2008.09.23 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編3 (その3)




■そして金精神が生まれた




さて、そろそろなにか結論めいたものを書くべき段階かと思う。これまで調べたこと、分かったことから、憶測も交えてひとつの仮説を導き出してみた。それは以下のような物語だ。




日本に仏教が伝わった初期の頃、宗教界には飛鳥〜奈良時代を通じて輸入された雑多な仏教知識が混沌としている。その中には、ヒンドゥ教に飲み込まれつつ発展した後期仏教のエッセンス= "密教" の呪術的な要素が含まれており、タントラ系の性的な呪術やインドの "リンガ崇拝" に似た要素があった。勝道が日光を開山した時代はこのような時期にあたる。日光において、主峰:男体山は千手観音=大巳貴命=大国主(大黒天)=シヴァの化身とされ、時期は特定できないがシヴァのリンガ(男根)に見立てて日光の最奥地にある一山に "金精山" の名が冠された。

しかし平安時代も100年を過ぎる頃になると遣唐使も廃止されて大陸情報は遮断されてしまい、後期仏教が本格的に日本に広まることはなく、密教は最澄/空海の咀嚼(そしゃく)した内容を中心にその後の山岳信仰に影響を与えた。

やがて1000年の時を経るうちに、いつしか金精山を望む峠道に山の神霊を祀った金精神社が祀られるようになった。これが、主に修験者を通じて下界に伝えられていく…




一方、道鏡の登場と栄華、そして没落は、日光山の動きとは直接の関連をもたずに進行した。奈良時代の中央政界ではほぼ10年ごとの血の粛清劇を繰り返した果てに、女帝:孝謙天皇と仏教僧:道鏡が政権を握る。その政策は大仏教土木政策で、巨大建築や寺院保護などが優先され貴族たちには不評な内容であった。やがて女帝は後継者を決めないまま崩御、政権は皇統としては本来傍流であった光仁天皇+藤原氏の手に移ってしまう。政策は脱・仏教路線に変わり、道鏡は下野国分寺へと左遷され1年半後にそこで生涯を閉じる。

このとき政争に勝利した光仁天皇と藤原一族は、自らの後継者としての正当性を示すため、いかに前政権が統治者として不適格であったかを歴史書(続日本紀)に書き残した。悪役としての役回りは皇族である孝謙天皇ではなく腹心の道鏡に押し付けられ、以後この評価が定着していった。ただしこの時点では巨根説はまだ存在しない。

話に尾ヒレが付きだすのは道鏡の死後25年ほど経過してからで、 「独身女帝 vs 宗教者の禁断の関係」 という格好のネタ性から、やがて説話集などで色恋沙汰+巨根説が面白おかしく書き立てられていく。400年を経過した鎌倉時代の頃にはほぼ巨根説の原型が出来上がり、江戸時代には川柳のネタになるまで広く流布するようになった。




これら本来は別々に進行した事象が、やがて途中から習合していく。日光の金精山、および金精神社が男性器を祀っていることから、それが "巨根" の道鏡起源であるとみなされて同一視されていった。この組み合わせで習合が起こったのは、おそらく道鏡が晩年を過ごした下野薬師寺と日光山域が地理的に近かったことも要因のひとつになっただろう。

そしていつしか山を降りた金精神は、子孫繁栄/安産の神として道祖神の役目をも負うようになり、街道筋や温泉地、さらには既存の神社の境内に末社の形で潜り込んで広まっていった。その黄金期は江戸時代で、明治維新とともに淫祠廃止令で多くが撤去されて現代に至る。



…と、こんな物語だ。

筆者は、割と真面目に 「当たらずとも遠からじ…だろうなぁ」 と考えている。もちろん素人調査だから詰めの甘いところはあるだろうし、密教由来説も宗教史に詳しい人なら予測の範囲内で画期的な新説というほどのものではない。しかしWEBを探してみてもあまりこの神様について真面目に考察した研究には巡りあえなかったので、自分なりにそこそこ納得の得られる結論を導き出してみたかった…そのとりあえずの結果が、こんな仮説という次第である。





■旅の終わりに




さて、旅の終わりに訪れようと思ったのは、金精峠を越えて片品村側に抜けて約10km、釣堀+お食事処の白根魚苑である。ニジマス、ヤマメ、オショロコマなどの渓流魚を養殖している観光施設だ。・・・と言っても、もちろん単なる休憩で訪れた訳ではない。




ここの敷地の奥には、峠から下ろされた古い御神体が 「金精神社」 として祀られているのである。




これがその金精神社である。随分ゴージャスな建物だが、それもそのはず、これは武蔵国忍城城主、阿部忠秋が領内の五穀豊穣を祈願して建てたものである。阿部忠秋は徳川家光(三代将軍)、徳川家綱(四代将軍)に家老として仕えた江戸幕府の重鎮である。装飾の彫刻様式が日光東照宮に酷似しているのは、建立時期がほぼ同時期で、おなじく徳川家にゆかりのある建築物だからだろう。




よく見ればしっかり葵の御紋がある。




ここに祀られているのが、金精峠から下ろされた古い御神体なのである。ただし、タネあかしをするとこの建物は最初は忍にあったもの(元は多粕閣と称した)を移築したもので、阿部忠秋の存命中にこのような形で堂内に金精神が祀られていたかどうかは定かでない。




神社に併設された絵馬堂に並ぶのは、すっかり図案化された金精様の列、列、列々々々・・・ヽ(・∀・)ノ
芸術的なものから漫画チック、あるいは一発ネタ狙いなど、さまざまなものが並んでいる。




しかし一方では、子宝に恵まれない夫婦の 「子供が授かりますように」 …との願掛けもたくさん見られた。

サイズの大きな絵馬はいかにも絵心のある人が 「一筆啓上」 したような雰囲気があるけれど、↑写真のような無垢のコケシや小さめの絵馬には、素朴で切実な願いがたくさん書かれていた。




数奇な運命をたどった道鏡も、まさか1200年後に自分がこんな信仰の対象になっているとは思わなかっただろう。

律令制最盛期に孝謙天皇とコンビを組んで政権中枢を握り、強力に仏教政策を推進し、法王とまで呼ばれた男…。それが死後は歴史の表舞台からかき消され、説話集や川柳で笑いのネタにされ男性器をかたどった像に形を変えて、ついにはあきらかに二流以下の雑神として祀られて現代に至る。その落差はすさまじい。




しかしそんな神様にも、願を掛ける人たちがいる。ここに集積するそんな小さな "願い" を、筆者はバカにしたり笑ったりすることはできない。国家鎮護の呪術マシーンだった大仏や国分寺や百万塔では絶対に救えない種類の願いが、いまこの小社に向けられていると思うからだ。

こうやって金精神社がここにあることで、この人たちの魂が少しでも救われるのであれば、それはそれで良いことなんじゃないだろうか…。いろいろ調べた果てに此処に至って、そんなことを考えてみた。




さて、以下は独り言である。宗教史に関わるテーマだけに、心の声で終わるのが適当かと思う。所詮は小さき神のこと、必要な範囲にだけ届けばいい。


…本地垂迹という方便があるという。
仏はさまざまな姿形となって人々を救うのだそうだ。
そしていま、随分風変わりな姿となってそれを実践している古い魂がいるらしい。

本人が望んだとはとても思えない結末に至った訳だけれど、千年経ってそれでも願をかけにくる人がいる。地味ながらも必要とされている。

…そう、アナタがここにいるのはたぶん無駄じゃない、きっと意味のあることなんだよ。




・・・そうは思いませんかね、道鏡禅師 (´ー`)


【完】




■あとがき


いやー、今回の特集も長かった・・・!!ヽ(´∀`)ノ
もう、史料を追いかけだすと次から次へと枝葉が広がって収集がつかなくなります。でも、とりあえず素人調査なりに金精神の謎に挑戦してみました。如何だったでしょう。

後から思い起こせば、日光の歴史から出発したほうがスッキリした構成になったかも・・・という思いは残りました。あれだけ奈良編で調べた結果が、「道鏡は金精山とは直接つながらない」 ですからね〜( ̄▽ ̄)。

さて日光山には鎌倉時代に一大転機があって、第24代座主:弁覚が熊野修験道の修法を取り入れています。これは高野山系、つまり空海の密教の要素が流れ込んだということで、それまでの日光修験道はここで一旦リセットされてしまうのです。それ以前の勝道の修験道というのがどういうものだったのか、ここでわからなくなる。筆者としては金精山の名が付いた時期と神社が成立した時期を特定して、道鏡の文献上の巨根伝説成立過程と比較したかったのですが、どうもそんな都合の良い史料には巡りあえませんでした。うーん。

ところで今回の特集は最後に日光山が出てきて 「じゃあ、他の地域はどうなの? 金精神は日光周辺だけの専売特許じゃないでしょ?」 …という疑問は当然出てくると思います。これについては、下野国にはたまたま道鏡という "そっち系の有名人" がいたために習合がおこったというだけで、密教系の山岳仏教の強い地域であれば、似たような文脈で金精神信仰が定着する余地は十分にあるのではないかと思うのです。まあ素人がそんなことを言ったところで権威も何もないのですが・・・(笑)




さて、あとがきに代えて、長野県松本市の面白い事例を御紹介しておきましょう。これは松本城で展示されていた道祖神で、係員氏に許可を頂いて撮影したものです(撮影は2003年)。山岳信仰の盛んだった長野県では、いまでもこうして男根型の道祖神が生きて伝わっています。後ろに貼ってある写真は正月の行事でこの道祖神を祀ったり、あるいは持ったまま家々を訪問したり…という記録です。男根型のものは特に 「オンマラさま」 と呼ばれたようです。




こちらは、道祖神の形態が男根型から次第に人型に変わっていく様子を展示したものです。長野県で道祖神というと二人像の石仏写真をよく見かけますが、木彫りのものでは男根型のものも結構あるようです。栃木県でこれほど系統だってまとまった資料というのは見たことがありません。さすがは松本市ヽ(・∀・)ノ




これは祭りの様子ですね。「道祖神の通せんぼ」 という正月の民俗行事だそうで、子供たちが 「○○町の道祖神はこちらでござる〜」 と唱えては大人から賽銭(小遣い)をもらったものだそうです。

よくみると後ろに大聖歓喜天と書いた幟が立っていますが、これはまさにヒンドゥ起源のガネーシャ神 (頭部が象になっており非常に特徴的) が仏教のホトケとして伝わったもので、これはまさにタントラ系密教です。日本ではかなりマイルドに解釈されて "夫婦和合に霊験あり" などとされていますが、金精信仰のベースにはやはりヒンドゥからもたらされたエッセンスが含まれていることが伺えます。

それにしても、写真を見る限り昔は正月行事に金精神(道祖神)が自然に溶け込んでいたことが分かりますね。別にイヤラシイものでも教育上不適切なシロモノでもありません。普通の民俗行事のひとつだったのです。




これを戦後になって潰してまわった連中(※)がいます。主に左翼教師とPTAのオバさんたちで、…昔はたしかウーマンリブなどといった運動があったと思いますが、その延長線上で "前近代的な因習" を叩きまくったようなのです。

伝統や文化を破壊することにかけてはこれら自称 "進歩的" な人々は天才的な才能を発揮しますが、長野でもこうやって素朴な民間信仰がひとつ、またひとつ…と息の根を止められていったわけです。

※ただし行事そのものは戦前から徐々に衰退の傾向にあり、すべてを戦後左翼のせいにするのは公平さの観点からはふさわしくない、ということは申し添えておきますw




展示写真の日付には昭和42年とありました…もう40年も前のことです。さて今はどうなっているのでしょうね・・・

筆者のご近所では少なくともこういう形で道祖神信仰が残っているのを見たことはありません。古社にひっそりと残る下野国の金精様群は、まさにひっそり、ゆっくりと消えていく過程にあるかもしれません。


<おしまい>