2007.06.23 三島 (その2)
碁盤の目の西側に抜けると、蓋をされてすっかり暗渠になってしまってはいるけれど那須疏水の第3分水が流れている。すこし上流の千本松では水道水の原水として使われている流れだ。この付近の開拓が成就したのもすべてこの水があったからこそである。
那須疏水を越えて、開拓地を見下ろすかたちで存在するのが烏ヶ森神社。烏ヶ森というと花見の名所である公園のほうが有名になってしまった感があるが、公園はあくまでも後付けのもので、重要なのは神社の方である。
これが烏ヶ森神社。創建は平安中期の頃と言われ、江戸末期の頃には稲荷神社として上石上村(現大田原市域)の村社として存続していた。それが開拓神社の性格を帯びるのは、明治14年の明治天皇東北行幸以降のことである。
東北行幸の際、ここを訪れたのは天皇名代としての有栖川織仁親王であった。現在も神社に掛かる扁額は親王の書によるものである。この行幸に先駆けること2年、明治12年に後の総理大臣松方正義、伊藤博文がここを訪れ那須野ヶ原を視察、開拓事業への協力を約束したという。
中央政府の有力者を説き伏せ、開拓事業を推進したのは、地元名士の印南丈作、矢板武である。いまでも神社内に肖像の飾られるこの2名は、その功績を認められ、ともに神としてこの神社に祭られている。祭神の表記をみると、天照大神、豊受大神、倉稲魂神に並んで印南丈作大人命、矢板武大人命とある。なんとも凄い面子(めんつ)が並んだものだが、天照大神と並んでしまって本人たちが居場所に困らないか少々心配になる(^^;)
神社の脇に、その印南丈作の功績を讃える碑が建っていた。
これも漢文なので全部読むには根性が足りないが、撰文(漢文を書いた人)は枢密顧問官佐々木高行侯爵、文字を起こした書家は貴族院議員金井之恭(明治三書家の一人)と、かなりの地位の高い人が関わっている。こうしてみると、単なる地元の大親分という以上に、それなりに中央のお偉いさんを引っ張って来るだけの影響力をもった偉い人だったのかもしれない。
そうこうしているうちに、雲が晴れてきた。
境内に夕日が差し始める。
神社の参道脇から、暮れ行く三島の市街地を眺めてみた。碁盤の目の区画に、現在は整然と住宅が並び都市景観をかたちづくっている。印南、矢板らが着手し、三島が政治力をもって推し進めた那須野ヶ原開拓の結果は、はたして彼らが望んだ形で結実したのだろうか。
碁盤の目の北端から見る夕暮れ。澄んだ青空に夕日のグラデーションが綺麗に出た。旅と写真のサイトらしく、やはり最後は写真で絞めようヽ(´ー`)ノ
三島から山側(北西側)は、いまもって農業区域である。そこではおおまかに那須疏水本流を境にして南側が米作地帯、北側が酪農地帯を形成している。写真的な物言いをすれば、山まで視界が通るのも開拓で樹木が整理された結果であって、絵になる田園地帯が形成されたのは先人の努力の賜物といえるだろう。さすがの三島県令も120年後にとある暇人がそんなつぶやきをするとは予想しなかっただろうが…(笑)
<完>
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