2007.05.01 蟇沼用水を訪ねる(その2)




■蟇沼集落




さあ、用水を追いかけるぞ・・・と勇んで蟇沼集落に 「上がった」 のだが・・・いきなり困ったことになった。用水と集落が離れすぎているのである。自分の集落に引いたはずの用水なのに、あれれ?・・・という感じなのだ。




これは河原に降りる道の途中から下を見下ろしたもの。蟇沼用水は集落から30mほども低い崖の下をながれている。




不思議だな〜と思っていたところ、意外なところに答えがあった。県中産間地域総合開発事業の記念碑である。平成12年、総事業費1億円という、土木事業としては極めて零細な規模の整地と水利工事が行われた。これに対する住民の感謝の仕方はただものではなく、それは碑文にもあらわれている。そこにこの集落の簡単な歴史が書いてあった。




碑文の冒頭を引用する。「当地区は町の北部に位置し十九戸の集落である。遠くは蛇尾川のほとりに粗末な居を構え細々と暮らしをたてていたが度重なる洪水に耐え切れず、墓石を背負い上げこの地に住んだのは四百年前と言われる」 …なるほど、そういうことだったのか。




位置関係を整理するために、カシミール3Dでこの地区の立体地図をつくってみた。蟇沼用水は蛇尾川の河岸段丘下側を流れているが、これは取水口の標高で決まってしまうものでどうしようもない。ところで現在の蟇沼集落は段丘の上側に位置しているが、ちょうど蟇沼用水の高さ付近に非常に細長い段丘がもう一段ある。

神社の位置は時代が変わってもそうコロコロ移動しないだろうと仮定すると、かつての蟇沼集落は神社付近のより河原にちかい河岸段丘にあったと思われる。ためしに降りてみると、現在でもわずかばかりの細長い耕地があり、蟇沼用水は同じ高さで流れていた。高さは川床からわずか2〜3mしかなく、たしかに大水が出れば流されやすい立地といえる。

さきの1億円事業は、崖の上の集落周辺に水田12haを造成し沢水を引く事業だったらしい。400年の悲願・・・というと大袈裟かもしれないが、ここの集落にとってみれば大きな出来事だったようだ。




ちなみに扇状地の標高が下がり、用水面が谷底を脱して台地に乗っていくのは折戸(おりど)付近である。よくみると那須疏水の用水の上げ方と一緒だな・・・。慶長年間といえば戦国末期だけれど、この頃にはローカルな農民層にまでこの用水開削の技術は一般化していたということだろうか。

ところで↑の3Dマップでは蛇尾川の河岸段丘の下に道路や住宅街があるように見えるが、道路はともかく住宅に関しては 「分譲地の区画がある」 というだけで団地が造成されているわけではない。河岸段丘の底といっても状況は山林である。ただまあ、数百年に一度規模の洪水が起これば蟇沼集落の二の舞になりそうな位置関係ではある(^^;)



 

■折戸〜横林




折戸のr30とr259の交差点付近まで降りてくると、蟇沼用水は河岸段丘から平地に乗ってくる。この後はr259(接骨木街道)とかなりいい加減に平行して走ることになる。なにしろ昔に引かれた用水なので現在の比較的真っ直ぐに整備された舗装道路とは経路が一致しないようなのだ。




折戸付近の分水口。那須疏水と違って背割り式ではなく、単に穴をあけて簡易水門がある・・・という作りになっている。明治以降農業用水として開放された菱沼用水だが、このあたりでは那須疏水のように遠くまで分水路を引っ張っていく・・・という使われ方ではなく、あくまでも沿線域の田畑に短く引いて使うという利用状況のようだ。




用水は上横林付近になるとr259から離れて見えなくなってしまう。国土地理院の1/25000地図をみると集落は水路沿い側にあり、どうもこの付近では旧道は堀にそっていたのではないかという気がしないでもない。さてそんな道路から離れたところの蟇沼用水はどんな状態なのだろう。やしお温泉側に入ってたしかめてみた。




用水はr259から200mほど西よりの牧草地のなかを流れていた。




これを見る限り旧街道の面影のようなものはちょっと感じられないなぁ・・・(^^;)




さらに下って藪の中。そろそろ横林にさしかかるあたりで・・・




蟇沼用水は那須疏水と立体交差する。上を流れるのが蟇沼用水、下の太い流れが那須疏水である。こうして比較すると用水の規模がまったく違うことがわかる。蟇沼用水はこれでも開削当時から拡張されているのだが、本格的に那須野を開拓するにはやはり那須疏水を待たなくてはならなかったといえるだろう。

ところで↑写真では蟇沼用水から那須疏水側に分水する水路(左上)が見えている。これは昭和42年〜平成7年まで続いた那須野ケ原総合開発事業で用水の統合が進んだことで設けられた放水路である。




那須疏水を越えた蟇沼用水は、ふたたび笹の生い茂るなかを流れていく。




立体交差の付近はクルマの乗り入れも出来ず、徒歩で数百mほど歩いて到達する。付近を見渡しても見える人家はこの一軒だけ。こんなところを開削して最初に水を通した先人は偉いねぇ・・・




r259をさらに下って横林集落付近に達すると蟇沼用水は道路沿いに戻ってくる。堀に玉石が積んであり、洗い場の段もみえる。ここは長らく飲用水堀だったのでその名残だろうか。




やがて用水は横林小学校前を通る。小学校前には那須野ケ原総合開発の案内板があり、根性を入れずにちょこっと見学する程度であればここに来て前後100mほどを見れば 「とりあえず蟇沼用水を見た」 という気分になれるだろう。




■接骨木




さらに下って、接骨木(にわとこ)まで到達。開削当時はこの付近までが用水路で、名称も 「接骨木堀」 と称したらしい。見れば生活廃水は堀に流さず別水路に流す工夫がしてある。




接骨木からふたたび水路はr259を離れ井口工業団地脇をかすめていく。真面目に追いかけようとすると結構大変だな・・・(^^;) もうあと2kmも南下すれば西那須野の市街域に入ってくる。




カゴメの工場脇から西富山付近で蟇沼用水は国道4号線を越える。・・・が、水路を追いかけようにも、さすがに交通量が多すぎてこの周辺ではクルマを停めにくい。雨も降っていることだし日を改めてR4からさらに600mほど進んでだ動公園あたりから再開することにしよう。

<to be continued>