2008.06.14 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編2 (その3)
■孝謙天皇神社
さて下野薬師寺の周辺には、道鏡と対になって語られることの多い孝謙(称徳)天皇についても関連性の深い史跡が伝わっている。"称徳天皇" ではなく "孝謙天皇" の称号が使われているのは、正史である続日本紀において称徳(旧字体では稱徳)天皇との記載が実は1箇所もなく、"宝字稱徳孝謙皇帝" との表記が多いことに由来するのかも知れない。あるいは道鏡とのラブロマンスとともに語られることが多いので、保良宮で道鏡と出会ったときの孝謙上皇の称号から、孝謙天皇との呼称が好まれたのかもしれないが、真相はよくわからない。
下野薬師寺から北西に約5km走るとJR石橋駅に至り、そこからさらに西に向かって2kmほど進むと石橋中学校が見えてくる。その手前の十字路脇にこんもりと茂った小さな杜があり、ささやかな鳥居が建っているのがわかる。
ここが、孝謙天皇神社である。
伝説では、配流された道鏡を哀れんで(あるいは慕って)この地まで追ってきた孝謙天皇が病没して祀られたとする言い伝えもあるが、それは史実に照らして有り得ない。
ただしもうひとつ別の伝説もあり、それによると道鏡とともに孝謙天皇に使えていた高級女官、篠姫、笹姫がやはり下野国に配流となり、もう二度と都には戻れないと悟って女帝の御陵より分骨 (※奈良時代には既に火葬が導入されているが、あるいは墳墓の土をもってきたという説も) して頂き、銅製の舎利筒に収めて持ってきたという。当初はそれを西光寺という寺に安置し供養していたが、後に廃寺となったので村人がその舎利筒を御神体として孝謙天皇神社を建立したという。こちらの伝承はそれなりに辻褄が合っており、いかにもありそうな話だ。
ただし現在に伝わる御神体は五輪塔(法要のときのみ公開)であって、舎利塔ではない。
本当に孝謙天皇の遺骨が伝わっているとすれば大変なことである。しかしいまのところ伝承は伝承として取り扱われており、宮内庁も特になにかをしている訳ではなさそうだ。そんな訳で、ここを管理しているのはあくまでも地元の方々である。旧家五家が輪番で担当し、清掃や草刈り、社殿の補修等をしているらしい。
※お世辞ではなく、非常に小奇麗に管理されていて少々驚くほどである ヽ(・∀・)ノ
社殿の内部をのぞくと小さな神棚がひとつ。ただし社殿の奥側一坪ほどが見えないようになっており、どうやらそこが御神体の鎮座場所のようだった。まあ、覗き趣味はほどほどにして、御神体はそっとしておこうか…(^^;)
さて裏側にまわってみた。拝殿裏の本殿にあたる位置には、墓標を模した石塔が建っており、"孝謙天皇" と刻まれている。見れば石塔は風化する度に代替わりしてきたようで、石柵の内側に2基(先代と先々代?)、周辺にも既に原型を留めないようなものも含めていくつか古い残骸が散見された。現在の石塔は明治13年の作とある。
こちらが先代?と思われる風化した石塔である。もはやボロボロで文字が彫られていたかどうかもわからない。明治13年作の現在の石柱(=127年前)の風化具合と比較して、400〜500年くらいは遡りそうかなぁ…。とはいえ、材質によっても風化の度合いは違うだろうから、あまり断定的なことを言うのはやめておこう。
ところで伝承にある篠姫、笹姫の墓はここから南に500mほど行った付近に戦前まで保存されていたという。篠塚、笹塚と呼ばれていたそうだが、残念ながら現在は失われている。せっかくなので痕跡が残っていないか探してみたのだけれど、筆者には見つけられなかった。うーん、残念。
・・・それにしても、篠姫、笹姫のエピソードから伺えるのは、貴人が一人失脚するとそれに付随して周辺の人々もまた同じく配流の道を歩むという連座の鎖の長さだろうか。
実をいえばこの地の周辺には、道鏡に同伴してきた者が○○に住み着いた、とされる伝承がいくつも伝わっている。別に道鏡の事例だったから特別な何かがあったというわけではなく、都に戻ったところで希望を見出せない人たちが、自らの選択で地方に土着していく…という流れの走りが、このあたりから垣間見れそうに思われた。
余談になるが、この "都から地方へ" という人の流れは、中堅〜下級の貴族層を中心に、この後200年ほどの間に大いに加速していくことになる。理由は、藤原氏一強時代の到来である。
飛鳥〜奈良時代には、蘇我、物部、巨勢、平群、橘、安倍、大伴、藤原、多治比、紀、石川…など有力貴族だけでも多数の家系が存在し、朝廷の高級官職は1家系で1人が代表して就くなどの暗黙の分配ルールがあった。しかし道鏡登場の前後から主要官職を藤原氏が独占する傾向が強まり(→だからこそ藤原仲麻呂は周囲の反感を買ったのだが)、時代が下って平安中期以降になると政権中枢の権力争いは藤原氏内部での抗争が主流になってしまう。
奈良時代末期〜平安時代初期は藤原氏は南家/北家/式家/京家の四家で抗争を続け、やがて北家が独占的な地位を築くと、さらにこれが近衛家/鷹司家/九条家/二条家/一条家に分かれていく。これがいわゆる五摂家で、それ以外にも傍流の家系として三条家/四条家/西園寺家/閑院家/勧修寺家/花山院家/御子左家/日野家/中御門家…などが並び立った。そこらじゅう藤原だらけなので皆途中から姓を名乗らなくなってしまい、分家した家の名前で識別するようになったのは、まあ御愛嬌といったところだろうか( ̄▽ ̄)。しかし字面(じづら)だけ見ていると気が付かないのだが、ネズミ算式に増殖したこの連中は全員 「藤原一族」 なのである。
このような潮流のなか、奈良時代末期頃からの中央政界は、次第に中堅以下の貴族にとってほとんど出る幕のない寂しい舞台となっていった。藤原氏以外で官職に就いた勢力としては平安中期に源氏、平氏などが出現してくるが、これらは臣籍降下した皇族が出自なので中堅以下の貴族には関係がない。
・・・このような背景から、朝廷での役職にあぶれて居場所のなくなった貴族たちは、自ら進んで地方に下向し、地方の有力豪族などと婚姻関係を結んで土着していく道を選んでいくのである。のちに彼らは武士となって歴史に再登場してくるのだが、その源流にあるのは奈良朝末期の 「藤原氏と天智天皇系皇族との結びつき」 であり、やはり道鏡の時代がターニングポイントになっている。
・・・それにしても、たかが金精神のルーツと侮るなかれ。案外、こんな切り口でも日本史の骨太な流れを読み解くことができてしまうんだなぁ…!! ヽ(・∀・)ノ
■高?神社
さて本日最後の取材先は、宇都宮市石那田の高?神社である。常用漢字でないせいかIEでは 「高?神社」 と表記されてしまい正式な名前が表記できないが、当て字は↑のようになる。(表示不能では困るので、ここではGoogle Mapに合わせて 高龍神社 としておこう)
ここは宇都宮市の領域ではあるが日光宇都宮道路の徳次郎ICと大沢ICの中間ほどの位置であり、ほぼ日光口といってよい地理にある。それが道鏡とどんな関係があるかといと、日照りが続いて困っていた農民を助けるため、道鏡が雨乞いの儀式を行って見事雨を降らせたとする伝説が残っているのである。
場所は、果樹園と水田の混在する丘陵地・・・鬱蒼と茂った林の奥である。もう日が暮れてあたりには誰もいない。由緒書きくらいあってもよさそうなのに、それもないのでちょっと困ってしまった…(^^;) 聞き込み取材を考えるともうちょっと時間配分を考えればよかったかな。
道鏡の雨乞い伝承については、さきの龍興寺の境内にも竜王(雨を司る神=竜神)を祀る古田ヶ池というのがあり、やはり雨乞いの池として知られている。実際に道鏡が雨乞いの祈祷を行ったかどうか公式な記録は見つからなかったが、口伝を重ねる間の習合逸話と考えてもちょっと面白い。
道鏡のイメージはある時点から巨根伝説の勢いが臨界点を越えて急速に悪化していくのだけれど、この伝説は道鏡をヒーローとして扱っているので、案外出自は古いのかもしれない。根拠になる資料があるわけではないのだが、筆者的なフィーリングでは平安時代のかなり早い時期であればこのような伝説が成立してもおかしくはないだろうと思う。
道鏡が平城京を追われて下野薬師寺に入ってから死去するまでの期間は、わずか1年半である。たったそれだけの期間の滞在ではあったが、民話/伝承や神社仏閣の由緒などの合間に1200年もの間、記憶が残っている。これは結構、凄いことである。
そして、そんな土地で過ごした彼の最晩年は、政敵に囲まれていた法王時代と異なり、案外穏やかな日々だったのではないか。…ふとそんなことを思ってみた。
・・・さて、次回はいよいよ最終回である。タイトルにもなっている金精峠に登り、これまでの取材結果をまとめてみたい。誰も期待していないだろうけれど、とりあえず研究を始めたからにはオチはつけなければ♪ (^0^)ノ
<完>
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