2011.05.15 県道30号線界隈〜長峰公園(その2)




■金沢


 
関谷を過ぎると、一路矢板市街地に向かってr30は延びていく。塩原渓谷を穿った箒川が平野部に流れ出て、那須野ヶ原の東端部を囲い込みながら流れ行くさらにその西岸側を併走する形になる。


 
この付近は牧場エリアから田園風景に景観が切り替わるところでもある。砂礫層の深い扇状地と異なって河川から水が引ける地勢になるため、このあたりの箒川沿いには幅1kmほどの細長い水田地帯が拓かれた。箒川の東岸=那須野ヶ原側が基本的に不毛の地であり、那須疏水以前の時代にあっては殆ど人も住まない状況であったのと比べると対照的といえる。

明治の開拓期以降、不毛の那須野ヶ原も那須疏水の下流域は水田開拓が進んで美田の地となった。しかし疏水より高地側では現在でも水をあまり使わない牧草地や畑作が行われている。さきほど見た日の出や千本松はその典型的な風景が見えているといえる。


 
さてそんなr30界隈を南下するとやがて金沢に至り、その南北に細長い領域のほぼ中央付近、中金沢に要金寺という仏寺が見えてくる。この付近には野沢という箒川の支流が流れくだり、水の便がよい。時期的にどのくらい遡るのかはよくわからないが、水田が拓かれたのは相当古い頃なのではないだろうか。


 
眼下にはそんな水田が広々と水を湛(たた)えている。どうやら田植えを終えたばかりらしい。

那須塩原市のアイデンティティを作り上げている近代史の記憶は、開拓の物語によってその骨子が作られている。それは合併前の領域でいえば黒磯市と西那須野町、表現を変えればかつての那須西原、那須東原という茫漠とした不毛の土地の記憶といえる。

一方、この金沢地区は関谷と並んで旧塩原町の領域にあたり、塩原温泉街から流れ下る箒川つながりでまとまっていた土地であった。…つまり、地域的に隣接はしていても、その根っこにある文化は必ずしも同一ではない。


 
現在の地図でみれば一体のように見える那須野ヶ原の領域も、こうしてみると部分的にユニークな地域を包含していることがわかる。面積としては少ないながらも、水の足りていた地域もあるのである。


 
さて地誌的な薀蓄(うんちく)はほどほどに、ではこの付近の絵的な面白さは何だよ、と聞かれれば 「電線も住宅も無い山と田園の風景」 の一言に尽きる。 もちろん人の住んでいるところなので電線の一本や二本はあるのだが、民家は山沿いぎりぎりのところにあって、河岸段丘の一番おいしい平野部分は水田に充てられているのである。ほぼ唯一の幹線道路 r30もこの民家沿いの山側ぎりぎりを通っているので、道沿いから箒川方面を眺めると、余計なもののない田園風景をみることができる。

ただ、水田というのは日本中いたるところにあるので、牧草地の広がる風景のほうが比較的希少価値があるのは事実である。個人的にはここに、水車小屋などがあってくれるとありがたいのだが…気の効いた道の駅とか、出来ないかなぁ…(^^;)
 



■矢板市内へ




田園地帯を眺めてマターリした後は、いよいよ矢板市域に入っていこう。 箒川から離れると、あたりは小高い山と森に囲まれたエリアに入っていく。




r30沿線では、矢板市と那須塩原市の境界はゴルフ場になっている。…が、さしあたってゴルフ場を紹介しても筆者にはあまり得るところはない(^^;) そこで地理的な話をして矢板という土地柄について説明しておきたい。


 
さきほど周囲に森があると書いたが、この森というのが矢板市を特徴付けているポイントである。r30を南下して矢板市に入ると、高さ100m未満の細長い丘陵が連続する地帯の中に入る。この丘陵の列は高原山系から喜連川方面に向かって延々と40kmにも渡って続いており、その昔は那須国と下野国の境界になっていた。中世には那須氏と宇都宮氏の勢力圏の境界でもあった "天然の長城" なのである。




もう少し、地図をロングに引いて見てみよう。丘陵地の幅はおよそ10kmほどあり、矢板市の市街地はその中にぽっかりと空いた盆地の中に作られている。もともとここは宇都宮氏の郎党である塩谷氏(川崎塩谷氏)の支城である矢板城のあったところで、要するに城砦跡だったところに明治期の開拓があって発展したところなのである。ちなみに矢板とは塩谷氏の家臣の名前で、城は平安末期の頃、矢板重郎盛兼なる人物が築城したと言われている。


 
…が、今回は景色を眺めるドライブなのでそれ以上の歴史談義は無しでクルマを進めていこう。ここではひとまず矢板=なだらかな丘陵の連続するところと思っていれば良い。

さて r30で矢板に入ると、細い回廊のような地形を抜けていく。耕地はいずれも狭いが、沢水が豊かで、あまり水で苦労している印象はない。余談ながらこの付近は明治期に山県有朋が開拓した農地になる。…が、これも話を始めると長いので今回は省略しよう。




そんな訳でまもなく市街地に入った。目指す長峰公園はもうすくだ。



 

■長峰公園


 
さていよいよ長峰公園である。公園は市街地の北西端にあり、延々40kmに渡って続く喜連川丘陵の山のひとつにその一端を引っ掛けるように作られている。地元の方に聞いたところによれば、明治の開拓期に入植者の憩いの場所が少ないとのことから公園の整備が始まり、周辺の山々からツツジの自生株を移植して "ツツジ山" を作ったのだという。

ツツジの名所というのはたいてい山奥や交通の不便なところにあるものだが、この長峰公園は東北本線の矢板駅から徒歩10分という立地の良さもあってか、大正時代には関東でも有数の名所として知られるようになったらしい。


 
前振りはそこそこに、ともかく園内に入ってみよう。見ればなかなか小奇麗に整備されている。

公園の案内板には 「里山」 の表記があった。伸びるがまま、繁茂するままの原生林とは異なり、人が手を加え管理することで成立している人工林のことである。そういう意味では日本の森林はほとんどが里山ということになるのだが、林業の山と農村の山とではその性格が異なり、日本人の心象風景にある 「里山」 とはたいていの場合農村の周辺にある雑木林などを指している。堆肥や薪に使うため落ち葉や下草が回収され、また柴などが刈られるため、その様相は木漏れ日の差す明るい樹林となっていることが多い。

就農人口の減少と化学肥料の時代となった最近の世相ではそれもだんだん危うくなっているようだが、公園周辺ではさすがに管理は行き届いているらしい。


 
公園の南側はグラウンドになっていて、子供たちが思い切り駆け回っていた。最近はキャッチボールなどは流行らないようで、どうやらサッカーボールでパス回しをして遊ぶのが今どきの小学生の流儀らしい。そして飛んだり跳ねたりするのに忙しい彼らは、園内に咲く花などにはまるで興味など無さそうなのである。

…まあ隠居老人よろしく渋茶をすすりながら 「今年も花が美しいのう」 などと花鳥風月を愛でる小学生がいたらそれはそれでイヤなので(笑)、ここは Let it be で軽くスルーしておこう。


 
肝心のツツジはというと…おお、北半分を占める山の部分が真っ赤に染まっているヽ(・∀・)ノ


 
とりあえず人の列についてツツジ山を散策してみることにしよう。 それにしても…やはりというか、花を愛でているのは圧倒的に大人であって、子供の姿は少ない。まあ世の中、そんなものだろうな(^^;)。


 
足元には芝桜を植えたようなエリアもあるのだが、こちらはカオス気味で雑草天国になりつつあった。芝桜はそろそろ花の盛りの終わり頃で、これを見るなら時期が遅かったということかな。


 
ツツジの方は文句なく満開とである。那須でツツジというと八幡のツツジ群落などが有名だが、あちらは標高が高いので5月も末にならないと見ごろにはならない。平野部でツツジ群落を見ようと思うと、規模的にはやはり長峰公園がよいチョイスであるように思う。


 
さて上に搭のオブジェが見えるので登ってみようと思ったのだが…


 
なんと地震で地盤が緩んで一部崩れているようで、通行止めになっていた。


 
何箇所か登れそうなところを探してみたのだが、いずれもアウトらしい(^^;)。まあ…東那須野公園の壊れっぷりも見ているので、ここは素直に引き下がるとしよう。…ちょっと残念ではあるけれどもねぇ。


 
そんな訳で展望台には到達できないので、通行止めぎりぎりの高さから遠景を見てみた。ここからだと日光の男体山、女峰山が良く見える。そこに、ツツジと桜。…なるほど、こうしてみるとこの公園が何を目指して作られたのかが何となくみえてくる。あの山々を借景に、庭園風の作りを目指したということなんだな。


 
まだ自家用車の普及していない戦前=鉄道黄金期には、駅から徒歩十分という立地は鉄道でちょっと花見気分を味わうにはもってこいのスポットだったことだろう。現在の鉄道事情からはちょっと想像しにくいかもしれないけれど、戦前の栃木県内には幾つものローカル線網があって、鉄道を乗り継いで長峰公園に出かけるというのは丁度よい距離感の日帰りレジャー足りえた。蒸気機関車で駅弁などを頬張りながら…などとノスタルジックな情景を想像すると、実に正しい "古き良き日本の休日風景" が浮かんでくる。

これは単に "ツツジを植えました" というだけではなく、鉄道と組み合わせたプロモーションという公園設計当初の狙いがピタリとはまったということなのだろう。適度に風光明媚な2000m級の山々に近く、鉄道が通っていて、起伏の多い丘陵地帯の一角であり、さらに周辺の山々にツツジの自生株が大量にあって植樹の自己調達が可能…という矢板の立地特性によく合ったアイデアの賜物ともいえそうだ。


 
現在ではかつて周辺を走っていたローカル線網は次々と廃止されてしまい、やってくる客もクルマでの移動が主になった。そういう筆者もクルマで南下してきたクチなので、鉄道で到達する距離感というのがあまり実感できていない。


 
しかし見事な花具合は現在でも何ら変わることがない。開園当時に周辺の山々から取ってきて植えたというツツジは、今では園芸品種も含めて50000本ほどにも増えた。林間を巡って散策すると、もうそこらじゅうがツツジの赤で染まっている。 ここまで徹底すると壮観だな。。


 
ところで残念なことを知った。あとで聞いたところによると、なんと昨日が 「つつじ祭り」 であったらしいのである。事前にちゃんとチェックしておけば祭りも見ることができたのだが…惜しいことをしたなぁ( ̄▽ ̄;)


…という次第で、今回はここまでとしたい。


<完>