2007.06.28
沖縄紀行:琉球八社を巡る −1日目ー (その3)




■ 護国神社(ごこくじんじゃ)




同じ公園内にある護国神社を尋ねるべく、陸上競技場方面に移動した。途中、心海上人の墓を見る。この人も真言宗の僧で16世紀初頭に沖縄で布教活動を行っている。1520年代の頃というから琉球王国の絶頂期の頃だろうか。




そして、護国神社。旧招魂社であり靖国神社とも関係が深いが、神社本庁からは独立した社格をもつ。明治維新以降の戦没者を祀るだけでなく、沖縄戦に関しては犠牲となった一般住民も合祀されている。その総数17万9200余柱のうち、一般住民は11万1660、軍人軍属は6万7568柱である。




参道から拝殿方面を見る。原則各県にひとつずつ存在する護国神社だが、椰子の木の似合う南国的なムードがあるのは沖縄県護国神社くらいのものだろう。

基本的なことを確認しておくが、沖縄の終戦記念日は、8月15日ではない。6月23日・・・つまり今日から5日前が、それにあたる。米軍の猛攻により南部の摩文仁付近まで追い詰められた日本軍が、これ以上の戦闘継続を諦めて司令部ごと自決し、組織的な抵抗を停止した日である。沖縄の戦没者慰霊祭はこの日に行われている。




鳥居を抜けて、拝殿全景。おお、いくら日の丸アレルギー?の沖縄でも、さすがにここではきちんと国旗が掲揚されている。




社殿の造りは、神社建築の基本は守りながらも南国らしい開放感がある・・・といえば通りは良いかもしれないが、実のところは最低限の部材しか使っていない安普請である。沖縄戦では社務所を残して焼失し、戦後は昭和34年に仮社殿建築、そして昭和40年に現在の社殿が建てられた。昭和40年といえばまだ米軍統治下のことである。装飾が最小限できわめて簡素(・・・というか素っ気無いほど何もない ^^;)になっているのも、建築許可をとるためにぎりぎり妥協したデザインだったのかもしれない。




このプレハブのようにシンプルな社殿が、護国神社としてはおそらく全国で最も多い戦没者を祀っている。しかしいかに安普請とはいえ、その紋章は菊と桜である。言うまでもないが菊は皇室、桜は日本国を象徴しており、並の社格の神社ではこれを掲げることはできない。これがあるということは慰霊の社としてはきわめて丁重な扱いを受けているということだ。




皇室は戦没者に対しては割とマメな対応をしているらしい。昭和40年(1965年)の社殿再建当時はまだ沖縄は米国統治下でドルが流通していた頃だが、ちゃんと再建祝いを贈っていたりする。ただし昭和天皇は沖縄訪問を望みながらも政治的に叶わず、「天皇行幸」 が実現したのは平成も5年になってからのことだ。




境内には戦没者に対する鎮魂の碑が建っていた。



刻まれた碑文には 「沖縄+戦争」のキーワードでよく目にする、「日本兵による住民虐殺を叫弾する〜!」 などのテイストは、一切ない。そこにあるのは本土で一般的に見られるのと同じように、戦没者に対する感謝の念と、その魂の安らかならんことを祈る姿勢だ。不思議なことに、沖縄でこういう声が存在することが報道で流れているのを筆者は見たことがない。

碑文で注目すべきなのは 「大東亜戦争」 の文字だろう。これは第二次世界大戦のうち東アジア〜太平洋で行われた戦争の、日本側からみた正式呼称である。戦後日本を占領したGHQはこの用語を禁止し 「太平洋戦争」 という一般的な言葉に置き換えた。この碑文が書かれたのは今から10年前・・・戦後50周年のときだが、その時点で大東亜戦争の文字を使ったところに、沖縄の戦没者遺族の立ち位置が示されているように思われる。




それにしても、沖縄で特に南部方面を巡ろうとすると、いやでも国家とか主権とかイデオロギーとか、そういうものと向き合わなければならなくなる。日清、日露戦争は既に歴史になったが、「大東亜戦争」 は少なくとも沖縄ではいまだに尾を引いている部分があるのだなぁ。うーむ。

<つづく>