2008.06.08 松子神社/籠岩神社に山の神を訪ねる (その2)




■板室大日堂




さて山神ということでは次の目的地は板室の籠岩神社なのだが、せっかくなので大日堂に寄っていくことにする。かつての幹線道路である会津中街道との位置関係は↑このようになる。会津中街道は物流路として開削された道路なので、温泉とは直結していない。




温泉に抜ける道は大日堂のところから分岐して山道 (→現在の舗装された道路より山側の斜面沿いに古道が通っていたらしい) を進んでいくことになる。

ここには古い道標が立っている。説明文によれば、湯治に来た体の不自由な客がおり、あまりに身なりが汚らしいので共同浴場には入れず、外に別の湯壺を作って入れさせたところ病が治って踊りを踊って帰ったといい、その里の者が同じ病に苦しむ者のためにと感謝の意をこめて道標を立てたという。天保7年(1836)の頃のことだそうだ。




大日堂はそんな道標のすぐ脇に立っている。いまは空き地になっている隣接した平地にはかつては行者堂があり、白湯山に登る修験者達が宿泊したらしい。こうしてみると板室宿は結構な繁栄をしていたようだなぁ。




さて大日堂の内部をちょっと覗いてみた。おお大日如来像が鎮座している…ヽ(´ー`)ノ

この像はもともとは板室と百村の住民が白湯山(茶臼岳)に奉納しようとして発注したものらしい。しかしあまりに重厚で立派なものを造ってしまったために重くて山に担ぎ上げられないという冗談のような事態となってしまい、やむなくここに祀ったのだという。いまではすっかり緑青を噴いている青銅像だが、よくみると一部金箔が残っていてかなりゴージャスな仕様で造られたことが伺える。

大日如来は山岳仏教の御本尊といわれるが、要するに真言密教の仏である。"なぜ大日如来か" というのは空海関連の書籍を読むとたいてい紹介されているのだが、守り本尊を決める結縁の儀式で決まったものだ。空海は唐に留学中、長安青龍寺の恵果和尚から密教の奥義を伝授(灌頂)されるのだが、その儀式で目隠しをして曼荼羅の上に花を投げ、落ちたところが大日如来(=ど真ん中)の上だったという。のちに空海の開いた真言密教は日本古来の山岳信仰と結びつき、その結果このご本尊=大日如来が日本各地の山岳に祀られることとなっていったようだ。




白湯山信仰は神道的な山神とはイコールではないが、神仏混交の民間信仰の次元からみればどちらも非常に近しいもののように思える。村人にとってみればカミでもホトケでも霊験灼処(あらたか)な偉い存在であれば祈りを捧げる対象として区別はなかっただろう。このへんは、そのうち暇があったら今後ゆるゆると調べてみたい。




神仏混交の痕跡として大日堂とセットで古社が祀られていた。左が天神様つまり菅原道真、右はよくわからない。面白いのは仏教施設である大日堂の末社という形で同じ敷地内にこれらの小社が並立していることで、カミとホトケが同じ空間内に共存していた往時の様子がよくわかる。




建築物としての社はベニヤ板葺きのローコスト品だが、合格祈願の幟らしい奉納物が多数あるところを見ると、ここが現在でも生きた信仰の場であることがうかがわれる。

御神体代わりに鎮座しているのはなんと達磨(^^;)だったりして、お世辞にも壮麗な社殿とはいえない。しかしこんな社殿であっても降りてきて村民の願いを聞いてくれる神がいるなら、それはきっと良い神なのだろう。




■籠岩神社




板室集落から脇道を2.5kmほど進むと、温泉街に至る。その途中の崖の上に、籠岩神社が鎮座している。クルマで走っていると見逃してしまうような位置関係だが、ここにも山の神が祀られている。

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これが神社の入り口である。急斜面の上130mほどのところにあるため鳥居は参道下に一基だけ。石段があるのも最初の数段だけであとは山道である。



とりあえず、くねくねと伸びている参道を登ってみよう。




道路下からは樹木に隠れてわからないが、実はこの付近は表土が薄く荒々しい岩山である。その岩の割れ目を縫うように樹木が繁茂し緑の景観を形作っている。




古神道における山の神というのはこういう岩鞍のようなところに宿ると考えられたらしい。仏教の影響をうけて建築物としての社殿が造られるようになる以前の信仰とは案外素朴で、神は身近の具体的な依代と一体視されている。




そんな崖の上、大きな岩壁が立ちふさがるところに小さな社が建てられていた。ここが籠岩神社である。社殿は何度か朽ちては修復されてきたようで、細工年代の異なる石材が組み合わされていた。




御神体には大山津見(おおやまつみ)神と書いてある。記紀神話ではイザナギ/イザナミの子とされる大変古い神で、山の神の総本山といった位置づけになっている。神話では野の神といわれる鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)と婚姻して様々な諸神を生んでおり、富士山に祀られる木花咲耶姫(このはなさくやひめ)神もこの大山津見神の子である。

一般に山の神=女性とされるのは、この木花咲耶姫神のことかもしれないと筆者は考えている。富士山を御神体とする浅間神社 (→富士山の8合目より上の部分はすべてこの神社の境内である) は主祭神として木花咲耶姫神を祀っており、その末社は全国1300社を数える。ただし確証をもって言えるほどの材料を筆者は持たないので、あくまでも推論以上のことはいえない。

※姉の石長姫神なども含め多少ややこしい神話もあるがここでは省略(^^;)




ところで籠岩神社の "籠岩" とはこのさらに奥側にある。




岩壁に無数の穴の開いた一角に、山神の像が奉納されているのである。この穴の配置が籠(かご)の目のようにみえるので籠岩神社の名が付いたらしい。神社の名前の由来からみても、さきほどの社殿よりはこの岩壁そのものが大元の信仰の対象だったように思われる。




ここに祀られている山の神の像は、みな乳房をあらわにした女神の姿をしている。板室温泉には湯治で乳癌が治ったとする伝承があり、これにちなんで温泉の湯治客が帰郷するさい、山の神に感謝して石像を奉納していったものと伝えられている。奉納が始まった時期がいつの頃まで遡れるのかはわからない。



ちなみにこの像について案内板では "地蔵" と書いてあるのだが、乳出しロンゲ女相の地蔵というのはあまり聞いたことがない(^^;)。かつて本来の地蔵菩薩が道祖神と集合していったように、ここでは山の神と地蔵菩薩が不思議な習合をして湯治客や村民に理解されていたということだろうか。




岩壁の籠の目状の侵食穴は数十m上まで続いているが、どのあたりまで像が安置されているのかはわからなかった。

…それにしても、いままで注目してこなかったような小さな神社仏閣でも、ちょっと巡るだけでもいろいろな民俗的な信仰の痕跡が残っているものだなぁ。


そんな訳で、あまり明確なオチは付かなかったけれど、今回はここまでヽ(´ー`)ノ

<完>