2009.05.09 喜連川の歴史を歩く(その2)




■喜連川城址



 
さて前振りが長かったがいよいよ喜連川の市街地に入る。普通〜にドライブしていれば全然気にも留めないで通り過ぎてしまいそうな地味な町並みだ。最近は城下町というより "喜連川温泉" で売り出していてそちらの印象のほうが強くなってしまったが、温泉は昭和56年にボーリング調査で掘り当てたもので実はそれほど古いものではない。




山城と市街地の関係は↑この図の通りである(注:下側が北)。現在では大蔵ヶ崎城址はお丸山公園として整備されており、桜とツツジの名所として有名である。

現在の喜連川城下の町割りは、喜連川足利家2代目当主:頼氏の代に行われた。ただし2代目といっても頼氏は国朝の息子ではなく弟である。文禄2年(1593)、喜連川入城早々に朝鮮出兵に赴いた初代城主:国朝は、その道中安芸国で倒れ僅か22歳で急死してしまい、急遽弟の頼氏が若干14歳で足利家を継いだのであった。19歳で未亡人となった氏姫は、頼氏と再婚した。この代から、足利家は喜連川氏を名乗ることになる。




この2代目当主:頼氏の時代に、現代に続く喜連川の基本構造が出来上がった。町割り然り、御舘然りである。要害である山城を降りて現在の市役所(旧町役場)付近に城主の屋敷を建て、街道も整備している。山城を降りたのは豊臣政権に恭順の意をあらわれかもしれないが、どのみち天下人に逆らうほどの武力など無いのだから、リップサービスを兼ねた固定費削減(城の維持費も馬鹿にならない)であったと考えるのが妥当だろうか…(^^;)

城址公園に足を踏み入れると、敷地内は割と小奇麗に整備されていた。園内のツツジは弱冠ピークを過ぎたかもしれないがまだ健在である。




さて見晴らしを得るにはスカイタワーに上ってみるのが一番だろう。…そういえば目前を通り過ぎるばかりで今まで一度も登ったことが無かったのだ(^^;)




シャトルエレベータでウンウンと登り、さらにスカイタワーに上ると城下の眺めはこんな感じである。…おお、さすがによく見えるヽ(・∀・)ノ

眼下手前が旧藩主の舘跡で、画面左下側に大手門が見えている。少々見えにくいが大手門の向こう側50mほどのところを左右に奥州街道が通っており、宿場は道沿いに広がっていた。宿場を含む平野部は幅800mほどの細長い河川敷で、向こう側に幾重にも細長い山々が連なっているのがみえる。山の高さは70〜100m前後あり、ハイキングで登る程度なら大したことはないが、軍事的に乗り越えようとすると攻撃側にとっては大きな障壁となっただろう。

遠景をみると右側を流れる荒川と、左側を流れる内川がちょうど写真中央付近で合流している。これらを天然の堀とし、さらに左右対岸の山並みを城壁として、この城は防御を固めていたわけだ。




城郭の全体像はこのような状況で、四重の空堀で堅固に守りを固めている。街道面から本丸までの高さは約70m。生活の場としては不便かもしれないが、城砦としては実にうまく出来ている。




さて足利の家は再興されたものの、まもなく秀吉は没する。やがて五大老の最有力、徳川家康が台頭すると時代は風雲急を告げ、慶長5年(1600)関が原の合戦が起こった。

このとき喜連川氏は西軍、東軍いずれにも加担せず、兵を出さなかった。しかし徳川(東軍)が勝利すると、すかさず家康に戦勝を祝う使者を出した。(このあたりが小田原の役で逃亡した塩谷惟久とは役者が違う)

当時は豊臣大名でありながら石田三成憎しで東軍についた武将もおり、家康は最大勢力ではあっても絶対的なカリスマがある訳ではなかった。そんな不安定要素を抱えていた家康にとって、この使者の訪問は多少の政治的なインパクトをもたらした。規模は弱小ながらも源氏の名家によるいち早い支持だったためである。なんとこれで喜連川氏は1000石の加増を受け、諸役も免除されるという待遇をうけた。出兵もしなかった小領主に恩賞が出たのである。




なにが家康にそのような措置を取らせたのかといえば、結局はやはり名門の権威なのであった。

喜連川家は徳川家に比べれば所領も財力も吹けば飛ぶような規模だが、家柄は由緒ある足利源氏であり、さらに遡れば八幡太郎義家にたどり着く。新田源氏を名乗る徳川も、家系を辿ればやはり八幡太郎義家に繋がり "遠い親戚" 関係に…なる筈である(´・ω・`) しかし歴史研究者の間ではよく知られたことだが、徳川家の自称する家系図はかなりムリヤリ世良田氏を経由して新田氏(源氏)につなげたもので、家格としては非常に後ろめたいのである。

ちなみに家系というのは勝手に名乗れるものではなく、朝廷に届け出てその由緒を認めてもらわなければならない。戦国大名は出自が怪しい連中も多いのだが、箔をつけるために源平藤橘など昔の適当な有名人の子孫を名乗って家系図をでっち上げ、それを足がかりに朝廷の官位 (○○守など) をもらう者が多くいた。徳川家もそんなひとつで、以前は藤原氏を名乗ったりしたのだが、三河統一の頃(三河守の官位をもらっている)から源氏の家系を主張し始めた経緯がある。しかしこれは朝廷になかなか認められずに、豊臣政権の頃までグダグダと揉めていた(最終的には渋々受理された)。




なぜ家康が源氏の名を欲しがったかといえば、征夷大将軍となり幕府を開くためには必須の肩書きだったからと言われている。武家の棟梁たる将軍職は源氏長者 (→源氏の中で最も正当な後継者) でなければならない。ゆえに徳川家が征夷大将軍の官位を得るには、まず源氏の肩書きを手に入れ、さらに家格を上げておく必要があったというのである。「下克上の戦国時代に家格…?」 というと不思議な感じがするが、征夷大将軍というのは朝廷の官職であって、あくまでも律令と前例主義に従って付与される。いかに武力があって領地が広くても、それだけでは駄目なのだ。

話を関ヶ原の合戦直後に戻すが、そのような背景があったために、事態がまだ流動的だったタイミングで "正真正銘の足利源氏の名門" が戦勝祝いに来たというのは、徳川家にとって利用価値の高い出来事だった。さらにわずか1000石とはいえ、家康から喜連川家に恩賞を "与える" という行為が政治的な意味をもった。小なれど喜連川家にはそれだけの価値があったのである。

家康はその3年後、慶長8年(1603)に念願の征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。そして "同じ源氏の名門" ということで、喜連川家を臣下としてではなく客分として扱った。これがその後の喜連川家の特別な地位と待遇を決定付けたのである。

※ちなみに秀吉は源氏の家系を持たなかったため将軍職には就けず、自らの統治機構=幕府を開けなかった。そこで朝廷の枠組み内において関白職の権限で政権を維持しようとしたのだが失敗している。
※家康は武力によらず周囲に推されて征夷大将軍になる形を望んだと言われる。そのために権威や肩書きで身辺を飾ることに余念がなく、喜連川家はうまく利用されたともいえる。





さて、そんなわけで徳川幕府の臣下ではなく客分として存続した喜連川氏であったが、何が他の大名と違ったのか。このあたりは本の受け売りなのでさらりと書いてしまおう。

1) 日本一小さな大名である
三代将軍家光の時代に大名の定義を一万石以上と定めたが、喜連川のみ五千石で大名格を認められた。普通なら旗本クラスの規模である。

2) 御所号を名乗り、十万石並みの家格で扱われた
江戸時代の大名の中で唯一、御所号を名乗ることを許された。 かつて足利将軍家の代理として関東十ヶ国を治めた鎌倉御所の尊称を受け継いだのである。 幕府の式典などでは国持ち大名 (十万石級)並みの扱いを受けた。

3) 参勤交代の義務がない
大名の中で唯一、人質も取られず参勤交代の義務も無かった。これを "国勝手" という。

4) 幕府への賦役が免除されていた
大名には家格に応じた幕府への賦役(土木工事その他の事業)の義務が課せられたが、喜連川藩のみはそれを免除されていた。 よって領民が労働に駆り出されることもなかった。

…なるほど、これはかなり特別な扱いといえる。豊臣家をムリヤリ滅ぼす一方で喜連川氏にはこれほどの待遇を許すとは、家康は天下取りにおける喜連川の協力に余程の恩義を感じていたのだろう。




■大手門と舘跡




九十九折の道を降りてくると、大手門(復元)に出た。代々の喜連川藩主の住んだ舘跡はこの付近にあり、現在は市役所(旧・喜連川町役場)、体育館、警察署などが置かれている。もとの舘は明治時代に火災に遭って焼失しており、当時の建物は現存しない。




舘跡に建つ役所の建物は歴史とか伝統とはまったく無関係のデザインなので、今回は華麗にスルーしようw




■龍光寺




お丸山公園を後にして、通り一本隔てた龍光寺に立ち寄った。ここは足利家歴代の菩提寺である。クルマを擦ってしまいそうな狭い門柱を過ぎて150mほど参道を進むと、シンプルな山門に行き当たる。




ここが足利家の菩提寺となったのは慶長6年(1601)、2代目当主足利(喜連川)頼氏の父、小弓公方足利頼純を葬って以降のことである。説明書によると下野国の安国寺だったとあるが、一般には下野薬師寺が安国寺とされているので少々不思議な感じがする。足利氏の菩提寺になったことで何か名誉号のようなものが交付されたのかもしれないが、詳細は不明である。




山門を左に折れるとすぐ奥に歴代足利氏の墓所があった。ここに足利頼純以降14代54基の石塔が建つ。十万石級扱いの御所様とはいえ実禄は5千石、この寺の寺領としては五十石程度であり、割と小ぢんまりとした印象だが手入れはよく行き届いている。




さすがに墓域に踏み込むのは躊躇されるので、周囲を囲む土塁から目の届くところだけ撮ってみる。墓石の形状の変遷が面白い。



これは奈良時代〜江戸時代中期頃まで主流だった五輪塔。下段から地水火風空を意味する石壇が積み重なる。弥五郎坂の供養塔と比べると特に水の壇の造作が異なり、本来の球形からやや四角っぽい形状になっている。これは近世(江戸期以降)の特徴で、比較的新しい墓石といえる。



こちらは明治期以降の現役の墓石だろうか。頼氏時代に喜連川を名乗り始めた城主一門は、明治維新を境に足利姓に戻し子爵に列せられた。足利尊氏から現代まで、多少途中でもつれたりするものの700年の家系が繋がっている…これは結構凄いことだ。

<つづく>