2007.08.16 木の俣地蔵
遠出をする余裕もないので近場の木の俣地蔵に入ってまいりましたヽ(´ー`)ノ
木の俣地蔵は、板室街道の本線から外れ深山ダム側に3.5kmほど入ったところにある地味〜〜〜な史跡である。伝説では、前九年の役(1051-1062)で安倍貞任(あべのさだとう)がこの地に陣し、自分の守本尊である地蔵尊を桂の樹間に置いて戦に出たために源頼義との一戦に敗れた、とされている。
前九年の役とは、平安時代中期の奥州陸奥国の覇権を争う朝廷 vs 地元豪族安倍氏の戦いをいう。大和朝廷は奈良時代〜平安初期頃までに陸奥国の領域を現在の青森県域にまで広げるが、その支配は完全なものではなく、たびたび俘囚(朝廷の支配下に入った蝦夷)の反乱がおきた。阿部氏との戦いは12年にもおよび、最終的には安倍貞任の戦死によって朝廷側の勝利に終わる。
それが那須とどんな関係があるかというと、安倍貞任本人については実はあまりないのである(^^;)。前九年の役の主戦場は現在の岩手県南部〜宮城県北部付近であり、地理的に安倍貞任が那須に陣を敷いたとするのは無理があるのだ。筆者的には、おそらく地元ローカルな武士団の戦闘エピソードに尾ヒレがついて、そこに "豪の者" としての安倍貞任が合体していったのではないかと考えている。
もし無理矢理関連付けるなら、どちらかというと安倍貞任と戦った源頼義のほうが、奥州入りする際に東山道を通って那須付近を通過しているのでふさわしいかもしれない。塩原の逆杉(さかさすぎ)などはその系統の伝説である。
さてここが参道入り口である。ここから160mほどゆるやかな坂を上ると地蔵堂がある。
ここは会津中街道から那珂川渓谷(現在の深山ダム)に分岐した山道が抜けてくる場所にあり、街道現役時代は参詣者も多かったらしい。現在はひっそりとしてほとんど人気はない。
その先に、異形の桂の木があった。栃木名木百選にも選ばれている "地蔵隠置の木" である。周囲は7mほどあり、樹齢は不詳である。根元から小枝が一斉に伸びているさまは不思議な感じがする。
桂の木を見上げたところ。うーん、こういうときには広角レンズがほしい・・・(^^;)
裏側にまわると、木には大きなウロがあり、苔生した小さな地蔵尊が祀られていた。ウロの内部は樹勢回復のためだろうか、樹脂を塗布して保護処置がとられていた。周辺に一斉に生えた小枝は、もしかするとこれで樹勢が回復して一斉に芽吹いたものかもしれない。そうすると・・・あと20〜30年後には千手観音のような壮観な樹形になりそうだな(^^;)
地蔵堂は、桂の木の30mほど上側に建っていた。
地蔵堂の成立時期はわからない。灯篭(?)には享保四年の文字がみえるので少なくとも1720年までは遡れるだろうけれど、現在の建物はオリジナルではなく昭和50年代に改築されたもののようである。
会津中街道の開削が1695年であることを考えると、付近の交通量が増えたことで地蔵堂建立(または改修)に至ったと考えれば自然かもしれないが、推定するにしてもちょっと資料が少なすぎるな・・・
ところで、よくみると鍵が開いている。・・・無用心だなぁ。
せっかくなので一礼して地蔵堂の中を撮ってみた。・・・あれ?
なんと、地蔵尊は一体ではなかった。こういう祀り方はあまり見かけない方式だが、ここには代々の御本尊がまとめて安置されているようだ。
・・・と、ここでカメラに異変がっ!ヽ(@◇@)ノ
突然、撮影ができなくなったので 「ええーっ、まさかオヤシロ様の祟りか?」 と自己ツッコミを入れながら試行錯誤すること数分。…結局、いろいろ試した結果、フラッシュカードの抜き差しで復活?したように見えたのだが、ちょこちょこ画像が消失しているようなので撤退することにした。
のちにこれはフラッシュカードの寿命サインだと判明したのだが、妙なところでレポートがブツ切りになってしまったので後ほどリベンジしてみたい(^^;)
<完>
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