2009.01.01 黒磯神社:初詣
初詣で黒磯神社に行ってまいりましたヽ(´ー`)ノ
黒磯神社は那須野ヶ原が開拓された明治時代に、黒磯地区の総鎮守として建立された神社である。江戸時代末期、この付近には国道4号線の前身となった原街道が通っていたが、こちらは物資輸送専用路線であったため宿場町はなく荷物の取次ぎをする問屋のみが置かれていた。わざわざ不毛の土地に街道を通したのは、主街道である奥羽街道が一般旅行者の往来で混雑していたり参勤交代の大名行列の通過でたびたび通行止めの措置がとられたので、それを避けるためといわれている。
ここに市街地が形成され始めたのは、明治17年(1884)に国道4号線、さらに同19年(1886)には東北本線が開通し、那須野ヶ原の開拓が本格化してからのことである。東京と東北地方をむすぶ幹線道路が大きく開拓地側に移動したことで、交通の要衝としての黒磯の地位は一気に上昇することとなった。神社の建立は明治35年で、この地区の旧家である渋井家の寄進による。
地図をみると駅を起点とした町割りの様子がよくわかる。山側の開拓地側に向いた方向に主要市街地が形成され、駅前が本町、中央町である。黒磯神社はそこに隣接した一等地にあり、この付近は "宮町" と呼ばれた。
※国道4号線は開通当初は6号線と呼ばれており、史料によって多少の表記の揺れがある。
さてそんな訳で出発である。昨年までの那須温泉神社と異なり、こちらは平地なので雪はない。ゆるゆると黒磯駅方面にクルマを進めていく。
■ 黒磯神社
ここが黒磯神社の入り口である。まだ年が明けるまで20分ほどあるが、もうぼちぼちと人が集まってきていた。
おお、並んでいる、並んでいる・・・ヽ(´∀`)ノ
神社の縁起をたどると、実は戊辰戦争まで遡るらしい。実のところ下野国北部は会津と隣接して戦闘被害の特に大きかった地域である。大田原城下町も焼け落ち、日光、塩原、那須の街道筋の村々は焦土戦で火をかけられた。黒磯郷付近では大規模な戦闘の記録は見当たらないが、周囲の主要村落はボロボロ・・・というのがこの時分の状況である。
下野国での戦闘は8月〜9月には終息し、年号は明治と改まった。その年、渋井氏はここで霊験あらたかそうな大石に "家運隆昌の願" をかけたらしい。願をかけた成果かどうかは別として、その後広大な天領=那須野ヶ原は明治政府に召し上げられ、民間 (華族、士族ばかりだが^^;) に払い下げられて西洋風の大農場をモデルとした開拓事業が始まった。黒磯には国道と鉄道が通り、物流拠点としての繁栄が始まる。二束三文の価値しかなかった不毛の土地は一躍一等地となった。
渋井家がどのような商売をしたのか、あるいはどの程度の土地持ちであったのかはわからないが、開拓時代には時流に乗ってかなり経済的に潤い、"家運繁盛" したらしい。いわば 「願が叶った」 わけである。そして渋井家は新しく集まった人々の心をまとめ町の発展をはかろうと、土地/社殿を寄進し現在の黒磯神社が成立した。
開拓民の心の拠り所として神社を建立した例は西那須野の三島神社などにも見られ、当時は集落(市街)が出来ればそこに鎮守の社を置くというのが一般的だったことが伺える。
戦後教育で信仰の形態が破壊されてしまった現代にあっては、たとえニュータウンや開拓農地が造成されてもそこにセットで神社が建立されることはまずない。神社の配置をみることで市街地の新旧やその起点(旧市街)を地図上で見分けることができると言われるのは、そんなところに理由がある。
さて列に並んでしばし待つうちに、ドーン、ドーン…と太鼓が打ち鳴らされ、年が明けたことが告げられた。平成21年=西暦2009年の幕開けである。
なかなか初詣の列が進まないので 「何だろう?」 と思ってみると、最前列の人が宮司氏の祝詞と神事が終わるまで待っているようだ。参拝者はそそくさとお参りを済ませてベルトコンベア式に流れていくのが普通だと思っていたけれど、ここでは神事が終わるまで待っているのが作法らしい。たっぷり15分以上は止まっていたけれど、誰も文句を言う人はいない。…ここは、そういう文化なんだなぁ(´・ω・`)
しかも、一般参賀であって氏子でもないのにお札を無料で頂いてしまった。所変われば何とやら…で、太っ腹というか何というか…こういう神社もあるんだなぁ、としばし関心してしまった(^^;)
さて社殿脇では古いお札の炊き上げを行っていた。一見するとごみ焼却炉そのもので、写真的にはもう少し風情があるといいんだけどな…などと思ってみたり(^^;)
赤々と照らされる古神札納所…
■ 開拓者たちの出自
その横に、五角柱の 「地神様」 が祀られていた。これは四国は阿波国の神である。なぜこんなところに阿波国の神様がいるのかといえば、ちょうどこの周囲に開拓に入ったのが阿波国からの移住者だったからだ。
開拓地に全国から流動した人々が流れ込んでいく過程は、明治十年代の松方デフレに端を発する。大蔵卿松方正義が西南戦争後のインフレ対策としてデフレ政策(含:不換紙幣の回収+緊縮財政)をとったことから、農村が窮乏し余剰人口が大都市と振興開拓地へと移動(※)していった。那須野ヶ原の民間への払い下げ=華族農場の誕生も実はこの政策の資金源を確保するための国有財産(→元は徳川幕府の財産)処分の一環で、松方正義は実は那須野が原とは深い関係にある。
※この都市部に流れ込んだ余剰人員が、のちに工場労働者層となって日本の工業化を支えていくことになる
さて黒磯地区に入った開拓民に話を戻そう。彼らの出自は現在の徳島県阿南市辰巳町にある。
徳島といえば気候の温暖なところ…とのイメージがあるが、彼らの故郷である辰巳町はその中にあって那賀川と桑野川という2河川の合流する河口の砂州上にあり、たびたび洪水で大きな被害を被る地勢にあった。
そしてちょうど明治21年(1888)7月、この付近で大規模な水害が起こり、辰巳町(当時は村?)は壊滅的な打撃をうけた。デフレによって経済的に困窮していた彼らはついに復興を諦め、故郷を捨てて安全な新天地を目指す決意をするのである。翌明治22〜23年にかけて23戸が黒磯の地に移住し、長い苦労の果てに美田を拓いていったという。
彼らの物語は、子孫たちによって記念碑となり黒磯神社内に掲げられている。阿波に限らず広大な那須野ヶ原の開拓には全国から多数の開拓民が集参して現代に至っているのだが、それについてはまた機会を改めて記すことにしよう。
そんなわけで、本年もゆるゆるとやって参りますのでよろしくお願いしますヽ(´∀`)ノ
<完>
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