画はほんの思いつきではじめたもので、こんな長いレポートになろうとは全然予想していませんでした(^^;) でも実際に走ってみて、また過去の歴史を調べてみて、改めてこの疏水開削プロジェクトの凄さというのを実感しています。本編には書きませんでしたが、特に疏水取入れ口で断崖をくりぬいた1.2kmに及ぶトンネルは、なんと印南丈作、矢板武らの私費で工事を進めた部分なんですね。あれって、もの凄くシビアに標高を維持しないといけない部分なので、ちょっと測量を間違えたらエライことになっていた筈なのです。分水の仕組みや熊川/蛇尾川越えのサイフォンにしてもよく考えられたもので、明治の土木工学って凄いじゃん!という所感です。
ところで開拓初期に成立した華族農場(→那須疎水による給水を前提としていた)のその後ですが、国家予算をつぎ込んでどどーんと疏水を通してはみたものの、やはり武士の商法・・・10数年くらいで次々と経営破綻したようです。そして農場は経営権を売却したり、土地の一部を開拓民に分譲したりして一応の民営化が図られていきます。そしてトドメにGHQによる戦後の農地解放でバラバラ・・・(^^;) でも、この地域の 「地域性」 を形作ったのはやはり華族農場時代だと思うので、今後も機会があれば調べてみることにしましょうヽ(´ー`)ノ
ところで那須野ヶ原に展開した華族農場のうち、毛利農場、大山農場は現在ではそれぞれ黒磯市街、西那須野市街となっており、農場であったころの面影はほとんど残っていません。現在の千本松牧場に残っている面影が、かろうじて往時の状況を伝えているように思われます。
<完>
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