2009.05.23 那須殺生石:御神火祭 (その2)






燃え上がる大松明をバックに九尾太鼓の全景をみる。このアングルに関してはカメラポジションはここで正しいかな(^^;)

演奏自体は非常にダイナミックで、絵としてはアップ、ロングともいろいろな切り取り方ができる題材である。しかし実際の撮影コンディションは手元が暗いうえに観光客で押すな押すなの状態なので、悠長にレンズを交換しながらじっくり絵を作るなどまず不可能だ。多少暗くなっても高倍率ズームレンズ一本で勝負をかけ、カメラの感度に任せた撮り方にならざるを得ない。そんなわけで、頑張れ Nikon D300 ♪ ヽ(・∀・)ノ




さて話を九尾伝説に戻すが、都を去った九尾が那須にやってきたとされるのは、源頼朝による巻狩りがモチーフになっているらしい。伝説の原型になったと思われる玉藻前物語が成立したのは鎌倉時代のごく初期の頃(承久の乱=1221年以前)といわれている。一方、那須の巻狩りは幕府成立の翌年(1193年)のことであり、年代は非常に近い。

名目こそ "巻狩り" であるがこのイベントの本質は軍事演習である。鎌倉幕府の動員力を朝廷に向かって誇示する場であり、征夷大将軍の号令以下東国武士団の指揮命令系統を確認する場でもあった。西に於いては平家を倒し、東に於いては奥州藤原氏を倒した東国武士団が那須野で改めて集結して見せたわけで、玉藻前物語の作者はその壮大さに創作意欲を刺激されたのかもしれない。



ところで九尾を退治するため8万余の軍勢を率いて那須野を駆け巡ったと言われる三浦介義明、上総介広常は、ともに関東の有力武将であった。ただし両者とも鎌倉政権樹立に多大な功績がありながら不遇な死を遂げた人物である。

三浦介義明は相模国の三浦半島一帯に勢力をもった三浦一族の棟梁で、頼朝が平家打倒の挙兵をした早期から出陣し、関東武士の兵力結集のきっかけをつくった。ただし義明本人は伊豆の緒戦で頼朝が大敗したため、居城である衣笠城に篭城、平家方の畠山重忠に攻められて討死している(三浦一族の主力はこの間に房総半島に退いて頼朝軍に合流、ここから源氏方の反攻が始まる)。

また上総介広常は上総/下総を根拠地とする当時の東国で最大の勢力で、源平合戦では二万騎(吾妻鏡)の兵を率いて頼朝軍の中核戦力となった。しかし打倒平家よりは関東の独立に関心を持っていたようで、頼朝との路線の違いから平家打倒後に謀反の疑いをかけられ謀殺されてしまった。のちに謀反の疑いは晴れるが、既にその所領は没収されて他の御家人に分配されてしまっており、残された一族に戻されることはなかった。




こういった報われぬ死を遂げた者を物語に登場させて活躍させるというのは、古代〜中世の説話でよく見られる慰霊あるいは鎮魂の方法論である。死者が怨霊にならぬように仮初めの名誉を与えて慰めるというものだ。

ただし玉藻前物語(≒九尾伝説)は最初から最後まで一貫して登場するのが化け狐(玉藻前)だけで、その他の登場人物はロードムービーのように次々と入れ替わるため、三浦介+上総介の鎮魂の要素は主テーマとまでは言いにくい。全体としてみれば、やはり鳥羽上皇の院政+美福門院が引き起こした政治的混乱への批判、そしてそれを解決したのが東国武士団の軍事力だったということで、武家政権誕生の正当性を暗喩していると見るのが妥当のように思える。



なお退治された化け狐の死骸は京都に運ばれ、二度と復活しないようにと空舟(うつほふね)に乗せられて淀川から海へ流されたという。この怪物の処理方法は鵺(ぬえ)伝説にも類型がみられ、陰陽的…というよりは神道的な穢れと祓いの思想が見て取れる。

また退治された化け狐の腹を割くと宝物が出てきたと言われている。このとき得られた宝物は、勾玉、仏舎利、紅白2本の針(源平の武力の象徴か)であった。なんだか神道と仏教を足して2で割ったような宝物だが(^^;)、当時は神仏混交なのであまり矛盾は感じられなかったのかも知れない。このうち仏舎利は鳥羽上皇と清澄寺(上総介広常の氏寺)に、勾玉は三浦介に渡った。一方紅白の針が渡った先はなんと若き日の源頼朝である。これらの宝物は三種の神器の見立てであるとする説もあるが、そうなると針は武力を象徴する草薙の剣の象徴ということになり、やはり将来の武家政権の出現を暗喩しているといえそうだ。



ここで面白いのはラストシーンで鳥羽上皇も仏舎利を手にしていることだろう。仏舎利は密教では如意宝珠(=何でも意のままに願いを叶える宝物)と同一視されている。これを朝廷側に渡したことで、物語の作者はどうやら源氏側だけではなく朝廷側にもそれなりの威光や権威を認めているようなのである。

実はこのような政治状況は源氏三代(鎌倉初期の約30年間)のもので、この後1221年に承久の乱が起こって朝廷側が敗北すると、政治/軍事ともに実権は鎌倉幕府に移っていくことになる。ただしこの頃には幕府の実権は北条政子に移っていて、以降は執権政治になっていくのだが、物語には北条氏のヨイショ描写はない。ゆえに玉藻前物語は鎌倉初期(承久の乱以前)の成立と言われているのである。




ところで意外に思われるかもしれないが、実は "九尾の狐" は玉藻前物語には登場していない。当初、玉藻前は猫又のような二尾の化け狐として描かれており、のちにこれが九尾の狐に変化していったのである。



"九尾の狐" のモチーフが広く一般に流布されるのは、謡曲や歌舞伎の題材として大衆娯楽に取り入れられた江戸時代初期の頃と言われている。室町初期(南北朝時代)に源翁和尚が殺生石を打ち砕き、九尾の狐の怨念を成仏させたとの説話があるので、戦国期に入る頃にはもう習合していたのかも知れない。戦国初期とすると大雑把に言ってざっと500年ほど昔のことだろうか。



現在に伝わる九尾伝説は、かつての古典で語られたような政治的、軍事的な要素がすっかり抜け落ち、毒にも薬にもならない簡略化されたダイジェスト版のみが広く知られているのみ…という状況にある。この祭りで語られるのも、すっかり御伽噺(おとぎばなし)として丸められた簡略版である。しかし架空の妖怪譚とはいえ、九尾の狐の本来の物語は、案外奥が深いのである。




さて長々と付け焼刃(^^;)の薀蓄を書いてしまったが、演奏は佳境に入り盛り上がっている。現代の九尾伝説は、よりヴィジュアルなイメージで祭りのイベントとしてその存在を示しているともいえる。こういう芸能が受け継がれることで物語がより多くの人に知られ、そのうちの数%でも関心をもって伝説の背景や歴史に想いを馳せてくれれば良いと筆者は思う。



できることなら、各時代の九尾伝説の古典を現代語訳して比較した冊子などを観光協会で作ってくれると面白いのだけれど…ちょっと難しいかな(^^;)。




どんどん、どどん、どんどん、どどん♪ …くるり、くるりと入れ替わりながらの演奏が続く。




そしてクライマックスに至り・・・




ビシィッ…とポーズを決めて演奏が終わった。





祭りそのものはシンプルに演奏を奉納して終了である。実はこの他に女性陣による狐踊りも披露されたのだが、ちょうど筆者の位置からは照明の櫓が邪魔で見えなかった(^^;) せっかくなのだから大松明の正面でやれば良いのに…とは思ったけれど、そのあたりの反省は来年にでも生かしてもらえればよいだろう。

そのような次第で、今年のレポートはここまでとしたい。

【完】





■あとがき


今年も撮ってみた御神火祭ですが、細かい演出の違いはあれどだいたいの構成は同じなので、制限の多い暗いところで如何に撮影するか…というテーマで撮影するほうもいろいろ対策を考えて年に一度のチャンスに臨(のぞ)む…という場になっています(^^;)

暗い中に光源である燃え盛る炎が入ってくるので、ひとつの画面中に極端に明るいものと暗いものが同居することになり、露出には結構泣かされます。カメラのオート露出は頭が良いのか悪いのかよく分かりませんが、ちょっとした背景の明るさ(炎が入ってくると覿面)でまったく補正が変わってしまうのでかなり厄介ともいえます。結局 「下手な鉄砲数撃ちゃあたる方式」 で大量に撮影しておいて後から発掘…という前近代的な方法論が一番確実?なのかもしれませんw




ところで今回は九尾伝説についてにわか勉強した内容をいくらか盛り込んでみたのですが、意外にその物語の成立時期というのが狭い範囲で特定できそうで、平安末期〜鎌倉初期の世相を色濃く反映した "社会派伝奇説話" とでもいうべき性格をもっていたことが伺え、これは面白いテーマだな…との所感を持ちました。これは現代でいえば映画や小説に911テロやバブル崩壊などのモチーフが練り込まれて、架空の物語とは分かっていても 「ああ、一昔前のアレをモデルにして話を作ったのだな」 と分かるような、そんなお約束ごとの上に成立した話だったようなのです。

玉藻前と九尾の狐も、もともとは別個であったものが習合したような形跡があります。九尾の狐という切り口だけで起源を追っていくと確かに紀元前の中国にまで遡り、物語としての由緒とか箔のようなものは付くかもしれません。しかし話の本質としては鳥羽院の院政への批判から新しい時代への変化(→貴族政治から武家政治へ)を肯定的に予言する…といったテイストのほうが先にあって、そこに "国内の有力政治家の悪口をなるべく言わない" ための方便として外国渡来の化け狐が採用され、そこに九尾の狐が習合していった…と考えるのが妥当のような気がします。

そして化物退治に活躍するヒーローの役どころには、武家政権成立までの過程で多大な功績がありながらも不遇の死を遂げた二人の武将を登場させ、鎮魂/慰霊の意味も持たせた…というわけです。最後にちょこっとだけ登場する源頼朝は、まあ作者の鎌倉政権へのゴマすりでしょうか…(^^;)




玄翁和尚のエピソードは恐らく時期的には最後に付加されたものと思われますが、これらがセットになった九尾伝説の全体像は室町時代終盤のころには成立していたようで、江戸時代の初期(初出は1604年頃?)には既に歌舞伎の台本が作られていました。これらの積み重ねの上に松尾芭蕉の殺生石訪問(元禄2年=1689)があり、"石の香や夏草赤く露暑し" の句が詠まれています。

平安時代の絶倫男=鳥羽上皇もまさか自分の治世の不始末がこんなに後世まで影響を与えて伝説化するとは思わなかったでしょうが、そこから850年あまり経た現在この物語を聞く我々も、単なる昔話や御伽噺で片付けられないテイストが含まれることを知り、重層する歴史の香りを感じられるくらいの教養?を持ちたいものです(^^;)

【おしまい】